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2025/09/02

昭和大好きかるた 時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る 第35回「も」

 

時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る

 

第35

もしもし

 

 令和となってはや幾年。平成生まれの人たちが社会の中枢を担い出すようになった今、「昭和」はもはや教科書の中で語られる歴史上の時代となりつつある。
 でも、昭和にだってたくさんの楽しいことやワクワクさせるようなことがあった。そんな時代に生まれ育ったふたりのもの書きが、昭和100年の今、"あの頃"を懐かしむ連載。 

 第35回は、刃物専門編集者の服部夏生がお送りします。

 

 

 

 昭和に子ども時代を過ごした人は、おしなべてテクノロジーの進化を目の当たりにしてきている。その代表格といえば「電話」だろう。

 

 

『リンリンリリン〜』ってほんとに鳴りました

 

 昭和48年生まれの僕は残念ながら「交換手」に繋いでもらう最初期の電話は経験していないが、それでも家には「黒電話」が鎮座していた。
 黒い筐体には丸くて大きなダイヤルがついていた。目指す番号のところに開けられた穴に指を入れてジーコジーコと回すのである。呼び出しのベルの音はやかましくリンリンと鳴った。電電公社という公共企業体から「借りて」いたせいもあったのだろう、刺繍を施した布を被せる家庭も多かった。


 一家にひとつが基本である。だからありとあらゆる「外」の人、要するに親の仕事先、親類縁者、友人知人から、我々子どものクラスメートまでが、ここに電話をかけてきた。番号表示なんてあるわけないから、出るまで誰からかかってきたか分からない。

 

 彼らの最初の一声は決まって「もしもし」だった。

 家では電話を取る係だった僕は、いろんな「もしもし」を受けてきた。


「おかあさん、いる?」と、毎晩かけてくるフィリピン人のお姉さんがいた。外国人に日本語を教えている母親(90歳近くになった今もやっている)に懐いていたのである。その口調で、今夜の話題は楽しいか悲しいかがわかる感情豊かな声を聞くのは楽しかった。


「すまねえな」と、慕っていた叔父さんが毎晩かけてくる時期もあった。会うと愉快なことばっかり話してくれていたのに、電話の声はいつも暗かった。遺産問題できょうだいたちの間で揉めていることを薄々知っていたから、その声を聞くのは辛かった。

 

これが黒電話です。イントロで呼び出し音を連呼する『恋のダイヤル6700』なんて名曲もありました


 たまには僕にもかかってきた。


「あいつに電話するのやめてくれる!?」


  高校時代のある日、クラスメートの女の子から電話がきた。そこまでは仲良くないのになんでだろと思いつつも、あれこれおしゃべりした。楽しかったなあと余韻に浸っていたら、その彼氏から怒りの電話がきた。
 やめるも何もあっちからかけてきたし、とりとめもない話題だし。しどろもどろになって説明すると、彼はさらに激昂し、あいつは俺の彼女だから、話しかけないでくれよな!! と絶叫した。わかったけどさ、僕はただの友だちだよ。そう返す前に電話を切られた。


 何がなんだか分からないまま翌日登校すると、彼女は僕を避け、彼氏は体育のバレーボールの授業で僕を目掛けて恐ろしいスピードでスパイクを打ち込んできた。
「それはさ、その女の子が、君をダシにして、彼氏にヤキモチ妬かせたんだよ。君との電話を切ってすぐ、彼氏に『今ハットリくんと話しててさ』って電話して。うまく使われたね」


 後日、別の女の子に、こんな酷い目に遭ったんだと訴えたら、彼女は電話口の向こうで笑いながら教えてくれた。その子のことがちょっと、いやだいぶ気になっていたのだけど、彼女のお父さんは、男子からの電話を受けると「娘はいねえよ」とドスの効いた声で言い放ってガチャ切りすると教えられていたので、お付き合いさせていただくまでのハードルは高そうだな、と心の中で震え上がっていた。

