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2025/08/05

昭和大好きかるた 時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る 第33回「む」

 

時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る

 

第33

 

 令和となってはや幾年。平成生まれの人たちが社会の中枢を担い出すようになった今、「昭和」はもはや教科書の中で語られる歴史上の時代となりつつある。
 でも、昭和にだってたくさんの楽しいことやワクワクさせるようなことがあった。そんな時代に生まれ育ったふたりのもの書きが、昭和100年の今、"あの頃"を懐かしむ連載。 

 第33回は、刃物専門編集者の服部夏生がお送りします。

 

 


「紫はグレ色だで」


 小学2年生のときである。クラスメートが、国家機密を打ち明けるくらいのヒソヒソ声で教えてくれた。

 

 

不良の色だったとは、プリンスだってご存知あるまい

 

 グレとは、グレる。要するに紫は不良の色だというわけである。


 よって、紫色のものを身につけていると不良たちから不良と認定されるおそれがある。でも、うまく使いこなせば「でらかっけーで(すごくカッコいいぜ、の意)」という話だった。
 LAギャングの赤バンダナ、青バンダナを彷彿させる物騒な話だが、名古屋のちびっこギャングが紫のせいでどつかれるなんてことはなかった。


 にしても、なぜ、紫なのか。 


 理由はわからない。そも紫は、古来、雅な色、高貴な色として扱われている。
 だが、妙に納得するものがあった。

 

聖徳太子の頃から、紫は位の高い色として扱われていた。当時は紫の染料をこしらえるのが特別難しかったらしい

 

 当時の不良たちが来ていた学ランの裏地は、紫色がベースだったのである。


 国宝「玉虫厨子」もかくやとばかりにあやしく玉虫色に輝くそれをどこかで見ていたのだろう。
 菊池さんが「ツッパリ」回で言及した『ビー・バップ・ハイスクール』の映画がヒットするのはもう少し先のこと。当時は不良といえば横浜銀蝿。彼らのヒット曲『ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)』の替え歌をみんなで歌っていたし、生まれ育った団地には、ドカン&ヨーランを着こなした不良たちが始皇帝陵の兵馬俑みたく大勢いた。

 

 

 話は一気に平成に飛ぶ。


 高校生になった僕は、夜な夜な中学時代のクラスメートだったハナイくんとつるんでいた。巨大な公園の一角にある野球場のベンチが僕たちの指定席だった。


 ハナイくんは中卒で働いていた。毎日がすごく刺激的だ。そう言いながら、勤務先の大人たちとのエピソードを話し、彼らから教えてもらったユーロビートを編集したカセットテープを渡してくれた。高校で鬱々と過ごしていた僕にとっては、ものすごく楽しい時間で、多い時は週3くらいで遊んでいた。


 それだけ過ごしていると、いくら気が合っていても飽きてくる。
 ある日、ハナイくんは意を決したように「今日はスナックいこまい(行こうよ、の意)」と告げてきた。聞けば、先輩たちに連れられて行って楽しかったので、僕にも体験させてやりたい、とのことだった。


 予備動作なしで大人の世界に足を踏み入れるわけである。当たり前だが、怖くね? と思った。でも、夏の入道雲のように湧き上がってきた好奇心の前に、ネガティブな感情はたちまち吹き飛んだ。
 いこまいいこまい。僕は応じて、彼についていく格好でスナックのあるエリアに向かった。


 移動手段は、自転車。
 元祖「チャリで来た」である。


 今その姿を見たら絶対笑うと思うけど、当時の僕らはウキウキ気分で、スナックの前にたどり着いた。

 

 

チャリで向かったスナックで出会った紫のスラックス

 

「はよはいろまい(早く入ろうよ、の意)」


「わかっとるで」


「ハナイ……、もしかしてこの店初めて?」


「……」


 それまで、森田健作もかくやとばかりに「俺について来い」的空気を出していたハナイくんが、急に小声になったのが気になった。心の中の軍曹が待てのサインを出したが、それを無視して、僕は重いドアを開けた。


 カウンター席には、中村あゆみを熱唱する金髪ワンレンの女性と、金髪をトサカみたくリーゼントにした男性がいた。二人はアニメキャラが描かれた紫のジャージをペアルックで決めていた。


 世界元不良選手権があったら、名古屋地区の決勝戦くらいには残れる風貌。完全アウェイである。
「撤退!! 撤退!!」と軍曹が絶叫していた。ですよね、ときびすを返したかったが、好奇心がギリ勝って一歩足を進めた。


 カウンターの中のママさんは、僕らを見て一瞬、驚いた顔をしたけど、いらっしゃい、と招き入れてくれて、ややあってモジモジしながら烏龍茶を頼んだ僕らのことを笑ったりせず、はいどうぞ、歌でもうたう? と話しかけてくれた。


 無口になったハナイくんの代わりに、いえいいですと断って、『西部警察』のボスa.k.a.石原裕次郎の姿を頭に思い浮かべながら、可能な限りチビチビと烏龍茶を呑んだ。
 時間にして、約15分。ガキにはそれが限界だった。


 お会計を済ませて出ていく時、ママさんは「大きくなったら、また来てね」と微笑んでくれた。
 カラオケの曲を仲良く選んでいたワンレンさんとトサカ氏は、その声で振り返ると、揃って手をあげてくれた。ドアを開けたタイミングで流れ出したボウイの『マリオネット』のイントロに送られるように、僕らは外に出て、再びチャリに乗って、地元に戻った。


 子どもだってバレたよな。そう思うと恥ずかしかった。公園ではあんなにイキっていたハナイくんのヘタレっぷりも腹立たしかった。
 でも、そんなことどうでもいいって思えるくらい、楽しかった。


 子どもだとわかってほっといてくれた元不良たちのさりげない優しさが、身に沁みた。


 ああいう大人が、格好いいんだな。


 紫のジャージ、イカしてんな。
 そう思いながら、僕はペダルを漕いで夜道を駆け抜けた。

 


 それから数十年。


 僕たちが集っていた野球場はなくなって、跡地には先日、立派なアリーナが建った。スナックのあった一帯はリノベーションされ、意識の高い若者たちが集う意識の高いカフェが立ち並ぶようになった。


 ここでも何度か書いてきたが、僕たちが育った団地は再開発でとうに消滅した。今、ハナイくんがどこで暮らしているか知る手立てもなくなってしまった。そして、トサカみたく髪の毛をおったてた不良たちも、世の中からいなくなってしまった。
 あの頃、僕という人間をつくりあげてくれたものは、ことごとく眼前から消えてしまったのである。


 でも、あのスナックで出会った元不良たちが見せてくれた「さりげない優しさ」は、大人になってから、何度か見聞きすることができた。
 もちろん、純度100%のそれに出会うには、オリンピック並みに長いサイクルが必要だ。


 そんなもんである。世の中なんて。


 ただ、掛け値なしに粋な振る舞いに触れて、生きていて良かったと思えたいくつかの夜は、大事な思い出として、僕の心の中の引き出しにしまわれている。

 

左側が団地があった一角で、右側が野球場跡にできたIGアリーナ。こけら落としの大相撲名古屋場所の千秋楽、しかも優勝パレード直前で、ものすごく盛り上がってました

 

 今でも紫色を見ると、グレ色だと感じて、僕は身構える。


 この前「赤紫」のトレパンを買った時でさえ、清水の舞台を飛び降りる思いだった。で、それを履いてコンビニに行くときは、ドキドキするのである。ちょっとだけ。

 


紫は やさしい大人が まとう色
 

 

TEXT:服部夏生

 

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