2025/04/15
昭和大好きかるた 時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る 第25回「の」
時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る
第24回
の
ノムさん
令和となってはや幾年。平成生まれの人たちが社会の中枢を担い出すようになった今、「昭和」はもはや教科書の中で語られる歴史上の時代となりつつある。
でも、昭和にだってたくさんの楽しいことやワクワクさせるようなことがあった。そんな時代に生まれ育ったふたりのもの書きが、昭和100年の今、"あの頃"を懐かしむ連載。
第25回は、刃物専門編集者の服部夏生がお送りします。
昭和48年生まれの僕が子どもだった頃、ナショナルパスタイム(国民的暇つぶし)といえば、プロ野球一択だった。
個性的な解説者だらけの昭和プロ野球
シーズン中は毎晩どこかのテレビ局がプロ野球中継をやっていて、僕はブラウン管の向こうで繰り広げられる試合を手に汗握って観戦していた。
生まれも育ちも名古屋だから、推しは中日ドラゴンズだった。基本は彼らの試合の中継にチャンネルを合わせていたのだが、中継のない日もあった。
そんな日はドラゴンズ以外のチーム同士の試合を観ることとなった。
贔屓のいない試合に熱狂はなかった。でも適度に距離がある分、純粋に野球観戦を楽しめた。
そうなると気になってくるのが解説者の存在である。大抵はアナウンサーの質問に応える形でプレーや戦術の意味を無難に説明していたが、何人か異彩を放つ人たちがいた。
金田正一という人は解説者なのに解説は一切しなかった。
「江川はね、鐘と太鼓を叩いて先頭に立てる選手なんですよ」
「ストレートを投げてストライク!! カウントツーツー。金田さんここは」
「だから鐘と太鼓ですよ、皆を引っ張っていかにゃならんのです。ワシなんか(以下略)」
すごい投手だったのだ、と大人たちが教えてくれたが、アナウンサーとまるで噛み合わないトークは、独自の価値観と自慢話に満ちており、正直、試合に没頭できなかった。
後年、野茂英雄が登場した時は「ワシは160km/hの球を放った」、松坂大輔の時は「ワシは170km/h」、ダルビッシュ有は「180km/h」と、大物投手が出るたびに自身の球速を10km/hずつ上げていくこととなる”カネやん”の話芸を楽しむには、小学生の僕はあまりに幼なすぎた。
スコアブックに向かわさせてくれた月見草
対照的だったのは野村克也という解説者だった。
「この場面はね、外角低めにはずして空振りを誘う」
「低めのスライダーを投げてバッター空振り!! カウントツーツー。野村さんここは」
「勝負ですね。内角高めのストレート」
画面にストライクゾーンを9分割した画像が表示されて、ポイントを指し示しながら次に投げるべき球をボソボソと呟いていく。
彼が解説を担当する中継は『ノムさんのクール解説』と銘打たれて、他とはまるで違う雰囲気をまとっていた。月見草を自称する捕手のレジェンドならではの知見に満ちた解説は、僕には高度すぎてついていけなかった。でも、野球には理があり、それをもとに予測することで、勝つ確率は劇的に上がる、ということはわかった気がした。
ノムさんみたく「理」を語るにはまだ早い。
でもオレが幾分かでも「予測」ができたら、すごいことになるんじゃないか。
そう思い至った瞬間、僕は心が震えたような気がした。
当時、僕は小学校の野球部でスコアラーを務めていたのである。
自らのプレーがあまりにもお粗末なので、せめて別の形で貢献しようと哀しく決意して記録係を買って出たのだが、実際にやってみるとなかなか面白かった。
最初は記録するだけで満足していたのだが、投手が崩れるタイミングや、打者の調子などをデータから分析するようになった。そこにノムさんのクール解説である。顧問のアドバイスもあり、僕は、次どうすればいいのかを自分なりに考えるようになった。
今思えば幼稚なクオリティである。それでも相手チームをできる範囲で調べ、各打者の打球が飛ぶ方向を予測してチームメイトに伝えたりするのは、ものすごくやりがいがあった。

チームは区大会で優勝した。市大会に出場したらたちまち敗退したが、僕の中では、ささやかだがチームの戦いに参加できた、という達成感があった。中学以降、野球を続けることはなかったが、観戦してあれこれ分析することは、趣味として現在まで続けている。
◆
ノムさんは平成に入った年に、プロ野球のヤクルトスワローズの監督になった。そして、解説者時代の理論をベースにした「ID野球」を掲げ、すべてのプレーに意味を要求した。叱られてばかりの選手たちは大変そうだったが、チームは確実に強くなり、3年目にはリーグ優勝、そして4年目には当時最強を誇った西武ライオンズを倒して日本一となった。
名監督と呼ばれるようになってからも、ノムさんはいっつも選手たちに小言を言っていた。
だが、チームは明るかった。負けている時も皆が前を向いていた。
そんな雰囲気が醸成されたのは、もちろん選手たちの努力の賜物である。でも、監督のブレずに勝利を求める姿勢に加えて、随所に”愛”を感じさせる人柄のおかげもあったと思う。だから最晩年に参加したOB戦で打席に立った時に、往年の教え子たちが我先に彼を支えたのだ。

令和2年に野村克也が逝去してから、野球界はデータ重視に拍車がかかり、確率にフォーカスする戦い方が主流になった。全選手がホームランを狙うような大味な試合には、彼が標榜したID野球にはあった「勝負の機微」の入り込む余地がなくなっているように感じる。
機械的に強さを追い求める現代の野球が今後どうなっていくか、僕にはわからない。
だが、昭和の野球にはもれなくついてきた「心の機微」だけは、残ってほしい。
ノムさんは、どんなにクールに解説しようとも、最後は「彼はね、ここまで努力してきたから、報われるんですよ」と、カネやんと同じように人情味あふれるコメントで締めていた。
思いのある人にはとことん優しかったノムさんがいざなってくれたからこそ、落ちこぼれだった僕も、本気で野球に向かい合えた。それは間違いのないことである。
ノムさんの ボヤキが伸ばす 昭和の子
TEXT:服部夏生
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