2025/07/13
コルト モデル1877 ライトニングリボルバー Part 1 ダブルアクションリボルバー開発経緯
ダブルアクションリボルバー開発経緯


ダブルアクションリボルバーの歴史は古い。リボルバーが一般化する以前、護身用ピストルとして多用された連発式のペッパーボックッスピストル(合束バレルの手動回転式ピストル)には、ダブルアクションを組み込んだ製品がイギリスなどで製作されている。パーカッションリボルバーに時代になると、当然ダブルアクションメカが組み込まれた製品が登場した。
当時のイギリスは広大な植民地を抱えており、そこに赴任する軍人や役人、そして商人たちが必ず持参するもののひとつに護身用のピストルがある。植民地は必ずしも友好的な地域とは限らず、むしろ多くの危険が伴う地域だった。だから護身用ピストルは必需品なのだ。
赴任先では至近距離から唐突に襲撃を受ける場合が少なくない。そんな攻撃から身を守るためには即応性が何より重要だった。そのため命中精度よりも即応性が評価され、イギリスではダブルアクションピストルが主流を占めていた。そんなイギリスはアメリカ銃砲産業の大きなマーケットだった。
一方、アメリカではシングルアクションリボルバーが主流で、ダブルアクションリボルバーは、スタール、レミントンアームズ、サベージなどのメーカーで生産されたものの、イギリスと比べてマイナーな存在だった。
これはリボルバー生産の最大手だったコルトの影響が大きかったのだと思う。アメリカでパターソンリボルバーを開発し、Patent Arms Manufacturing Companyを創設したSamuel Colt(サミュエル・コルト)は、ダブルアクションリボルバーに対して否定的だったといわれている。
その理由は、ダブルアクションの長くて重いトリガープルにあった。ダブルアクショントリガーを引く場合、リボルバーを正確に照準して保持しつづけることが難しく、命中精度に悪影響が出てしまう。加えて、ダブルアクションにすることで撃発メカニズムの部品数が増え、作動の信頼性を損なう可能性があるということも否定する理由だった。
事実、その後にColt’s Patent Firearms Manufacturing Companyを立ち上げたコルトが製品化したパーカッションリボルバーは、すべてシングルアクションで、1873年に金属薬莢式の弾薬を使用するSingle Action Army(シングルアクションアーミー:SAA)リボルバーの生産にシフトしても、その姿勢は変わらなかった。
SAAリボルバーは、.45口径の高いストッピングパワーとシングルアクションのシンプルな撃発メカニズムから来る作動の信頼性で高い評価を受けて、アメリカ軍の装備する標準リボルバーに選定採用されることになった。その高いストッピングパワーは植民地に赴くイギリス人にも好まれ、コルトにとってのイギリスマーケットの重要性を増すことになった。
当然、このSAAリボルバーにダブルアクショントリガーを組み込んで欲しいという要求がイギリスで起こり、イギリス側の代理店から、SAAリボルバーの作動の信頼性を保ちつつ、即応性に優れたダブルアクション機能を組み込んだリボルバーの開発要請がコルトにあったのだろうとリポーターは推測している。おそらく、この要請があったことが、コルトがライトニングリボルバーの開発と発売に踏み出す大きなきっかけになったのではないだろうか。
一方、アメリカ国内にもダブルアクションリボルバーに対する需要は増加していた。それは警察武装の近代化だ。コルトは金属薬莢を使用する警察向けの中口径リボルバーとして、Colt House(コルトハウス)リボルバーやNew Line(ニューライン)リボルバーの供給を始めていたが、これらはいずれもシングルアクション撃発メカニズムが組み込まれ、しかもSpur Trigger(スパートリガー)装備だった。
スパートリガーとはトリガーガードがなく、ハンマーをコックしたときだけ、トリガーが飛び出す型式をいう。レミントンのダブルバレルデリンジャーに装備されたトリガー型式だといえば、わかりやすいだろう。
警察の武装も即応性が要求される。シングルアクションでスパートリガー装備のリボルバーは、即応性は低かった。イギリスで植民地赴任の人々が持つ自衛用リボルバーと同じく、即応性を求める警察の要求を満たすためには、やはりダブルアクション撃発メカニズムを組み込んだリボルバーを開発する必要があった。
ダブルアクションに否定的だったサミュエル・コルトは、南北戦争中の1862年に他界しており、もはや社内には反対する者はいなかったという事も、この開発をスムーズに進める上で大きなポイントであったと思われる。

後に開発されたコルトライトニングリボルバーは、SAAリボルバーと類似した形状を持っているものの、戦場で使用されるストッピングパワーの高い.45口径でなく、襲撃者を停止させるのに必要十分な.38口径や、それよりややストッピングパワーの高い.41口径で設計されているのは、このリボルバーが警察向け、あるいは民間人の護身用リボルバーとして設計されたことをよく表している。
ライトニングリボルバーの開発の中心となったのは、William Mason(ウィリアム・メイソン)だった。彼のバイオグラフィーは次回のWebリポートでまとめている。
ウィリアム・メイソンはコルトで勤務する以前に、アメリカのレミントンアームズで働いていたが、1869年にレミントンアームズからコルトに移籍している。移籍から約2年後の1872年にコルトのためにコルト ハウスリボルバー(通称Cloverleaf:
クローバーリーフリボルバー)を開発し、1872年にこのリボルバーのアメリカパテントを取得している。次いで彼は、SAAリボルバーの開発に参加した。また同時期にシングルアクションで中型のニューラインリボルバーの開発も担当し、これらについてのアメリカパテントを取得した。
コルト ライトニングリボルバーの開発当時、ウィリアム・メイソンは、コルトの技術主任であった。彼は、SAAリボルバーの基本レイアウトをベースとし、これにダブルアクション撃発メカニズムを組み込む方針で開発を進めた。そのため完成されたライトニングリボルバーの外観はSAAリボルバーとよく似た点が数多くある。
しかし、軍用としてではなく、警察向けや個人の護身用として設計されたため、口径だけでなく、リボルバー全体のサイズを小さくした。とくに装備されたバーズヘッドと呼ばれるバックストラップ全体にカーブをもたせたグリップは、このリボルバーをさらに小さく見せる効果を生んでいる。全体のシルエットは男性的な印象を備えたSAAリボルバーに比べ、多くの丸みを含んだ女性的な印象を与えるものだ。
試作は1876年中に完成し、コルト社では後にライトニングリボルバーと呼ばれるようになる新型ダブルアクションリボルバーを製造するためのゲージや治具が整えられた。同時にこのリボルバーの製造ラインが整備されて、サンプルモデルの生産が始められた。コルト ライトニングリボルバーのサンプルモデルが一般に公開展示されたのは、1876年の5月から10月までの間にアメリカ フィラデルフィアで開催されたアメリカ合衆国独立100周年記念万国博覧会が最初だったといわれている。
そして1877年1月、コルトはライトニングリボルバーについて、その発売を広告し始めた。しかし、コルトでの量産が軌道に乗り、大手のコルト代理店にライトニングリボルバーが届けられるようになったのは1877年の中頃からだった。
次回 “Part 2 開発者ウィリアム・メイソン” に続く。
Text by Masami Tokoi 床井雅美
Photos by Terushi Jimbo 神保照史
Gun Professionals 2023年2月号に掲載
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