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2024/05/14

昭和大好きかるた 時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る 第1回

 

第1回

あか

 

 令和となってはや幾年。平成生まれの人たちが社会の中枢を担い出すようになった今、「昭和」はもはや教科書の中で語られる歴史上の時代となりつつある。

 でも、昭和にはたくさんの楽しいことやワクワクさせるようなことがあった。時代を超えた普遍の良き「何か」があったようにも思う。この連載では、そんな昭和に生まれ育ったふたりのもの書きが、子ども時代を振り返り、懐かしんでいきたい。

 第1回は、軍事フォトジャーナリストの菊池雅之がお送りする。

 

 

 これからは多様性の時代だ―。
 人それぞれ生き方も考え方も違うから面白い。いかに他人に対して寛容になれるか、そして自分自身をしっかりと貫けるか、人類が次なるステージへ向かうために、今を生きる我々は試されているようだ。
 これからは男女の性別すらも超越し、個人を尊重する時代になっていくのだろう。
 おじさんたちねぇ……正直なところ、そうした未来に対し、若干の不安と戸惑いがある。だが、きっとそれは若い世代によって新たに組み立てられていく世界なのだろう。
 さて、初回からいきなり小難しいお話をする気は全くなく、多様性の“た”の字もなかったであろう、私の子供時代の出来事を振り返りたい。ぶっちゃけ、昭和50年代はまだまだ男尊女卑だったし、セクハラなんて言葉もなかったし、今の世と比べてみると、コンプライアンス的にグレーを通り越しているのに、しっかりと許されているような時代だった。今回はそれを象徴する「あか」について語ろう。

 

赤は女の色

 

 小学生の頃、今では考えられないくらい、男だから、女だから、という価値観の押し付けがあった。まずもって出席番号は男子の“あ”から始まり、すべての男子の名字が終わると、女子の“あ”から始まる。今のような男女混合での出席確認も整列はなかった。
 さらに男女を分ける際たるものが「色」だった気がする。
 実は、小学生の頃の私は「赤」が好きだった。
 今でこそランドセルは様々な色や形があるが、私が子供の頃、男子は「黒」、女子は「赤」という選択肢しかなかった。たまにおしゃれな女子が「ピンク」を選ぶケースがあったが、その選択を本来は尊重し合うべき仲間であるはずの女子同士が目障りとばかりに批判する謎の全体主義がはびこっていた。
 他にもいろいろあった。
 胸に付ける名札のケースは、男子が黒、女子が赤。
 絵具を入れるバッグは、男子が黒、女子が赤。
 鍵盤ハーモニカは、男子が青、女子がピンク。
 一事が万事そんな感じ。
 この押しつけの諸悪の根源は文部科学省(旧・文部省)なのか、教育委員会なのか……いや、「男女はそうあるべき」と考えていた日本社会か。
 そんな時代に、ひとたび「赤が好き」などと口走ろうものなら、男女双方から煙たがられるのは間違いなかった。こんな些細なことが理由で、イジメに発展する危険性すらあったのだから、今にしてみれば恐ろしい時代だ。
 当時、アディダスのシューズやTシャツが流行ったが、男子はみな無難に白黒を選ぶ。そういえば「緑」は、なぜかギリギリアウトな風潮にあったような記憶がある。我が地域だけのお話か……?
 いずれにせよ、私は「赤でもいいじゃん」と思っていた。
 この考えに思い至ったのが、幼少期の頃見たアニメ『バーバパパ』だと考えている。だって、パパがピンク、ママが黒という当時の日本人では絶対に考え出されることない真逆の配色。日本では、たとえ前衛的なイラストレーターがそのようなデザインを完成させたとしても保守的な偉い人が「おいおい、普通は逆だろ」と確実にダメ出ししたであろう。絶対に当時の日本では生まれないキャラだ。

 

今はカラーバリエーションも豊富になっています

 

男が「赤」を選べる免罪符

 

 しかしながら、男子が「赤」を選ぶことについての免罪符が存在していた。
 それは“赤い彗星”のシャアだ。もはや説明は不要であろうが、『機動戦士ガンダム』にて、ガンダムを駆るアムロ・レイのライバルであるシャア・アズナブルのことである。
 彼は愛機を真っ赤に染めた。ユニフォームも赤。冷静に考えれば、軍服としてはかなりド派手であり、実は彼はかなりの目立ちたがり屋さんに違いない。
 当時の男子もシャアだけは特別だった。男の赤が許されたのはシャアだけだ。
 私の世代は、スーパーカーブームが過ぎ去ってはいたが、消しゴムとしてスーパーカー(※)はまだ少し流行っていた。
 しかし、私は、流行関係なく、真っ赤なスポーツカーに憧れていた。いや、スポーツカーというよりもアメ車好きというべきか。真っ赤なトランザムやコルベット、カマロに憧れていた。
 当時ラジコンが流行っており、私も例に漏れずハマる。選んだのは「グラスホッパー」だ。しばらく塗装らしいことはせずに遊んでいたが、「やはりカッコイイ車は赤であるべき」と、ある日シャーシを真っ赤に塗ってみた。
 早速仲間から「ダセえなぁ」とダメ出しをされる。しかし私は胸を張って「馬鹿だなぁ、シャア専用だぜ!」と答えると「……おう、そうか」となぜか周りは納得。これは、『機動戦士Zガンダム』が放映されるまで使えるテクニックだった。まさか次にシャアが金色のモビルスーツに乗ろうとは……。

 

※スーパーカー消しゴムが登場したのは、1970年代後半。筆者が幼少の頃から流行りだして、一時期は、日本中のほぼすべての男子を魅了した。教室の机の上で、ボールペン(主にボクシー)のお尻で弾く小学生は、昭和50年代を象徴する絵柄のひとつ

 

真っ赤な夢は、若さゆえの過ち

 

 さて、私も大人になり、駆け出しのカメラマンとして東奔西走しながら撮影する日々。忙しくなるのに比例して、収入も安定しだした20代前半。学生時代に中古で買ったホンダ「プレリュードXX」を買い替えようと決断。選んだのは、夢だった真っ赤な「シボレーカマロ3.8V6」。なぜか私は強気に「宵越しの金は持たないぜ」と、月7万円ぐらいのローンを組んだのだった。
 あの時シャア・アズナブルは「認めたくないものだな。自分自身の若さゆえの過ちというものを」という名言を残している。いくらシャアは好きでも、まさか自分に向けてこのセリフを言うことになろうとは、YANASE(※)で契約書に実印を押す瞬間に思いつきもしなかったのだった。

 

※YANASE:1915年創業。新車販売や中古車販売などクルマにまつわる事業を行なう。メルセデス・ベンツ、BMW、シボレーといった「外車」を取り扱うことで知られ、特に昭和生まれのクルマ好きにとっては、YANASEのロゴステッカーはステータス以外の何ものでもない

 

若き頃の筆者ご自慢の愛車、赤のシボレーカマロ

 

 駐車場代は月2万円。さらに、カマロは、燃費がよろしくなく、なんと、毎月1~2万のガソリン代がかかった。乗れば乗ったで高速代、訪問先での駐車場代などもかかる…。気が付けば、車にかかる費用は月10万円を超えるほどに…。自動車ローンを返すために働くような日々に陥ってしまうのだった。
 いくら私が、赤が好き! 赤い車はもっと好き! だったとしても、“真っ赤な”「火の車」になど乗りたくなかった…。
 おあとがよろしいようで―。

 

TEXT:菊地雅之

 

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