2025年9月号

2025/08/01

【NEW】無可動実銃に見る20世紀の小火器199 Steyr TMP

 

 

シュタイヤーアームズが、これまでどのような歴史を辿ってきたのか、正しく認識している人はあまり多くないのではないだろうか。162年に及ぶ同社の歴史を紐解くと共に、優れた性能を持つものの、ほとんど活躍することなく表舞台から消えてしまったサブマシンガンTMPについて、詳しく解説する。

 

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Introduction

 Steyr Armsは長い歴史を持つ、オーストリアを代表する銃器メーカーだ。銃に興味がある人なら、誰もがその存在を知っている。しかし、シュタイヤーアームズがどのようなメーカーであるのか、正しく認識している人はあまり多くないのではないだろうか。
 旧Gun誌から読んで頂いている古くからの読者であれば、“シュタイヤー”より“ステアー”という呼称がお馴染みかもしれない。旧Gun誌はずっとそのように表記してきたので、同社の代表的機種であるAUGがエアソフトガンで複数のメーカーから発売された際には、ほとんどのメーカーが“ステアーAUG”という商品名を付けた。この“ステアー”という発音は、Steyrのアメリカ英語読みである“ステイアー”に比較的近いものだ。
 シュタイヤーのISSF系競技用エアピストルは1990年代以降、高いシェアを獲得しており、それは現在でも変わってはいない。日本のエアピストル射撃競技の分野でもこれは例外ではなく、ユーザーは多い。そして精密射撃の世界で同社は“ステイヤー”と呼ばれている。これは、ドイツ語の発音に近い。
 シュタイヤーのハンティングライフルはSteyr Mannlicherとして知られていた時代が長かった。そのことから同社のハンティングライフルを日本ではシンプルかつ短く、“マンリカ”と呼ぶ場合が多い。いつ頃からこの呼称が使われるようになったのかはわからないが、“マンリカ”は日本の狩猟界に定着している。これはMannlicher(マンリヒャー)の英語読みである“マンリカー”から来たものだろう。但し、近年シュタイヤー・マンリヒャーの社名変更により、 “マンリカ”という呼称も過去のものになっていくだろう。
 SteyrについてGun Professionals誌では、オーストリアの公用語であるドイツ語の発音に比較的近いと思われる“シュタイヤー”または“シュタイアー”と表記してきた。
 このようにメーカーの名称が分野毎に違う不統一のまま、現在に至っているのは、同社について、詳しく紹介される機会が少なかったからだと思っている。実際のところ、シュタイヤーは優れた製品を数多く開発してきたメーカーであり、その製品はもっと注目されてよいのではないだろうか。軍用火器の分野ではSSG69, AUG以降、大きなヒット作に恵まれていないが、どの製品も完成度はかなり高い。またハンティングライフルのカテゴリーには魅力的な製品が数多くラインナップされている。
 そんなシュタイヤーアームズに2024年、大きな動きがあった。
2024年4月23日、Robert Schönfeld率いるチェコの民間投資グループRSBCホールディング(RSBC Holding a.s.)がシュタイヤーの株式100%を取得、同社を傘下に収めたのだ。RSBCホールディングは1998年に設立され、主に不動産、並びにプライベートエクイティ(未公開株式)に対する投資をおこなうと共に、投資ファンド、ウェルスマネージメントなどで実績を積み重ねてきた。
 RSBCは今月号でTerry Yanoさんがご紹介しているスベロニアのAREXも2017年に傘下に収めており、今回のシュタイヤー買収は、新たに小火器関連事業でのポートフォリオ拡充を目指すものだといえるだろう。実際に、“今後シュタイヤーの国際的市場地位強化を図る”と宣言している。だとすると今後のシュタイヤーには新たな展開が期待できるかもしれない。

 

