2023/10/20
イスラエルとパレスチナの確執ー独立宣言に至る経緯と中東戦争ー【イスラエル建国とその激動】
イスラエル建国とその激動
1948年5月14日、イスラエル建国。
ユダヤ人が歴史上で国家を失ってから約2000年、遂にめぐってきたこのチャンスをイスラエル初代大統領ダヴィッド・ベングリオンは確実に物にした。国連にてパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、エルサレム(国際管理地域)の3つに分割する案が可決され、約60万人のユダヤ人がこの地にやってきた。
当時のパレスチナ人の人口は約197万人。かつての土地を分割されてしまったパレスチナ人と、宿願ともいえる「国家」を手に入れたイスラエル人にとって争いは避けらない状況となる。そして「アラブの大儀」を実現すべくイスラエルへと侵攻する周辺のアラブ諸国により、中東は現在にまで続くかつてない混迷の時代へと突入していくのだった……。
イスラエルとは? 中東戦争とは? そして現在に至るイスラエルと中東情勢とは? ここではその流れを簡潔に見て行こう。
イスラエル建国までの経緯
1897-1948
1897年8月、スイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議。ここでパレスチナに、これまで世界各地に離散してきたユダヤ人たちによる公的に認められた国家を建設することが採択され、以後19世紀の末から20世紀の初頭にかけて、これまでバラバラに進められていたシオニズム運動(ユダヤ人が自分たちの国家を作ろうとする運動)は政治運動にまとめられ、パレスチナへのユダヤ人の入植は勢いを増していく。
その後の第一次世界大戦中、イギリスはシオニズム運動家たちに戦後パレスチナを明け渡すことを認めた。これは英外相アーサー・バルフォアがユダヤ系の門閥であるウォルター・ロスチャイルドにあてて書いた書簡に明言されていたことからバルフォア宣言と呼ばれたが、結局約束は反故にされ、パレスチナはイギリスの委任統治領となった。
このパレスチナ委任統治領では20世紀初頭から入植したユダヤ人がハガナーやエツェルといった民兵組織を編成。これらの組織は第二次世界大戦中から対英武装闘争やアラブ系住民との戦闘などを行なっていた。この闘争の激化を受け、大戦で国力が疲弊した英国は委任統治を断念。1947年にはパレスチナ問題を国連に付託する。
国連ではパレスチナをユダヤ民族国家とアラブ民族国家に分割するか、両民族の連邦国家とするかで意見が分かれたが、最終的には分割案が決議されることとなった。ユダヤ人はこの決議に歓喜したが、先祖伝来の土地を割譲させられたアラブ人の怒りは冷めやらず、両民族の衝突は激化し事実上の内戦状態に突入。
そんな中の1948年5月14日、初代首相ダヴィッド・ベングリオンがイスラエル国家の設立を宣言する。ハイファでは最後の英軍部隊の撤退と同時にイスラエル国旗が掲揚され、米大統領トルーマンは直ちにイスラエルの承認を発表、ここにユダヤ人にとって2000年来の悲願だった「自分たちの国家」が誕生したのである。
第一次、第二次中東戦争
1948 - 1956
イスラエルの独立宣言の翌日である1948年5月15日、レバノン、シリア、イラク、ヨルダン、エジプトの周辺アラブ諸国がパレスチナ地域に侵攻し、第一次中東戦争が始まった。この戦争はイスラエル側の呼称としては「独立戦争」と呼ばれる。
第一次中東戦争
この5月15日の以前からアラブ人の脱出とユダヤ人とアラブ人の散発的な戦闘は勃発していたが、これにより本格的な戦争状態へと突入。アラブ側約15万人の戦力に対し、イスラエル側は合計約3万6000人の民兵のみという圧倒的な戦力差がある戦いだった。イスラエルにはまともな兵器がほとんど手元になかった上に北部と南部から挟撃される形になったため、照準器の付いていない野砲数門を北部と南部のどちらに回すかで首相であるベングリオンと野戦指揮官の間で協議しなければならないほどだったという。
開戦から1カ月余りの6月11日、国連の呼びかけによって4週間の休戦となった。この間にイスラエルはエルサレムへの補給ルートを整備し、さらに戦力の再編成を行なった。各地の武装組織の指揮系統を一本化してイスラエル国防軍を編成。反攻の準備を着々と整えたのである。
7月9日の休戦終了後も一進一退の激戦が続いたが、国連決議によって同月18日には再度の休戦となった。が、この休戦の際にイスラエルは世界各国から火器、戦車、航空機といった武器をかき集め、この武器の買い付けは10月あたりまで続けられた。これによる戦力拡張でようやくイスラエルにも優位に立てる見通しがついたのである。この二度目の休戦は10月なかばのエジプト軍との戦闘でなし崩し的に終了となり、以降断続的に激しい攻防が続くこととなった。が、1949年に入ってからイスラエルと関係各国は停戦交渉を開始し、 2月にはまずエジプトとの間で停戦が成立。以降3月にレバノン、4月にヨルダン、7月にシリアと停戦協定が結ばれ、1年2カ月続いたイスラエルの独立戦争は終わったのである。
第二次中東戦争
だが、この独立戦争はイスラエルの戦いの序章に過ぎなかった。引き金となったのは1952年にエジプトで発生した革命である。この革命によってエジプトは共和制に移行し、1956年に大統領に就任したナセルは同年7月にスエズ運河の国有化を行なった。
スエズ運河は長らくイギリスによって管理されてきた重要な戦略拠点であり、これを失うことはイギリスにとって何としても避けたい事態。イギリスは当時ナセル政権がアルジェリア民族解放戦線への援助を行なっていると睨んでいたフランスと協力し、エジプトへの軍事行動の道を模索し始める。そこに自国船舶の自由航行を確実にするためシナイ半島からエジプト軍を駆逐したいイスラエルが加わり、1956年10月29日、イスラエル軍落下傘部隊によるシナイ半島のミトラ峠への攻撃によってこの3カ国とエジプトとの間で戦端が開かれることとなったのである。
緒戦においてイスラエルの出方を見誤ったエジプト軍に対し、イスラエル軍は数日間の内に戦闘の主導権を握った。またフランスから戦車など多くの装備を受け取っていたイスラエル軍の装備は独立戦争当時とは比較にならないほど向上しており、その面でもエジプト軍を圧倒したのである。続く11月5日には英仏軍の地上軍投入も始まり、勝利は目前に思えた。(第二次中東戦争)
が、ここでアメリカによる停戦通告が三国に対して発せられる。ソ連まで交えたこの停戦への圧力のため11月6日には英仏が、次いで8日にはイスラエルも停戦を受諾し、全軍が戦闘を中止。同月14日、イスラエルは国会において占領した地域からの全軍撤退に合意した。結局この第二次中東戦争は開戦から100時間あまりで停戦という事態となったが、この建国からの2度の戦争によってイスラエルは国際社会において強い存在感を示したのだった。
使用された主なイスラエル国防軍戦車
- M4 シャーマン
- AMX-13
- M50/M51 スーパーシャーマン
- オチキスH35/
- チャーチル歩兵戦車
- その他第二次大戦中の余剰車輌各種
TEXT:夏目公徳
PHOTO : 笹川英夫
※この記事は月刊ホビージャパン2016年9月号に掲載されたものを再構成しています。
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