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2024/06/25

昭和大好きかるた 時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る 第4回「え」

 

時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る

 

第4回

演歌

 

 令和となってはや幾年。平成生まれの人たちが社会の中枢を担い出すようになった今、「昭和」はもはや教科書の中で語られる歴史上の時代となりつつある。
 でも、昭和にはたくさんの楽しいことやワクワクさせるようなことがあった。そんな時代に生まれ育ったふたりのもの書きが、”あの頃”を懐かしむ連載。
 第4回は、刃物専門編集者の服部夏生がお送りします。

 

 

 僕が子どもだった昭和50年代は「ドサ周り」が、普通にあった。
 ドサ周りに来るのは、演歌歌手と相場は決まっていた。
 家の近所にあるスーパーマーケットの店先においたビールケースの上で、手持ちのラジカセからカラオケを流しながら、彼らは持ち歌をうなっていた。
 名前も、どんな歌だったかも覚えていない。数限りなく生まれては消えていった星屑たちである。でも、当時の僕にとっては、スターだった。さすがに北島三郎や都はるみみたいなシリウスやベテルギウス級の一等星じゃないのはわかっていたけど、それでもちゃんと光っていた。


スター候補が書いてくれたサイン

 

 SNSもないし、動画配信サイトもない時代である。芸能人はテレビや雑誌の中で生きている人種で、一般人にとってはすべからく「雲の上の人」だった。正直、演歌なんて、1ミリもいいと感じたことはなかったけれど、彼らが来ると、僕はいつもつるんでいたシマキくんと一緒にステージをかぶりつきで見て、隣にあった習字教室の先生に頼んで半紙を分けてもらい、歌手にサインをねだった。
「え、ここに!?」
 書道の半紙を渡された若い男性の演歌歌手は、明らかに嫌な顔をした。
 今から思えば当たり前だ。
 ただでさえうらぶれた個人経営のスーパーである。併設されたたこ焼き屋のソースの香り漂う中、ぼんやり聞いていたおばさん数名も、歌が終わった途端に踵を返している。ザ閑古鳥インザシティ。そんなところに、金も影響力も皆無なキッズたちが、色紙がわりの紙切れを持ってきて、サインしろ、というのである。僕が彼でも、おんなじ反応をするはずだ。
「うん、だってすごくカッコよかったもん!!」
「この紙しかないんだよ。大事にするからさ」
 雲行きの怪しさを感じ取った僕は、シマキくんとの悪魔のようなワンツーで、演歌歌手の心のバイタルエリアにボールを運んだ。僕はその頃から、大人の自尊心をくすぐる術を会得していた。要するにやなガキだったのである。
 だが、褒められて嬉しくない人間はいない。顔をこわばらせていた演歌歌手も、頬を緩めた。
「習字の紙だろ。こんなのに、書いたことないぜ」
 なんて、ぶつくさ言いながらも、一所懸命マジックでサインをしたためてくれた。

 

演歌といえば和服。この写真、フリー素材なんですけれど、メロディまで耳に浮かんでくるような気すらする。まさにジャパニーズソウルミュージック

 

 それを持って帰って、母親に見せて、知っているかと尋ねると、そもそもなんて名前かわからないと返された。え、と半紙を見直すと、蛇ののたくったようなサインの脇には、持ち歌の曲名しか書いてなかった。そして、僕も彼の名前は、すっかり忘れていた。グーグル先生なんていない時代は、曲名で検索なんて土台無理な話。ジエンドである。僕の中にいる石原裕次郎が、ブラインドの隙間から外を見て『手がかりなし、だな』と呟き、ブランデーをぐいとあおった。
「せめて『青い珊瑚礁』とか『ルビーの指輪』(*)だったら、誰だかわかるんだけどねえ」
 それ誰でもわかるし!! そもそも演歌ちゃうし!! と、子どもにも突っ込めるボケをかましてくれた母親の心づくしに気づくことなく、僕はすごすごと団地の3DKの4畳半の自室に入った。いつかヒットする日が来ると思って、その半紙は大事にしていたけど、その曲名を再び耳にすることはないまま、いつしかどこかに紛れてしまった。

