2024/07/09
昭和大好きかるた 時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る 第5回「お」
時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る
第5回
お
おべんとう
令和となってはや幾年。平成生まれの人たちが社会の中枢を担い出すようになった今、「昭和」はもはや教科書の中で語られる歴史上の時代となりつつある。
でも、昭和にはたくさんの楽しいことやワクワクさせるようなことがあった。そんな時代に生まれ育ったふたりのもの書きが、”あの頃”を懐かしむ連載。
第5回は、刃物専門編集者の服部夏生がお送りします。
今回は「え」に続いて当方の連投で失礼させていただく。この連載、今後も諸事情で順番が入れ替わることがあると思うが、読者の方々には広い心で受け止めていただければと願う次第である。
さて、僕が生まれ育った名古屋では、中学校から昼ごはんは基本的に”おべんとう”だった。高校生になると購買部があったし、こっそり外に食べに行ったりもできた。だが中学生の頃は、ほぼ弁当一択だった。昭和時代の名古屋はまだコンビニが一般的ではなかったのである。
僕は、この弁当ってやつがちょっと苦手だった。
さめていると全体がもはもはして、口の中の水分が吸い取られて食べにくかった。と言っておかずの水分が白米に移ったりしていると食べる気が起きなかった。茶色で統一された風景にもゲンナリしたけど、女子が持ってくるような華やかな弁当は絶対にイヤだった。
書いていて、赤ちゃんかお前は。イヤイヤ期の赤ちゃんか。と自分にツッコミを入れたくなるが、当時の僕にとっては弁当問題は重大事だったのである。
しぐれ煮とパンクロック
僕だけじゃない。クラスメートの男子たちも、文句ばっかり言っていた。
「しぐれ煮ばっか入れるなって言ってんのによー」
「おでんを弁当のおかずにするんじゃねー」
「焼きそばだけじゃご飯食えねーよ」
「今日は絶対に言ってやる!!」
「俺も言ってやる!!」
昼休みが始まって最初の数分は、そこかしこでイキリまくりのコメントが噴出した。さぞかし家では言いたい放題、闇のフィクサー並みの権限をお持ちなのだろう、という勇ましさだったが、翌日も、翌々日も彼らは同じような見た目の弁当に、同じように文句を言っていた。要するに、どのクラスメートも、家ではまるで発言力を持っていなかったのである。
抑圧されたキッズたちが立ち上がれば、音楽が生まれ文化が生まれる。1970年代のロンドンでセックス・ピストルズやザ・クラッシュ(*)がそれを証明したが、80年代の名古屋市の某区立中学校のキッズたちは「空腹こそ最高の調味料である」なるクリシェそのままに、文句を言いつつもぐもぐ完食し、満腹になると、何して遊ぼっか? と相談を始めるのが常だった。立ち上がらざることオンボロのパソコンの如しである。
*「セックス・ピストルズやザ・クラッシュ」:セックス・ピストルズは1975(昭和50)年、ザ・クラッシュはその翌年に結成されたパンクバンド。ピストルズのボーカル、ジョン・ライドンは、大人たちの思惑に踊らされたと自伝で語り、首謀者マルコム・マクラーレンやヴィヴィアン・ウエストウッドの悪口に結構なページを割いているけれど、パンクを代表するこの2つのバンドは、いつ聴いても格好いい。
とは言え、僕も我が家の料理係である母親に改善案を伝えた。幸い母親は話を聞いてくれる人物だったので、彼女なりに工夫してくれたし、高校を卒業する頃には、購買部のパンとのローテーションを確立したこともあり、ストレスを感じたりはしなかった。
僕が当時の母親たちの大変さを実感したのは、大人になり家庭を持つこととなり、さらにフリーランスとなって子どもたちの”おべんとう”係となってからである。
1回2回なら、楽しいだろう。
だが、毎日となると、毎回のメニューを考える必要がある。前の日の晩御飯の残り物をどう使うか、スーパーの特売品をどう活かすかといった複雑な要素を絡めた段取りを考えるのだが、そこに明日は弁当いらない日なの? え、土曜日は部活の試合でいるの!? といった不確定要素が挟みこまれる。さらに、時間だって限られているのに、子どもたちからの要望がカジュアルに乗っかってくる。どうにか彼らが登校した後、疲れを癒すべくアンニュイな午前のティータイムを取りたいところだが、サボれないくらいには、フリーランスとしてのタスクがある……。
妻と家事を分担していたからいいようなものの、これ、一人でこなす主婦、マジ半端ないって、と思わざるを得なかった。今も存命中である自分の母親のことを書くのは、どうも照れくさいが、よくやってくれたなあと思う。
校門で手渡されたおべんとう
クラスメートたちの親御さんたちも、偉かったなあと思う。
キッズたちの無責任な要望を体現した光り輝く弁当をつくる人こそいなかったが、旧態依然を良しとしていたわけでもなかった。よく見ると育ち盛りの息子たちの声を聞き入れ、少しずつマイナーチェンジをしていた。
だが、しぐれ煮に代わっておかかが入っても、おでんに代わって肉じゃがが入っても、焼きそばに代わってナポリタンが入っても、中学生の僕たちは変わらず文句を言っていた。
そんなある日、午前の放課に(名古屋では休み時間を『放課』と言った)、ひとりのクラスメートがそわそわしながら校門に向かった。興味を感じてついていったら、彼の母親が走ってきて、ごめんねーと言いながら、弁当箱を彼に手渡した。そして、横に立っていた僕たちに、いつもお世話になっています、と大人にするような挨拶をしてくれた。
「やめろよ、いいから早く行ってくれよ」
いつもは愛想のいいお調子者のクラスメートがふてくされたような表情で言うと、母親は、ごめんごめん、と言いながら何度も振り返って早足で帰っていった。その笑顔がなんだか眩しくて、いい母さんじゃん、と声をかけると、んなわけねーだろ。といつもとはまるで違う激しい口調で言い、早足で教室に戻っていった。
多分、朝寝坊してしまった母親が、登校する息子に午前の放課に持っていくから校門で待ってて、と告げたのだろう。うちはシングルマザーなんだと本人から聞いていたし、忙しそうな様子からして、運ぶ時間を捻出するのもひと苦労だったかもしれない、と今にして思う。
あの日、そのクラスメートは、まだ温もりの残っている”おべんとう”を、むすっとしたまま、でもちゃんと食べていた。表情に気圧されて遠慮していたけど、どんな味だったんだろう。
もう名前すら思い出せない彼に、もし会うことがあったら、聞いてみたいと思う。
経験者として語ると、僕は弁当は手作りじゃなきゃダメなんてこと、マジで1ミリも思わない。用意する人の負担になりすぎないことの方がずっと、ずっと大事だと思う。
それでもやっぱり、文句を言いながら食べていたさめた”おべんとう”の味を懐かしく思い出すし、俺たち、いいもん食わせてもらったよな、とあの頃キッズだった大人たちに声をかけたくなるのである。
TEXT:服部夏生
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