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2023/10/20

激動するイスラエルとパレスチナの軌跡ー第3次・第4次中東戦争とオスロ合意ー【イスラエル建国とその激動】

 

イスラエル建国とその激動

 

▶ 【前編】建国から第二次中東戦争までの解説はこちら ◀

 


 

第三次中東戦争とPLO

1964-1967

 

 国家として成長を遂げていた1960年代のイスラエルだが、その裏には常にパレスチナ人武装組織との闘争があった。その中心となったのが、元エジプト軍人のヤーセル・アラファトに率いられたファタハ(パレスチナ民族解放運動)である。

 

左からセンチュリオン(ショット)、M51、M50

 

 このファタハは1964年にはPLO(パレスチナ解放機構)の主流派となり、イスラエル北部で激しい闘争を繰り広げる。
 このPLOとの闘争に乗じてエジプトはイスラエルにとって海上の生命線であるチラン海峡の封鎖に乗り出す。さらにシリアではクーデターが発生しPLO支持の政権が誕生、ゴラン高原からイスラエル領内への砲撃を開始した。

 

 二正面での圧力に晒されたイスラエルは米国からの支援やアラブ諸国の攻撃のタイミングを鑑みて即時開戦か否かの間で揺れ続け、イスラエル政権は国民からの支持を失いつつあった。またエジプトはイスラエルに先制攻撃をかけさせ、その後に攻撃を加えて叩き潰すプランを練っていた。

 

 

第三次中東戦争

 

 そのような情勢下の1967年6月5日朝7時45分、イスラエル空軍機は総力をあげて(攻撃中にイスラエル領空内に留まっていた機体は12機だけだった)エジプト領空内に超低空飛行で侵入、エジプト軍の使用可能な軍用機の1/3を破壊し機能麻痺に陥れた。

 

 同日11時50分にはシリア、イラク、ヨルダンの機体が同時にイスラエル領空に侵入したが2時間以内にイスラエル軍は攻撃側の機体を撃墜し、空陸でシリアとヨルダンの機体を破壊し続けた。この戦闘初日に400機の飛行機が破壊されたといわれ、これによってイスラエルは航空優勢を獲得しこの戦争の主導権を握ったのだ。(第三次中東戦争)


 初日のうちには戦いは地上戦のフェーズに入り、エルサレムではヨルダン軍とイスラエル軍の戦闘が激化。またシナイ半島ではアブ・アゲイラをイスラエル軍が攻略し機甲部隊が進出、ガザ地区とエジプトとの連絡を絶ちきった。

 

 7日にはシナイ半島北岸で地中海に面するエル・アリシュの沖合で米軍の情報収集艦であるリバティー号を攻撃してしまう事件を起こすなど若干の混乱は見られたものの、イスラエル軍は終始優位に戦闘を展開。シナイ半島を前進してスエズ運河に迫るまで前進したが、6月8日午前零時の時点でエジプトとの間に停戦が成立することとなる。

 

 北部では10日までシリアとの間でゴラン高原を巡る戦いが続いたが、同日6時30分にはこの戦闘も停止され、ここに一連の戦いは終わりを告げた。この戦争は戦いの続いた日数から「六日戦争」と呼ばれることとなる。しかし、急激に拡大したシナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラン高原といった占領地域の管理や防衛は国力の小さいイスラエルにとって逆に重荷となり、後の30年間にわたってイスラエルを悩ませることとなる。

 

使用された主なイスラエル国防軍戦車

 

  • ショット(センチュリオン改造)
  • M48 パットン
  • M50/M51 スーパーシャーマン

 


 

第四次中東戦争とサダト

1970-1973

 

 長年にわたるイスラエルの仇敵であったエジプトのガマル・アブドゥル・ナセル大統領が1970年に死去、代わって同年10月に大統領に就任したのがアンワル・サダトである。

 彼はナセルによる対イスラエル強硬路線を踏襲し、汎アラブ主義国家の統合を図ったアラブ共和国連邦を結成。また第三次中東戦争で奪われた領土をアメリカの後ろ盾の元に奪還するべく、対イスラエル戦争開戦を模索する。

 

 1972年には戦争計画が具体化され、ソ連からの供与兵器を使用した戦術の研究も進められた。同様にシリア軍も戦力の拡張を進め、イスラエルに対する攻勢の準備は着々と整いつつあった。一方イスラエルは第三次中東戦争の圧倒的な勝利によってアラブの戦力を低く見積もっていた。そのためアラブ側の戦車や火砲が国境付近に集結しつつあるという報告も過小評価していたのである。


 1973年10月5日からはユダヤ教で最も神聖な祭日である「ヨム・キプール(贖罪の日)」にあたり、ユダヤ人の多くがこの日の夕方から翌日の大半をシナゴーグ(ユダヤ教会堂)で過ごすことになっている。

 

 その翌日である10月6日午後2時からエジプトとシリアの両軍はイスラエルに対し同時に攻撃を開始。(第四次中東戦争)240機のエジプト空軍機がスエズ運河の東岸に殺到し、イスラエル軍陣地を攻撃した。

 

ショット・カル

 

第四次中東戦争

 

 同時にエジプト軍の火砲2000門が激しい攻撃準備射撃を開始し、攻撃開始からの1分間で1万発を超える砲弾がイスラエル軍陣地に降り注いだ。午後2時15分には8000人から成るエジプト軍攻撃部隊がシナイ半島に攻め込み東進を開始。スエズ運河の東岸にある16のイスラエル軍陣地はこれに対して猛烈に抵抗した。


