2025/10/22
製造初期の息吹を伝える小石川製三八式騎兵銃――無可動実銃で見る日本銃史
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この1挺は戦うために作られてきた本物の銃だ。
数奇な運命に導かれ、今はこの日本という平和な地で静かに眠っている。
発射機構を排除され魂を抜かれても、その銃の魅力が廃れることはない。
時代と共に歩んだ歴史を、培われた技術体系を銃はその身を持って示してくれる。
その姿は銃に魅了された我々に新たなる知見をもたらすことだろう。
さあ、今回も無可動実銃のことを語ろう……。
日本陸軍の武器開発の父たち
明治維新後、創設したばかりの明治政府では兵器の整備が急務であり、国産軍用小銃を求める声が高まっていた。まずは村田経芳が村田銃を設計し、次いで有坂成章が三十年式歩兵銃の開発に成功する。この三年式歩兵銃を改良し、三八式歩兵銃を誕生させたのが南部麒次郎だ。わずか25年ほどで世界のトップレベルの小銃を作り上げた背景には多くの戦争の犠牲と3人の偉大な開発者の力があったからであろう。
特に南部麒次郎は1905年から1944年までの39年間も生産され、日本の国産銃としては最多の三八式歩兵銃を筆頭に南部十四年式拳銃や一〇〇式機関短銃といった名だたる日本の軍用銃の生みの親でもある。戦後は自らの銃器製造会社である中央工業は新中央工業株式会社として復活し、南部の死後に開発された拳銃にはニューナンブと南部の名前が継承されるほどである。本格的な日本の銃器開発はこの3人によって作られていたのだ。
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- 全長:966mm
- 口径:6.5mm×50
- 装弾数:5発
- 価格:¥396,000
- 商品番号:【8946】
日本軍が求めた完成されたライフル
三八式歩兵銃の基になった三十年式歩兵銃は初めて性能が世界基準に追いついた日本の小銃であったが、日露戦争時において数々の欠点が露わになった。これまでの欧州製小銃のコピーから、より日本の国情に合った小銃の必要性が重視され三十年式歩兵銃の開発にも関与した南部麒次郎が中心となって大幅な改良が加えられた。命中精度や威力の強化は同一の口径ながらも新たに弾頭を尖頭化した三八式実包が採用され、弾速の向上と弾道の低伸性が増し命中率が向上した。またモーゼルタイプの機関部は構造が複雑なうえ、分解結合の際に撃針が折れるトラブルや、戦地の厳しい気候風土では細かい砂塵が機関部内に入り込み作動不良を引き起こした。こうした欠点に対し機関部の構造を簡素化し、遊底のロッキングラグと撃針の強化、エキストラクターの形状変更を行ない、ボルトを構成する部品点数は5個となり、当時の主流であったモーゼルタイプの8個より少なく構成されている。
製造の簡略化と三十年式歩兵銃の製造工程を受け継いだことで三八式歩兵銃はスムーズに切り替えられ、2年ほどで更新を完了している。これに伴い騎兵用の騎銃として全長を約300mm短くしたものも作られたが、このモデルは騎兵より砲兵や輜重兵といった支援部隊や日本海軍空挺部隊の主力小銃など騎兵以外でも幅広く使用された。三八式歩兵銃は昭和14年に7.7mm口径の九九式短小銃に取って代わる予定であったが、緊迫した情勢と国力の限界から全面更新することはできず、三八式歩兵銃を主力としたまま太平洋戦争に突入し終戦まで戦い続けた。生産は終戦を気に完全に終了したが、戦後も現地で武装解除されたものがそのまま使用された例や、海外の愛好家が収蔵しているほか、アメリカではスポーツライフルとして流通され外国製の弾薬は現在でも流通している。
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TEXT:IRON SIGHT
この記事は月刊アームズマガジン2025年11月号に掲載されたものです。
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