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2025/05/13

昭和大好きかるた 時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る 第27回「ひ」

 

時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る

 

第27

肥後守(ひごのかみ)

 

 令和となってはや幾年。平成生まれの人たちが社会の中枢を担い出すようになった今、「昭和」はもはや教科書の中で語られる歴史上の時代となりつつある。
 でも、昭和にだってたくさんの楽しいことやワクワクさせるようなことがあった。そんな時代に生まれ育ったふたりのもの書きが、昭和100年の今、"あの頃"を懐かしむ連載。 

 第27回は、刃物専門編集者の服部夏生がお送りします。

 

 

 今でこそ「刃物専門編集者」を名乗っているが、20代で専門誌の編集者になるまでは、刃物の知識はほぼなかった。
 なんていうか、好感は持っていた。


 でも、アウトドアや木工に親しまず、歴史やミリタリーにも疎かった。包丁すら大学生になって一人暮らしを始めてからようやく握ったというインドア派である。刃物に親しむ機会が圧倒的に少なかった。

 

 

子どもの時にナイフで指を切った経験

 

 そんな僕でも、子どもの頃には小さな折りたたみナイフを持っていた。


 鉛筆削り用に親から買い与えられたものだったが、ものすごく気に入っていた。プラスチック製の柄は5月の青空みたいな色だったし、刃は切れ味が良くて鉛筆がじゃんじゃん削れた。
 こいつは最高じゃないか。 


 そのナイフは、僕にとって大事な相棒となった。


 ある日思い立った。どれほどの性能を秘めているのか、試してみようじゃないか。
 紙を重ねて切りわけていった。


 1枚、2枚とすいすいと切れていき、僕はいい気分になった。
 7〜8枚くらい重ねると、切れなくなった。


 あれ、と思った僕はノコギリの要領で前後にナイフを動かした。
 奥に押し込んだ途端に刃が閉じた。


 そして、柄を強く握った右手の人差し指に切り込んできた。
 刃を固定するロック機構がないナイフだったのである。


 慌てて刃をのけたが、遅かった。
 全ての動きが止まったような瞬間ののち、真一文字に入った傷口から血が溢れ出てきた。同時に痛みが湧き上がってきた。近くにあったタオルを指に当て、それがたちまち赤く染まっていくのを見ながら、どうしようと思いながら、身動きが取れずに固まっていた。


 おりよく母親が買い物から帰ってきた。超早口で事情を説明すると、傷口を見て、あー大丈夫、大丈夫、と言いながら、昭和キッズたちが怪我した際の定番処置「消毒&絆創膏」をしてくれた。消毒液が沁みてめちゃくちゃ痛かったけれど、なんとかなりそうだと安心した。


 その後のことは覚えていないが、よく切れるナイフだったから傷口も滑らかで、すぐになおったはずだ。今から思えば、安物の鉛筆削り用の小型ナイフに、子どもの力である。母親がひと目見て大丈夫といったように、よくある子どものやらかしだった。
 でも僕にとっては、大事件だった。


 刃物って怖いんだな。落ち着いてから、そう思った。
 ただし、そんなことで相棒のことを嫌いになるはずもなく、次の日からちょっとおっかなびっくりだけど使いつづけた。その後も美術の授業で彫刻刀を思いっきり指に突き刺したりもしたが、へっちゃらだった。


 指を切った体験から、超えたらいけないラインが、なんとなくわかっていたからだと思う。若い時に数多く喧嘩をしていると、これ以上どついたらいけないラインがわかるという話を聞いたことがあるが、感覚としてはそれに近い。要するに使い方を覚えたのである。

 

5月の空みたいな色のナイフはどこかにいってしまったが、新たな相棒が今の僕のそばにいる

 

 僕が大人になるまで、刃物に親しむことがなかったのは、ひとえに自分の趣味趣向が「鉄道」「写真」「小説」という陰キャ3トップへ全振りしていたからである。 

 

 

刃物を持たせよう運動

 

 今回のお題の「肥後守」は、日本の伝統的な汎用折りたたみナイフである。


 真鍮を折り曲げた柄と、刃の付け根にある「チキリ」が大きな特徴である。チキリを親指で押さえることで、使うときに刃を固定できる。シンプルだが理にかなった安全装置を持ったナイフで、これを僕より年上の昭和キッズたちは、日常的に使っていた。

 でも、ある時から子どもたちから刃物が遠ざけられるようになった。


 昭和には「刃物を持たせない運動」というものが存在したのである。


 きっかけは、昭和35年に起こった浅沼事件だ。17歳の少年が演説中の政治家を衆人環視の中で刺殺した事件は、世間に衝撃を起こした。たちまち、判断の未熟な子どもたちに刃物を持たせないようにする刃物追放運動が全国で起こった。それまで、どの子の筆箱にも入っていた肥後守が姿を消して、子どもたちの刃物に触れる機会が激減したとされている。


 確かに、昭和48年生まれの僕の子ども時代には、学校に刃物を持って行く子はいなかった。追放運動の賜物である。
 専門誌の編集者となって、気になったのは、やっぱりそこだった。


 刃物に親しむ親しまないは個人の自由だ。でも、触れる「機会」を与えられないのは、おかしい。体験もないままに大きくなって、馬鹿力で間違った使い方をすれば、大怪我につながる。
「ドジでのろまな亀」だった僕が、どうにか大人になった今、やるべきことは「刃物を持たせよう運動」の啓蒙じゃねえか、それがかつての相棒「青空ナイフ」への恩返しじゃねえか、と思った。


 その意気やよし。


 そのまま政治家になって全国の小学校でナイフを使う授業を取り入れるようにしたら、没後に銅像くらい立つかもしれない。だが、遂に立ち上がることなく、出版界の片隅で「刃物はいいぜ」って本をつくりながらイタズラに歳を食ってしまうのが、僕という人間である。


 でも、啓蒙記事をつくる中で、いくつか素敵な体験もした。

 

現在は兵庫県三木市にある「永尾かね駒製作所」のみが純正の肥後守を制作している

 

「ねえ、怪我とかしたことある?」
 子どもに肥後守を使わせているある教育機関(貴重な活動をするその組織に迷惑がかかってほしくないから、匿名で勘弁してほしい)を取材したときだった。


 事故なんてありませんとお経のように唱える指導者の目を盗んで、僕はひとりの子に質問した。


「ある」


「痛かったよな」


「まあね。でも大したこっちゃないよ」
 その子はニコッと笑って、器用に肥後守を操って教材の木を削った。


 なんだよ昭和の俺と同じじゃねえか。ていうか百倍ちゃんとしてんじゃねーか。
 僕は嬉しくなった。
 刃物に限らず、道具とはすべからく人間の手の「延長」である。自分の体でない以上、それを使う際には「危険」だってセットでくっついてくる。


 使いこなすか、遠ざけるか。


 答えが出る議論ではない。
 でも僕は、その少年みたく、時に痛い目に遭いながら、自分の体で道具を操って、イカしたものを作っている方が、なんていうか、より身の丈にあった生き方ができるような気がする。
 


肥後守 研ぎができたら 一人前
 

 

TEXT:服部夏生

 

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