2025/03/01
GUN HISTORY ROOM 116 シン・南部式拳銃
南部式自動拳銃大型は、米国ではNambu Model 1902という呼称が定着している。しかし、日本にある史料からはこの銃の完成は1904年だということがわかる。今回は南部式自動拳銃が辿った軌跡を時系列的に見てみたい。
南部式大型拳銃の製造開始時期について
南部式拳銃に関しては、120年も前に製造された拳銃にしては史料が豊富に残っていることに驚かされる。
これは日本軍の拳銃・小銃の史料を一通り調べてみた現在だから言える気づきであって2013年に”新説南部式拳銃”を執筆していたころは、南部式拳銃以外の銃もこの程度の史料が残っているのではないかと思っていた。
もちろん40年近く基幹小銃であった、三八式銃関連の史料に比べれば南部式拳銃の史料は多くないが、三八式銃の史料は「某部隊で〇挺の三八式歩兵銃が衰損したので交換してほしい」などの事務的なものも多く、20年ほどの生産されていただけの南部式拳銃の史料に、質的量的に良質なものが残されているのは特別なことだといえるだろう。
そんな中、特に日本側史料から判明したこの銃に関するアメリカの認識と異なる点として、南部式拳銃の製造開始時期の問題がある。
これについては新説南部式拳銃で触れたのだが、史料の読み込みが甘く、また記述も時系列の他、様々な方面への考察も交えていて、わかりにくい内容であったので再度考察しておきたい。
まずアメリカでは南部式大型自動拳銃(いわゆるグランパナンブ)をNambu Model 1902と呼称していることだ。
一般的にはこの末尾の西暦は、軍用銃ならその国の軍隊での採用年を表し、コマーシャルモデルなら発売年となる場合がほとんどだろう。
これに対する日本側史料は、陸軍将校団の親睦団体である偕行社の機関誌「偕行社記事」明治36(1903)年8月下旬の320号P80~P81「内事」(部内連絡程度の意味か)に記された「新拳銃」というものと、明治37(1904)年1月初旬329号P87~P88「自働拳銃」という記事(この“自働拳銃”という表記は誤変換ではない。当時は“自動拳銃”を“自働拳銃”と表記した)がある。
この「新拳銃」では”自動拳銃がリボルバーより優れている”と記した上で、垂直に取り付けられたグリップに固定弾倉が組み込まれたクリップチャージ式の南部麒次郎製作による試作品が、第五回内国勧業博覧会(会期:明治36年3月1日~7月31日)に出品されたことが記されている。
内国勧業博覧会初日から試作南部式拳銃が出品されたとすれば、明治36(1903)年3月には垂直に取り付けられたグリップに固定弾倉を装備したクリップチャージ式の試作品が完成していたということになるわけだ。
ただ今日知られている南部式拳銃と、「新拳銃」に記述されている試作品はその内容が大きくかけ離れており、まだ南部式拳銃の完成ということにはならない。
この「新拳銃」という記事の主題は、第五回内国勧業博覧会に出品されたものを大幅に改良した拳銃が製作されたということにある。
それによれば「弾薬は別に弾倉があって、そのうちに収容され、その弾倉を弾倉室の後部より装入すれば直ちに発射の準備をなす」というもので、グリップ内着脱式弾倉に改良され、現在知られる南部式拳銃に近づいてきている。
これが第五回内国勧業博覧会の終わった後の明治36年8月の記事だから、博覧会開催期間中の約5ヵ月間にかなり大幅な改良が行なわれたということが判る。
この後に続く史料が明治37(1904)年1月の「自働拳銃」で、これは内容と口語訳を資料として掲載するが、この時点でも実際の南部式拳銃とは相違がある。
まず弾頭重量は7gとなっているが実際は6.6g、初速は350m/sとしているが実際は300m/s(明治期の値、後に315m/s)、甲型の装弾数9発が実際は8発、甲型920g、乙型890gとしているが実際は907gで、乙型が固定照門としているが、実際はタンジェントサイトになっている。
このことから「自働拳銃」が掲載された偕行社記事は明治37年1月初旬号(当時偕行社記事は月2回配本)なので、少なくともその前年明治36(1903)年12月には編集されていなければならないが、その時期でもまだ南部式拳銃は完成形になっていないことになる。
ではいつ頃、南部式拳銃は完成形となって製造が開始されたのかだが、これについての史料は、アジ歴リファレンスC10071306100「自働速発拳銃同弾薬払下の件」というもので、三井物産合名会社代表社員 社長三井八郎次郎(大正期の実業家、男爵 三井南家第8代当主;三井物産社長)から陸軍大臣寺内正毅宛に「自働連発拳銃 甲種 拾挺 同 弾薬 二千六百発」の払い下げ願いが行なわれている。
実際の売り先は清国福建省福州福建武備学堂在勤の日本軍将校5名がそれぞれ拳銃1挺と弾薬200発、同学堂軍政局長徐紹槙が拳銃2挺、弾薬1,000発のほか、三井が販売見本として拳銃3挺弾薬600発となっている。
この払い下げ願の決裁は、明治38(1905)年4月30日で、翌月5月1日に東京砲兵工廠に製作及び払い下げを命じている。
続けてアジ歴リファレンスC03025973300「12加、15臼移動砲床送付の件」という軍務局砲兵課から兵器本廠、門司兵器廠へ、拳銃弾は第三軍砲兵部へ送達せよという指示で、拳銃弾数量300発に(南部式)と記入されている。
この命令の発令が明治37(1904)年11月18日であり、第三軍は明治37年6月ごろ旅順に展開している。
このように時期を追って偕行社記事に掲載された南部式拳銃の内容と、実際に発令された東京砲兵工廠への南部式拳銃の製作方指示、及び同年6月には旅順に着陣している第三軍に11月に南部式拳銃弾を後送している事実からすれば、日本側史料は南部式自動拳銃が現在知られている形態での生産が始まったのは明治37(1904)年の6月より前と考えるのが妥当であろう。
そうすると、なぜアメリカでNambu Model 1902と呼ばれるようになったのかの根拠が知りたいところだが、Harry L. Derby Ⅲ、James D. Brown著の“Japanese Military Cartridge Handguns 1893-1945”(2003年刊)でもModel 1902となっていて、この書籍の底本(原書)は1979年頃の刊行であることから、そのころにはすでにModel 1902と認識されていたのだろう。
ただ重要なことは日本側史料、それも一次史料がすべて南部式大型拳銃甲型の登場時期は明治37(1904)年4月から6月以前という事実を指示していることだ。
これについては、できうるなら何らかの形でアメリカでの認識を訂正したいと思うところだ。
南部式自動拳銃甲型の製造中止と乙型への移行と小型の追加、及び陸式拳銃の登場
史料を見ると南部式拳銃の対中国輸出は、明治40(1907)年を境に急激にその発注量が低下し、ついに明治44(1911)年、辛亥革命により中華民国が成立して以降、銃本体の発注は途絶えている。
日本からの対中国兵器輸出は、明治30年代半ばから盛んになるが、その理由の一つに、清朝政府が1902年から2年間、義和団事件(1900)以後の治安維持のため、外国からの武器輸入を法律で禁じていた事が挙げられる。
元来、中国の武器市場はドイツの影響力が強かったが、この法律により一時的に全ての対中国武器輸出が空白となり、さらに日露戦争中(1904-1905)ドイツはロシアへの武器供給に追われたため、中国市場への復帰が遅れていた。
その隙に日本は、日露戦争中にもかかわらず、旧式村田銃のダンピングなどの手法で中国への武器輸出を伸ばしていたのだ。