2026/01/14
無可動実銃に見る20世紀の小火器203 ヘッケラー&コッホMP5A2 1976年製
ヘッケラー&コッホのエンジニア達は、それまでのサブマシンガンとは根本的に異なる考えに基づき、HK54を作り上げた。すなわち、近距離の標的に向けて9mm弾をばら撒くための銃ではなく、近距離から中距離までの標的に対し、より正確に9mm弾を送り込むことができるコンパクトな銃を生み出そうとしたのだ。1966年にこれが完成し、MP5と呼ばれるようになった。
西ドイツの変化とH&K創業
冷戦“Kalten Krieges”は第二次大戦後に始まったとされているが、それはソビエト連邦という社会主義国家が成立した直後から、他の資本主義国との間に生まれた相互不信が積み重なり、ナチスドイツという共通の敵が消滅したことで、一気に表面化したものだ。アメリカ、英国、フランス、ソ連の戦勝4ヵ国でドイツを分割占領し、非軍事化、ナチズムの払拭、民主化、経済の非集中化を目指したが、西側と東側(ソ連)との軋轢が冷戦という形に発展していく。
だが、冷戦はドイツの占領政策が生み出したものではない。第二次大戦後、ソ連は東欧諸国に浸透、共産主義勢力圏を拡大していった。一方、アメリカはマーシャルプラン(欧州復興計画)により、西欧諸国に大規模な経済援助をおこない、その復興と共産主義の拡大阻止を目指した。価値観の大きく異なる大国同士のぶつかりが、第二次大戦の第二ラウンドに発展することを回避する形で生まれたのが冷戦だ。それが、1949年5月の“ドイツ連邦共和国(西ドイツ)”と、同年10月の“ドイツ民主共和国(東ドイツ)”の成立に繋がっていく。
1949年12月28日にヘッケラー&コッホが創業した時、その業務は、工作機械、自転車部品、ミシン部品の加工製造といったものだ。事務所兼作業場は、かつてマウザーで働かされていた強制労働者達が暮らしていた粗末な建物にあったという。この件については消防署跡地だとか、防空壕であったとか、諸説あり、はっきりわからない。いずれにしても、マウザーの生産拠点であったオーベルンドルフ・アムネッカーの地で創業した同社には、かつてマウザーで働いていた技術者が多く集まってきた。
1946年にマウザーの工場約60%がフランス軍によって解体されたが、マウザーという会社自体は存続した。そこで鋼板製品や家具、事務用品など、銃器以外の民生品を製造していた。それでもかつてマウザーで銃器生産に従事していた技術者達から見て、ヘッケラー&コッホという新しい会社はマウザーより魅力があったらしい。但し、この事については、75年以上が経過した今となってはよくわからない。
1949年に西ドイツという国家が成立しても、この国は依然として、アメリカ、フランス、英国によって統治されており、主権がない状態が続いた。それは戦争を公式に終結させるpeace treaty(平和条約)が締結されていないためだ。従って自国軍を持つこともできない。それでもGrenzpolizei(国境警察)が組織され、国境警備が始まった。
国家である以上、国境警備は当然必要な事だ。しかし、西ドイツにはまだBundespolizei(連邦警察)がなく、国境警備は地方警察に委ねられていた。本来なら国境警備は国が管理すべきものだ。
この状態を解消すべく、1951年3月16日、準軍事組織であるBundesgrenzschutz(ブンデスグレンツシュッツ:連邦国境警備隊:BGS)が組織されている。
その背景には、東ドイツ側の国境警備強化があった。ソ連が管理し、社会主義体制を敷いた東ドイツからは、多くの国民が西ドイツに脱出していた。1949年だけで約129,000人が東ドイツを離れたとされている。理由はいうまでもなく、東ドイツの政治的経済的自由の欠如に対する反発だ。
この脱出を阻止するために東ドイツは国境の警備を大幅に強化した。それを担ったのが、東ドイツのVolkspolizei(フォークスポリツァイ: VoPo:人民警察)であり、大規模な部隊を東ドイツに駐留させていたソ連軍だ。
この時点では西ドイツ国民の大多数は再軍備化に反対だった。しかし、1950年に始まった朝鮮戦争は、西側諸国においてソ連に対する脅威意識を高めることに繋がった。これは西ドイツとその国民にとっても同じだった。再軍備化に向けての意識が向上、西ドイツの初代首相となったキリスト教民主同盟(CDU)のコンラート・アデナウアーは、西側統合政策を推進していく。その先には西ドイツの再軍備化とNATOへの加盟がある。
そして西ドイツは、その第一歩として、連邦国境警備隊(BGS)を組織した。そこには西側戦勝国の思惑として、西ドイツの再軍備化をすすめ、ソ連を中心とした東側の拡大に対する防波堤とする意思も働いている。
いずれにしても、この連邦国境警備隊の発足は、西ドイツとして初めての実力部隊だ。一方、東ドイツは1952年にKasernierte Volkspolizei(兵員輸送部隊)を編成した。この部隊は後に東ドイツのNationale Volksarmee(国家人民軍)に発展する。
連邦国境警備隊の初期の小火器装備は、Kar98kやアメリカから供与されたM1カービン、そしてMG42といった第二次大戦の軍用銃が主体だった。それらは戦争で酷使された中古銃で、修理を必要とする場合も多かった。その修理業務を担う拠点として、かつてマウザーで銃器製造をおこなっていた技術者や熟練工が多く集まっているヘッケラー&コッホが選ばれる。これにより、同社は銃器関連事業を開始する第一歩を印すことができた。
その後、ヘッケラー&コッホがアサルトライフルG3の製造メーカーとなっていくまでの話は、G3をテーマとした回でおこなうべきものだ。
その内容は、第二次大戦末期のマウザーで、Wilhelm Stähle(ヴィルヘルム・シュテーレ:1901-1974)とLudwig Vorgrimler(ルートヴィヒ・フォーグリムラー:1912-1983)によるGerät 06 H(ゲレート06H)の開発、戦後にフォーグリムラーがフランス、そしてスペインに渡って研究を続け、7.62×41mmのCETME Modell Aを完成させたこと、しかしこれを7.62mmNATO弾仕様に改良することがスペインではできず、それを秘密裏に実行したのはヘッケラー&コッホであること、さらにこれをG3として西ドイツ連邦軍が採用し、ヘッケラー&コッホはその製造権を獲得したという一連のストーリーだ。
残念ながら、Gun Pro Webは今回が最終のため、それを掲載することはできない。しかし、G3に関してはいずれ別の機会でレポートしたいと思う(実際には、今から14年前、本連載がアームズマガジンで掲載されていた時にG3A3は別のペンネームでレポートしている。しかし、これはあまりにも前のことなので改めて書き直したい)。Gun Pro Webという形ではなく、またある程度は時間が必要だが、これは実行したいと考えている。
一言、付け加えるなら、ヘッケラー&コッホの創業者のひとりであるエドモーント・ヘッケラーは、G3が西ドイツ連邦軍に採用された翌年の1960年7月2日に、わずか54歳で心臓発作により逝去された。この時点ではG3のヘッケラー&コッホへの製造権譲渡は完了していなかったが、自らの会社がこの銃を完成形にし、西ドイツによって採用されたことで、大きな達成感を得ていたと推測している。
今回のテーマであるMP5サブマシンガンは、このG3開発の過程で、派生的に生み出されたものだ。


