2023/07/27
【解説】アメリカ海兵隊の軌跡 ―激闘の記録をピックアップ―
アメリカ海兵隊の歴史
海兵隊は1775年11月10日、フィラデルフィアで開催された第2回大陸会議で結成された大陸海兵隊(Continental Marines)を祖とし、一時解散した時期はあれど、アメリカ建国以来、様々な戦争に参加し続けた。今回はその海兵隊の軌跡について簡単にご紹介。そして彼らが参加してきた戦いをピックアップして解説する。
海兵隊の軌跡
アメリカ海兵隊は1775年11月10日、フィラデルフィアで開催された第2回大陸会議で、上陸部隊として創立。最初の海兵隊(Continental Marines)はバハマ諸島への初の水陸両用作戦をはじめ数々の作戦でその力を発揮し、アメリカ独立戦争での勝利に貢献した。戦争の終結に伴い海兵隊は一時解散したものの、1798年7月11日に再び設立され、フランスの私掠船との戦い(the quasi-war with France)など海上作戦で実力を発揮。以来、海上や海に面した地域で活躍し、アメリカ建国以来の主な戦争に参加し続けた。さらに、その任務は戦闘に止まらず、災害に伴う捜索・救助、人道支援、災害復旧活動にも従事するなど、柔軟な対応能力を見せている。一例として、2011年3月11日の東日本大震災発生後、被災地救助のトモダチ作戦には海兵隊を含めた約2万5千人の米軍兵士が参加。米海兵隊の第31海兵遠征部隊は宮城県気仙沼市の大島で、人道支援、被害救助活動を行なっている。
海兵隊が参加した主な戦争・内紛など
- アメリカ独立戦争
- 米墨戦争
- 南北戦争
- 米西戦争
- 米比戦争
- 義和団事件
- 第一次世界大戦
- 第二次世界大戦
- 朝鮮戦争
- レバノン紛争
- ドミニカ共和国占領
- ベトナム戦争
- レバノン内戦
- グレナダ侵攻
- パナマ侵攻
- 湾岸戦争
- ソマリア内戦
- ルワンダ内乱
- 2001年以降の対テロ戦争
続いてこの海兵隊が参加した戦いの中からいくつかピックアップしてご紹介する。
ムーズ・アルゴンヌ攻勢
第一次世界大戦時、1917年4月より参戦したアメリカは遠征軍(American Expeditionary Forces)を組織し、英仏連合の支援を行なった。アメリカ軍全体で100万人以上の兵士が動員され、1918年、米海兵隊はベローウッド、ソワソン、サンミッシェル、ブランモンなど様々な戦場に投入された。中でもムーズ・アルゴンヌ攻勢に参戦した第4旅団の海兵隊(Marines of the 4th Brigade)の活躍はめざましかった。当時、アメリカ軍は歩兵戦におけるノウハウが少なく編成は試行錯誤されたものだったが、海兵隊はその不利を物ともせずに前進。11月1日の戦闘では10時間のうちに前線のドイツ軍を撃破しながら、目標を3つ掌握し、9km以上の前進を果たした。海兵隊の異名"Devil Dogs"は第一次世界大戦の活躍から生まれたとされている。
硫黄島の戦い
太平洋戦争において硫黄島は日本本土防衛における重要拠点のひとつであり、同島はマリアナ諸島から日本本土空襲に向かう米軍B-29爆撃機の進路上に存在し、迂回を余儀なくされていた。ここを占領できれば迂回の必要がなくなる上に、飛行場を損傷したB-29の避難用や護衛戦闘機の基地などに使えるメリットがあった。そこで米軍は硫黄島攻略のデタッチメント作戦を計画し、1945年2月19日、第3、第4、第5海兵師団を基幹とする第5水陸両用軍団が硫黄島への上陸を開始した。栗林忠道中将率いる日本陸軍の小笠原兵団は従来の水際作戦を放棄し、兵力は劣勢ながら周到に構築された陣地からこれを迎え撃った。そのため、上陸後前進しようとした海兵隊側の損害が続出。海兵隊員は穴を掘って蛸壺を作ろうとしても、硫黄島の海岸地域は柔らかい火山灰土に覆われており、穴を掘っても内側から土が崩れて満足な防御を固められなかった。またこの柔らかい土は中戦車などの上陸も阻み、作戦は難航。上陸部隊の損害はさらに増していった。ちなみに、それ以前のガダルカナルの戦いで名誉勲章(Medal of Honor)を授与された海兵隊隊員、ジョン・バジロン軍曹もここで勇戦の末、戦死している。小笠原兵団は徹底抗戦したものの兵力差は歴然としており、米海兵隊は粘り強く戦い続け36日かけて硫黄島を制圧した。投入された兵員は約11万人、うち戦傷者約2万6,000人、戦死者約6,800人であり、米軍側の戦死傷者合計数が日本軍側(戦死約19,900人)を上回るという稀有な例となるほどの激戦となった。