 一方ゴラン高原から攻め込んだシリア軍はヘルモン山にあるイスラエルのレーダーと情報収集センターを占拠。さらに1400輌のシリア戦車がゴラン高原の中央部、南部、北部に別れて進撃を開始したが、少数のイスラエル戦車部隊による局地的だが猛烈な抵抗に遭い、攻撃開始からの24時間の戦闘で当初の勢いは削がれてしまう。

 

 10月13日にはエジプト軍の増援部隊がスエズ東岸に上陸。これに対してイスラエル軍は使える戦車をすべて投入して反撃し、合計2000輌の戦車が激突する第二次大戦以来の大戦車戦が発生した。場所によっては戦車同士が100ヤードの距離で撃ち合うような接近戦となり、エジプト軍はこの1日で264輌の戦車を失ったが、イスラエルの損失はわずか10輌であった。

 

 また同日にはシリア軍の戦線に急派されたイラク軍一個旅団も交えた戦闘が発生したが、イスラエル軍によって全滅させられている。同日、アメリカのニクソン大統領はイスラエルに対する軍需物資の空輸を決定し、これによってこの戦争の主導権をイスラエルが握ることとなった。


 10月16日にはイスラエル軍はスエズ運河を渡河し西岸に上陸。19日にはゴラン高原方面でもイスラエル軍は前進し、シリアの首都ダマスカスまで20マイルほどの距離まで到達していた。開戦前の境界線を大きく超え、イスラエルは交戦国の領土内まで入り込んでいたのである。


 10月22日、イスラエル政府は停戦への合意を発表。その後断続的に戦闘は続いたが、 24日にはエジプト、シリアも国連の停戦決議を受け入れ、第四次中東戦争は終結した。エジプトが緒戦でスエズ運河を渡りイスラエルの陣地線を突破したことは心理面で画期的な効果を生み、エジプトとイスラエルとの交渉は進展。

 

 また、この戦争の最中にアラブ系の産油国はイスラエル支援国への石油輸出価格をつり上げ、いわゆるオイルショックを引き起こすことになる。そういった意味では、現代へとつながる中東情勢の基礎になったのが、この第四次中東戦争なのだ。

 

 

⚫使用された主なイスラエル国防軍戦車

  • マガフ(M48パットン改造)
  • ショット(センチュリオン改造)
  • M60 パットン

 


 

キャンプ・デービッド合意とオスロ合意

1975-2000

 

 第四次中東戦争の終結後、サダトはイスラエルに対しての交渉を開始する。エジプト側からするとこの交渉にイスラエルを引きずり出すために第四次中東戦争の緒戦でイスラエルに打撃を与えた側面があり、戦勝はそもそも眼中に入っていなかったとされる。

 

 1975年にはイスラエルのイツハク・ラビン首相はアメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の支持のもと、シナイ半島を巡る暫定協定交渉を試み、エジプト側に接触する。この当時エジプトの外交路線もアメリカへと接近しており、1977年にはサダトによるエルサレム訪問を実現する。

 

 これをきっかけにイスラエルとエジプトはアメリカの仲介に従って和平交渉を開始し、1978年9月4日にはアメリカはメリーランド州の大統領専用別荘であるキャンプ・デービッドにおいてカーター大統領を交えてイスラエルとエジプトとの会談が開始された。

 

キャンプ・デービッド合意

 

 13日間におよぶ激しい議論の末、9月17日には両者の間で合意が成立。(キャンプ・デービッド合意)イスラエルとエジプトの国交正常化とイスラエルによるシナイ半島の返還に両国は同意することとなる。これは建国以来周辺のアラブ諸国と絶えず死闘を続けてきたイスラエルにとって画期的な合意であった。

 しかし、サダト大統領はこの合意を「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取ったイスラム復興主義者の砲兵中尉によって、1981年の第四次中東戦争開戦記念パレード観閲中に暗殺されてしまう。

 

メルカバMk.II


 一方、そう簡単に進まなかったのがPLOとの交渉である。そもそもPLOをパレスチナ住民の代表として認めるかどうかというポイントが長らく問題であったのだが、それに関して歴史的な転換点となったのがオスロ合意だ。

 

オスロ合意

 

 これは1993年9月にイスラエルとPLOが和平に向けた枠組みを取り決めた合意で、イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認すること、イスラエルが現在占領しているパレスチナ地区から暫定的に撤退し5年の自治を認めること、その5年の間に今後の流れの詳細を取り決めることが盛り込まれたものである。

 

 このオスロ合意はイスラエル労働党とラビン首相がアメリカの民主党政権(当時)と進めたものだったが、イスラエルの右派はパレスチナ地域の全域をイスラエルの土地と見なしており、占領しているヨルダン川西岸地区とガザからのパレスチナ人追放を主張していた。にもかかわらず取り付けられたオスロ合意ではイスラエルの暫時撤退、パレスチナ自治政府による暫定自治開始とエルサレムの帰属や難民問題などの解決交渉、さらにパレスチナ自治開始5年を目処にしたイスラエルとパレスチナの歴史的和解といった内容が盛り込まれていたのである。


 しかし1995年にはラビン首相が暗殺されてしまい、翌年の選挙では右派リクードとベンヤミン・ネタニヤフが勝利するとオスロ・プロセスは一気に停滞してしまう。1999年にイスラエルで労働党とバラク首相が政権復帰した際にパレスチナとの和平を結ぼうとする動きもあったが、PLOとの合意に至ることはできなかった。その内にパレスチナ自治区の貧困化が進み、 2000年の住民蜂起とタカ派のアリエル・シャロン首相の登場によってオスロ合意と和平プロセスは崩壊してしまったのだった。

 

TEXT:夏目公徳

PHOTO : 笹川英夫

 

※この記事は月刊ホビージャパン2016年9月号に掲載されたものを再構成しています。

 


 

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