 

*『青い珊瑚礁』とか『ルビーの指輪』:『青い珊瑚礁』は1980(昭和55)年リリースの松田聖子のシングル。大ヒットしてキッズの間では替え歌が流行った。『ルビーの指輪』は1981(昭和56)年リリースの寺尾聰のシングル。これも大ヒットして、年末の歌番組はこの歌ばかり流れていた思い出がある。ちなみに寺尾聰は石原裕次郎率いる石原軍団の一員でもあった。

 

グルーヴが教えてくれた不変の真実

 

 元号が令和になった頃に、とある地方の酒造を訪ねたことがある。その日は、地元の演歌歌手のリサイタルが開催される、ということだった。蔵の中にステージが組まれ、酒樽やケースを組み合わせた客席には、地元の有力者然とした人たちが陣取り、うら若き女性演歌歌手にやんやの喝采を送っていた。控えめに言って、めっちゃ盛り上がっていた。中途半端なレイヴなんて目じゃないくらいソウルフルで、グルーヴィーなステージの熱気は、ネットの海の中をどれだけ漁っても出てこない、不変の『真実』だった。
 不意に、”あの時”の演歌歌手がなりたかったのは、こんな姿だったんだろうな、と感じた。
 ソースの香り漂うビールケースの上で、リクエストに応えて流行歌のカバーを歌いながら、一曲だけある持ち歌を歌わせてもらう。頼まれたら子どもたちにだって、大きくなったらコンサートに来てくれよと願いながらサインをする。そんなドサ周りを続けて、とにかく続けて、揺るがない信頼で結ばれたファンを一人、また一人と獲得する。
 彼は、というか彼ら演歌歌手は、本質的には、テレビに出るよりも、客と魂を直接やりとするような、まさに今日みたいなステージをどれだけ重ねられるか、に命をかけているのだろう。
そんな情念という名のコクが込められているから、歳を取ればとるほど、彼らの歌が、心にしみてくるのかもしれない。
 翼くん岬くんばりの華麗なパスワークを見せたシマキくんは、その後、演歌好きになって、教壇の上で細川たかしの『北酒場』を器用に歌って、クラス中の喝采を浴びた。でも、歌手になることなく、高校を卒業してから警察官になった。
 そして、ある日、地元を遠く離れた街で大学生活を送る僕に、突然電話をかけてきて、仕事がいかに大変か、業界用語を織り交ぜながらひとしきり語った。女の子と会う時間が近づいているのを気にしながら、うんうんと聞いていると、不意に「じゃあ、俺仕事行くわ」と電話を切った。それっきり、連絡は取っていない。
 シマキくんは、今も演歌を聴いているのかな、と想像した。ステージが一旦終わって、演歌歌手は客席に降りてタニマチたちにお酒を注いで回っていた。あちこちで歓声と笑い声が上がっている客席の一角に彼がいても、全然不思議じゃない気がしてきた。

 

一般社団法人 日本レコード協会が公表するデータによると、1986年には1,730もの新譜がリリースされた演歌だが、2022年は638タイトルにとどまっている。でも、街のスナックからは今日も演歌が流れてくる。そう、演歌は不滅

 

「あの、よかったら一緒に写真を撮っていただけませんか」
 客席めぐりを終えた演歌歌手に、思い切って声をかけてみた。
 案に相違して彼女は、即座に笑顔になって、いいですよお、と応えてくれた。
 あの時みたいな話術を展開する必要がまるでなかったことに、ほんのちょっと寂しい気持ちを抱きながら、今の僕は、今の友人に頼んで、彼女との2ショットを撮ってもらった。

 

TEXT:服部夏生

 

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