2026年2月号

2026/01/14

無可動実銃に見る20世紀の小火器203 ヘッケラー&コッホMP5A2 1976年製

▲MP5A2のマズル周り。ここに装着された3ラグマウンティングシステムはフラッシュハイダー、ブランクアダプター、サプレッサー、ライフルグレネードランチャーなどを素早く着脱できるように、1966年にヘッケラー&コッホでMP5用に開発されたものだ。
現在では他の多くのメーカーが、ピストルキャリバーカービンやサブマシンガンにこの規格のマウンティングシステムを導入している。

 

MP1

 連邦国境警備隊がその初期段階に装備した銃として、Kar98k、M1カービン、MG42という例を挙げているが、彼らの装備した銃は、第二次大戦中の老朽化したものばかりではなかった。戦後に生産されたものとして、サブマシンガンはイタリア製ベレッタM1938/49をMP1、ピストルはスイス製SIG SP47/8(1957年以降P210というコマーシャル名が付いた。連邦国境警備隊仕様はP210-4)を採用している。
 ベレッタM1938/49は第二次大戦でイタリア軍が使ったM1938Aをベースに戦後、ベレッタが小改良を施して生産したサブマシンガンで、木製ストックのセミフルセレクティブファイアモデルだ。ベースとなったM1938Aは、第二次大戦でイタリア軍の使った武器の中ではもっとも完成度が高いと評価されている。セミオートカービンをそのままサブマシンガンとしたようなそのデザインは、戦後においては時代遅れというべきだが、銃弾バラマキ装置というべき粗末な戦中量産サブマシンガンとは一線を画す品質を持つ銃だ。
 連邦国境警備隊はこのM1938/49をMP1(Maschinen Pistole 1)として採用したが、1954年には早くも新型サブマシンガンの要求仕様の作成を開始、1955年6月にTechnischen Lieferbedingungen des Bundesgrenzschutzes(連邦国境警備隊技術納入要件:BGS/TL0105)を定めた。ここには、折り畳んだ状態での全長500mm以下、装填重量3,750g以下、セミフルセレクティブファイア、使用弾薬9×19mm、固定銃身、悪天候下での安全確実な操作性など、細かい仕様が明記されている。
 しかし、直ちに新型サブマシンガンへの切り替えをおこなったわけではない。予算の都合なのか、その後もずっと1960年代半ばまでMP1を装備し続けた。

 

▲MP5のノンレシプロケイティング(ボルト非連動)コッキングハンドルはバレル側面左側ハンドガード上部に配置されている。
H&Kはマガジンが空になってもオートマチックボルトホールドオープンシステムを採用していないため、このコッキングハンドルの操作性が極めて重要になっている。“HK Slap”と呼ばれるマガジン交換時の“作法”が必要であり、そのため、このコッキングハンドルの使用頻度は高い。
しかし、オートマチックボルトホールドオープンシステムとボルトリリースボタンを有しないことにより、MP5はマガジンリロードに、明らかに多くの時間を必要とする。この銃の完成から60年が経過しようとしているが、なぜこの部分が改良されないのか、不思議でならない。1991年に開発された10mm口径のMP5/10などにはオートマチックボルトホールドオープンシステムが加わっていたが、その機能は9mmモデルには反映されなかった。

 

MP2 & MP2A1 

  第二次大戦の緒戦でドイツに占領されたフランスは、冷戦が進行する中でも西ドイツの再軍備化に反対の姿勢を崩さず、1950年にEuropean Defence Community(欧州防衛共同体:EDC)構想を提案した。これは東側との軍事衝突が発生したとき、西側諸国が汎ヨーロッパ防衛軍を組織して対処するというものだ。
 しかし、この構想は頓挫し、1954年、西側各国は西ドイツに対する占領行政の効力停止、再軍備化とNATO加盟を承認した。これにより西ドイツは主権を回復し、1955年11月12日、西ドイツ連邦軍Bundeswehr(ブンデスヴェーア)が発足した。この新たな実力組織は過去に対する反省からシビリアンコントロールが徹底され、西ドイツ連邦議会の監督下に置かれている。いずれにせよ、この西ドイツ連邦軍の発足は、西ドイツが国際社会に復帰する重要な一歩となった。
 そんな西ドイツ連邦軍の新型サブマシンガン選定は、軍の成立直後の1955年中に始まっている。この時、世界中の様々なサブマシンガンが選考対象となり、1957年にニーダーザクセン州メッペンにWehrtechnische Dienststelle für Waffen und Munition(連邦軍武器弾薬技術開発センター) WTD 91が開設されると、ここで実射テストがおこなわれた。これは1958年まで続く。そして最終的にはカールグスタフm/45、エルマ・ヴェルケのMP-58、スペインのオビエド造兵廠が開発したDUX-53をアンシュッツが改良したDUX-59、イスラエルIMIのUZIが選考対象として残った。
 そして1959年3月、西ドイツ国防大臣フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスはカールグスタフm/45を新型サブマシンガンとして採用することを発表する。しかし、その2週間後、この決定は覆され、イスラエルのUZIを採用すると訂正された。この時、何が起こったのかは明確な記録はない。
 しかし、この間、IMIの代表者がシュトラウスに会っているらしい。またイスラエル国防大臣で後に同国大統領となるShimon Peres(シモン・ペレス)とシュトラウスは1955年に会談した記録もあり、この決定変更には何らかの政治的圧力が加えられたことが伺える。
 かつてナチスがドイツを支配していた時代の1935年、ドイツはニュルンベルグ法を制定、ユダヤ人から公民権を奪った。これがユダヤ人への迫害を拡大し、彼らを強制収容所に送り込んだ。そしてホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)に繋がっていく。戦後の1952年、西ドイツは戦後賠償の一環として、ユダヤ人に対するかつての迫害を謝罪し、イスラエルへの賠償と経済協力を盛り込んだDas Wiedergutmachungsabkommen(ヴィーダーグートゥマフングス・アプコメン::賠償協定・補償協定)を結んだ。これは通常Luxemburger Abkommen(ルクセンブルク協定)と呼ばれている。
 そこにはUZIサブマシンガンの採用という項目はもちろんないが、西ドイツ連邦軍によるUZIの採用に大きな影響を及ぼした可能性はある。もしかしたら、1955年の段階でUZIの採用は半ば決まっていたのかもしれない。
 1959年3月、西ドイツはイスラエルにUZIを35,000挺発注し、翌1960年に15,000挺を追加した。これらは固定ストックタイプがMP2、折りたたみ式ストックモデルがMP2A1と呼ばれ、このMP2A1はその後、長い間、ドイツ連邦軍で使用され、2000年以降、老朽化したモデルは順次HK MP7に切り替わっていった。

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