Steyrの歴史
はじまり

 シュタイヤーは長い歴史を持つ銃器メーカーだ。まずは同社の歩みを改めて確認してみたいと思う。かなり長くなるがお付き合いいただきたい。
1864年4月16日、ヨーゼフ・ヴェアンドル(Josef Werndl:1831-1889)は、オーストリアにJosef und Franz Werndl & Company Waffenfabrik und Sägemühle(ヨーゼフとフランツ・ヴェアンドル兵器工場兼製材所)を設立した。この正式名称の他、Waffenfabrik Steyr(シュタイヤー武器工場)というシンプルな呼称も当時からこの会社に対して使われていたようだ。この工場はシュタイヤー川とエンス川に挟まれた “シュタイヤー”と呼ばれる地域にあり、この呼称はその地名に由来している。
ヨーゼフ・ヴェアンドルは、技術責任者であるカール・ホルブ(Karl Holub)が設計した11.15mm口径のブリーチローダー(後装式)ライフルを、オーストリア・ハンガリー帝国軍に提出した。これが1867年7月28日に、モデル1867として採用が決まる。ヴェルンドルは10万挺の注文を受領、これが数ヵ月後には15万挺に跳ね上がった。そして最終的な受注は60万挺という膨大なものとなる。
 その生産をおこなうべく、ヴェアンドルは工場規模を拡大、従業員を増強し、その社名をÖsterreichische Waffenfabriksgesellschaft(オーストリア武器製造会社:略称ŒWG)とした。

▲Österreichische Waffenfabriksgesellschaft のロゴ ŒWG  はCEWGではない。OとEがくっついて Œ となっている。


 このライフルはtabernacle action (ターベナクルアクション)と呼ばれるもので、ヴェアンドルは海外からの銃器オーダーを積極的に受けいれ、工場の生産規模をどんどんと拡大させていった。その結果、従業員数6,000名、生産数8,000挺/週を超えるまでになっていく。
 その状態が約10年続いた後は、一転して需要が低迷、ŒWGの業績は急降下した。

 

第一黄金期

 しかし、この時代は銃器が日進月歩を続けた時代だ。1885年、銃器設計者フェルデナント・マンリヒャー(Ferdinand Mannlicher)はストレートプルアクションライフル、モデル1885を開発した。これは11.15×58 mm Rの黒色火薬弾薬を使用する5連発のライフルで、ŒWGがこれを製造、当時これはMannlicher System(マンリヒャーシステム)と呼ばれ大いに注目を集めた。いよいよ、連発ライフル時代が始まったのだ。
 オーストリア=ハンガリー帝国はその改良型であるモデル1886を採用、その他にも多くの国がマンリヒャーシステムを欲したため、ŒWGは、活気を取り戻し、1889年には従業員数10,000名を超える規模に拡大していった。
  またこのマンリヒャーシステムの開発で、設計者であるマンリヒャーは3級鉄冠勲章(3rd class of the Order of the Iron Crown)を授与され、Ferdinand Ritter von Mannlicher(フェルデナント・リッター・フォン・マンリヒャー)と呼ばれるようになった。vonの称号を手に入れ、貴族の仲間入りを果たしたのだ。
 1886年にオーストリアは無煙火薬弾8×50mmRを採用、軍用ライフルはマンリヒャーシステムのまま、この新型弾薬に適合するモデル1888に切り替わった。
 この時代のマンリヒャーライフルは独得のエンブロック(en bloc)クリップを使用してカートリッジをロードする方式だった。エンブロッククリップはエジェクションポートから5発のカートリッジをくわえ込んだまま、マガジン部に挿入する形式だ。そのエンブロッククリップは最終弾をチェンバーに送り込むとマガジンボトムから下方向に自動的に排出される。この装填方法の最大の欠点は、完全に撃ち切る前に、途中で弾薬の補給することができないことだ。
 それでもオーストリアだけでなく、多くの国がマンリヒャーシステム、および無煙火薬対応のライフルを欲したため注文が殺到、1889年にはŒWGの従業員数は10,000名を超える規模に拡大していた。
 その状態の中、1889年4月29日、創業から25年に亘って同社を牽引してきたヨーゼフ・ヴェアンドルは肺炎により、突然他界してしまう。しかし、波に乗ったŒWGの事業はその後も順調に拡大を続けた。
 この時期、ŒWGはシュワルツローゼ(Andreas Wilhelm Schwarzlose)の開発したシュワルツローゼマシンガンの製造事業を受注、このマシンガンも多くの国に供給された。
 この時代のŒWGは、マンリヒャーシステムだけではなく、通常のターンボルトアクションとオットー・シェーナウアー(Otto Schönauer:1844-1913)が開発した回転式スプールマガジンを組み合わせたマンリヒャー・シェーナウアー(Mannlicher- Schönauer)ライフルも製造供給した。但し、これは軍用としての需要は限定的で、主に狩猟用として供給されたものだ。
 ŒWGはその事業範囲を銃器分野に留めたりはせず、1894年に自転車の製造にも進出した。これはイギリスの自転車メーカーSwiftからライセンスを取得、Waffenradというブランドで自転車を製造するというものだ。
 発展を続けるŒWGは、1912年から2年を掛けて更なる工場拡張をおこなった。そして従業員規模を1万5千名にまで拡大している。そこに第一次世界大戦が勃発、ŒWGは大増産で対応した。この時のオーストリア=ハンガリー帝国軍の軍用ライフルはM1888の発展改良型であるM1895だ。この銃は1918年までに300万挺以上が量産されている。
 またŒWGは1916年に自動車の生産も開始した。創業からこの頃までがシュタイヤーの第一黄金期だといえるだろう。