 

 

ポケベルはちょっと謎のツールでした

 

 やがて、ボタンを押すプッシュホンが出てきて、1985(昭和60)年に電電公社が民営化するのと時期を同じくして、留守番電話機能がついたモデルが出てきた。
 平成に入って「ずっちーな」「かーんち」(*)に代表されるトレンディドラマ全盛の時代がやってきて、その最後期にポケットベル(これについて書くとなると、連載1回分は必要なので割愛するが、今から思うとよく使いこなしたものである)が出てきた。さらに携帯電話が普及する頃になると、公衆電話がいつしか街中から消え、固定電話も下火になっていった。


*「ずっちーな」「かーんち」:『東京ラブストーリー』は1991(平成3)年にフジテレビの月曜21時からの枠、通称『月9』で放送された。鈴木保奈美演じる赤名リカと織田裕二演じる「カンチ」こと永尾完治の恋物語を軸として回るドラマ。織田が「ずっちーな」と解読不能な言葉をかけると、鈴木が「かーんち」と言って抱きつくシーンは、トレンディドラマの象徴的な映像として現代に至るまで擦られまくっている


 今や、通信手段はひとり1台がほぼ当たり前、子どももスマートフォンを使いこなす時代になった。黒電話は、オート三輪とかブラウン管のテレビと一緒くたに古き良き昭和のアイコン的な立ち位置に納まった。
 まさに隔世の感である。


 もちろん、いつの時代だって、直接会うのが一番なのは変わりない。
 だが、電話は(少なくとも僕にとって)次善の策ではなくなってしまった。


 中途半端なのである。


 ビデオ通話に比べたら、表情から機微を読み取れないし、メールに比べたら、込み入った話が伝わりにくい。手軽さに至っては、SNSの方がずっと楽である。ひたすら、相手に気を使う。
 急ぎの場合は仕方なく電話を使うが、iPhoneの電話が来ましたよーという画面を見ると、おおむね憂鬱になる。 

 

これです。胃がきゅーんとします


 黒電話がよかったわけではない。むしろ、聞こえにくくなることもよくあったから、今よりずっと相手の気持ちを推し量るのは困難だった。


 そも、バカップル(バレーボール・カップルの略である)の際も、今だったら、女の子から来るのもLINEだろうし、揉めたら彼氏にそのやりとりを見せればいいだけである(逆に、見せると大変まずいことになるケースも多いけれど)。
 ただ、複数のツールを使いこなして即コンタクトできる今よりも、コミュニケーションそのものが、ずっと、ずっと貴重だったことは間違いない。

 

 

 「もしもし」の由来は知っている方も多いと思う。
 明治時代、日本で電話が開通した際に、交換手が相手に呼びかけるために「申し上げます、申し上げます」を略したものだった。声が聞き取りにくい際にも失礼のないように、と相手をおもんばかっての言い回しだった。


 インターネットを調べると、現代のビジネスシーンでは「もしもし」は、むしろ失礼にあたるという「マナー」を説くサイトが出てくる。
 時代に合わせて言葉の用例が変化したり、消えていくのは仕方のないことだ。


 だが、昭和生まれの僕は「もしもし」という言葉を聞くと、その先に続いた幾つもの会話が、次々に頭に思い浮かんでくる。楽しいことだけじゃない。前述したような、悲しいことも悔しいことも、たくさんあった。でも、今も覚えているやりとりは、押し並べて、聞こえにくくても、機微が読み取りにくくても、今、コミュニケーションを取らねばならない、という切実な思いが、黒い受話器を通して伝わってきていた。


「話せてよかった」
「またね」


 怖い父親のガードをかいくぐった先で交わした、気になるあの子との会話は、宝石のように輝いていた。それらは確かに、自分の人生を、意味あるものにしてくれたのである。

 

 

もしもしの 先で開いた 会話の花
 

 

TEXT:服部夏生

 

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