仁川上陸作戦
1950年に勃発した朝鮮戦争で、当初韓国軍とそれを支援するアメリカ軍は苦戦を強いられていた。第二次世界大戦後の国防費削減によって規模を縮小していたこともあり、アメリカ軍は初期に充分な戦力を朝鮮半島に投入できず、北朝鮮軍の侵攻により防衛線は半島南部の釜山橋頭堡まで後退した。極東総司令官兼国連軍司令官のダグラス・マッカーサー元帥は本国の上層部を説得し、仁川上陸を目的としたクロマイト作戦を計画。作戦目的は上陸後、金浦(キンポ)の空軍基地を経てソウルを解放し、釜山橋頭堡に迫る北朝鮮軍の後方連絡線を遮断することだった。そして、1950年9月13日、海軍は仁川への攻撃を開始。北朝鮮の基地や拠点に充分な打撃を与えると、9月15日、第1海兵隊師団(1st Marine Division)が仁川に上陸、瞬く間に占領した。9月19日には、海兵隊は金浦航空基地を占領し、そこに海兵隊の近接支援機と空軍の補給輸送機が到着。彼らは補給と支援を受けて前進。釜山から北上してきた友軍と合流すると、海兵隊、陸軍、韓国軍は1950年9月28日にソウルを占領した。陸海空が協調することで成し遂げた鮮やかな奇襲上陸作戦であった。
ガンジュガル・ガルの戦い
2009年9月8日、アフガニスタン東部のガンジュガル・ガル(Ganjgal Ghar)にて、アメリカ陸軍、海兵隊、アフガン国家安全保障部隊(Afghan National Security Forces:ANSF)の合同部隊がブリブーザII作戦(Operation Buri Booza II)を実施した。彼らの目的は戦闘ではなく、ガルジュガル村の指導者たちと接触し、コミュニケーションを行なうことだった。部隊は106名で、約65名が村へと隊列を組んで前進し、残りの海兵隊とANSF隊員は北と南に分かれてサポートポジションについた。順調に村に向かっていた隊列だったが、先頭の海兵隊員が村から100メートル付近に足を踏み入れた瞬間、前方からRPG-7の攻撃を受けた。敵は南北のサポートポジションから確認できなかった塹壕を利用して村へ侵入し、AKライフルや機関銃で一斉に海兵隊たちを攻撃したのだ。敵の猛攻に味方同士は散り散りになり、連携が取れない状況へ陥る。いったん、後退して態勢を立て直したスウェンソン、ファバヨ、そして、海兵隊のロドリゲス-チャベスとマイヤーの4名は再度、車輌で奇襲を受けた戦場に戻り、仲間の救援を行なう。ロドリゲス-チャベスはハンヴィーを操縦し、マイヤーは砲塔から顔を出して銃撃に身を晒しながら果敢に反撃しつつ、救助活動を行なった。そして、取り残された先行部隊の海兵隊隊員の遺体を発見すると、アフガニスタンの友軍の手を借りて収容した。この英雄的行為からロドリゲス-チャベスには海軍十字勲章(Navy Cross)、マイヤーには名誉勲章(Medal of Honor)が授与されている。
▼関連書籍
TEXT:アームズマガジン編集部
参考文献:
- Marines.mil https://www.marines.com/
- 在日米海兵隊公式サイト https://www.japan.marines.mil/
- Marine Corps University https://www.usmcu.edu/
- アメリカ国立公文書館 https://www.archives.gov/
この記事は月刊アームズマガジン2023年8月号に掲載されたものです。
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