 

低迷

 しかし、ŒWGの発展は、オーストリア=ハンガリー帝国が第一次大戦に敗れ、1918年に崩壊したことで終わりを告げた。新たに成立した国家、オーストリア共和国は、国土が従来の1/4となり、その経済は危機的状況に陥ってしまった。
武器の製造にも大幅な制限が加えられた中、ŒWGは社名をシュタイヤー・ヴェルケ(Steyr Werke AG)と変え、車輛生産にその軸足を移していく。そして1934年、自動車メーカーAustro Daimler Puch Werke AGと合併し、シュタイヤー・ダイムラー・プフAG(Steyr-Daimler-Puch AG)となった。

 


 かつては華々しく銃器生産をおこなってきたシュタイヤーは、もはや見る影もない状態となった。依然としてライフルの生産を続けたものの、歴史に名を留めるようなものは開発していない。
 1938年のドイツによるオーストリア併合は、銃器メーカーとしてのシュタイヤーにとってプラスに働くことはなかった。ナチスはシュタイヤーに軍用車両の製造を求め、1942年以降は航空機用エンジンの製造に注力することとなった。そして同社の主力工場から銃器生産設備が撤去されてしまう。
 第二次大戦中に製造されたKar98kにbnz.と秘匿コードが打たれているものがあり、これはシュタイヤー製だ。bnz.刻印のKar98kは1940年に始まり、1945年まで製造が続いた。このKar98kは1942年以降、シュタイヤーの主力工場ではなく、生産設備を移転させたMolln(モル)の工場で生産されたものだ。
 そして戦争が終結する。ドイツが第二次大戦に敗北したことで、オーストリアはドイツから離脱することになったが、連合国によって分割占領されてしまった。シュタイヤーの地域を占領していたのはアメリカ軍だが、当然、銃器生産など望むべくもなかった。
 1950年、依然として連合国に占領されていたオーストリアで、スポーツ用の銃器生産が可能となった。この時、シュタイヤーで製造されたのは、かつて盛んに製造していたマンリヒャー・シェーナウアーライフルだ。
 その5年後、1955年、オーストリア国家条約の締結・発効によってオーストリアは共和国として主権を回復する。

 

第二黄金期

 1958年、シュタイヤーでFN FALのライセンスモデルであるStG58の生産が開始された。この時、シュタイヤーは軍用銃製造メーカーとして復活を果たしたわけだ。
 そして1969年、シュタイヤーは、傑作といわれるスナイパーライフル、SSG69(ScharfSchützenGewehr 69)を完成させた。このライフルはシンセティックストックを用いた高精度なスナイパーライフルで、それまで存在したスナイパーライフルとは一線を画す存在だった。オーストリア陸軍もこの銃を採用し、多くの国の法執行機関や軍もこれを採用している。
 1975年、シュタイヤーは全く新しいアサルトライフルの開発に動き出した。Armee Universal Gewehr(AUG)と呼ばれたこの新しいライフルは、開発当初からブルパップデザインとすることを目指したもので、1977年に完成、オーストリア軍はStG77としてこれを採用している。
 ストック、グリップ、トリガーガードは一体のポリマー樹脂素材を採用、まだサイトシステムはレシーバーと一体化された1.5倍の光学照準器という画期的なものだ。このAUGはポリマー樹脂を多用したブルパップアサルトライフルの傑作として、オーストリア軍をはじめ、オーストラリア、マレーシア、ニュージーランド、アイルランドなど多くの国の軍が採用した。このAUGを生み出した時代がシュタイヤーの第二黄金期に当たるだろう。
 しかし、軍用銃の製造事業には悩ましい問題がついて回る。一国の軍隊にそれが採用された場合、数年以内に大量生産して全数を納入する必要があるということだ。その間は多忙を極め、生産ラインを整備増強し、多くの作業者を必要とするが、納入完了と同時に仕事が無くなってしまうのだ。多くの国からの受注を短期間で受けた場合、この問題はさらに大きくなる。おそらく1980年代後半から90年代の初めにAUGの生産ラインにこの問題がのしかかってきたはずだ。

▲Steyr AUG A3 SA M        AUGの最新民間仕様モデル Images Courtesy of Steyr Arms 

 

流転

 1980年代後半、シュタイヤー・ダイムラー・プフAGでは大規模な組織改編がおこなわれた。自動車とモーターサイクル事業はカナダのMagna International(マグナ インターナショナル)に吸収され、Puchの商標と自転車事業はイタリアのPiaggio &C.(ピアッジオ& C)が買い取った。銃器製造部門は1989年、Steyr Mannlicher AG(シュタイヤー・マンリヒャー)として独立している。

 

▲Steyr Mannlicher AGロゴ


 その後、シュタイヤー・マンリヒャーはオーストリアのCreditenstalt Bank(クレディタンシュタルト銀行)の所有となった。
 同時期にシュタイヤー・マンリヒャーでは競技用エアピストル、およびエアライフルの開発がおこなわれている。おそらく、軍警察用火器、狩猟用ライフルなどとは違う、新たな事業を立ち上げることを目指したのだろう。
 そして1989年、競技用エアピストルとしてLP1が完成した。当時はCO2を用いる製品であったが、競技シューターの間でこの銃は高く評価された。1990年代に入り、パワーソースが大きく変わり、CO2から高圧エア(Pre-charged pneumatic:PCP)を用いるものが主流になる。それでもシュタイヤーの製品は高い評価のまま推移した。
 2000年にクレディタンシュタルト銀行はシュタイヤー・マンリヒャーの売却に動き出す。そして2001年、競技用エアライフル、エアピストル部門がSteyr Sport GmbHとして分離独立した。またシュタイヤー・マンリヒャーの工場のある敷地をBMWに売却することが決定する。製造拠点を売却することは、メーカーとして存続に関わる問題だ。
 そのような中、2001年6月22日にオーストリアのCura Investholding GmbH(クーア・インベストホールディング)がシュタイヤー・マンリヒャーを買った。同社はウィーン・ノイシュタットに拠点を置き、中規模企業の再編を専門としていた。同社のオーナーであるWolfgang Fürlinger(ヴォルフガング・フューリンガー)は熱心なハンターであり、シュタイヤー・マンリヒャーを収益性の高い企業にすることを目指した。
 今回のテーマであるTMPの製造権が売却されたのもこの時だ。工場を失ったシュタイヤー・マンリヒャーは新たなオーナーの元、Ramingtal(ラミングタール)に新工場を建設する。2004年のことだ。
 しかし、クーア・インベストホールディングは2007年、シュタイヤー・マンリヒャーをDr. Ernst Reichmayr (エルンスト・ライヒマイヤー)とGerhard Unterganschnigg(ゲルハルト・ウンターガンシュニク) のSMH GmbHに売却する。おそらく思うような成果をあげられなかったのだろう。
 SMH GmbHはシュタイヤー・マンリヒャーを新たな方向に導いた。ラインメタルと提携させ、AUGとは異なる新たなアサルトライフルの開発を目指したのだ。その結果として作られたのがRS556だ。
 2019年1月1日、シュタイヤー・マンリヒャーはその社名をSteyr Armsに変更している。なぜこれがおこなわれたのか、その理由はわからないが、120年以上前の設計者名を社名に冠することに疑問を持ったのかもしれない。

 

▲Steyr Arms ロゴ


 SMH GmbHはRS556をG36後継機としてドイツ軍に採用されることを目指していたらしい。しかし、それは叶わなかった。ドイツ軍がヘッケラー&コッホ HK416A8をG95として採用することを決めたのだ。
 そして2024年4月23日、冒頭で書いた通り、チェコのRSBCホールディングがシュタイヤーを買収、現在に至っている。これが新たな黄金期の始まりとなるのか、それはまだわからない…

 

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