2025/03/02
WW2 ドイツ軍と共に戦った外国製ピストル23 Beretta Model 1934/1935
Beretta Model 1934 & Model 1935 ベレッタモデル1934 & モデル1935
Written by M.TOKOI 床井雅美 Photos by T.JIMBO 神保照史
第二次大戦でドイツ軍によって使われたベレッタ モデル1934および1935は、ドイツとイタリア両国の状況と関係により3つに大別できる。20世紀前半のベレッタピストルを代表するモデル1934および1935について、詳しく解説したい。
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ベレッタピストルが受けた風評被害
今回は冒頭から、記事の趣旨から大きく脱線した話から始めさせて頂きたい。
1953年より、イギリスの小説家イアン・フレミング(Ian Lancaster Fleming:1908-1964)は、ファンタジーの要素を加味したスパイ小説を執筆し始めた。 “007シリーズ”の始まりだ。
彼自身、第二次世界大戦中にイギリスの諜報機関で働いた経験を持っていたものの、その在職中に劇的な事態に巻き込まれることはなく、平凡な事務仕事をこなすだけだったという。そこで戦後小説家に転身した彼は、もし在職中にこんなことが起こったら…という想像を冒険小説にまとめ上げる形で、このシリーズを執筆している。
007の暗号名で活躍するスパイはジェームズ・ボンドと名付けられた。この名前は小説を執筆中に彼の書斎の本棚で目に留まった、“西インド諸島の鳥類”というタイトルの書籍の作者名から借用したという。
その後、彼の書いた小説は映画プロデューサーの目に止まり、1962年に映画化された。その作品は“Dr. No”(1963年に日本で公開された当初の邦題は『007は殺しの番号』)。
この映画が公開されると、誰も予想しなかったようなメガヒットとなった。単に映画の人気に留まらず、大きな社会的現象のきっかけにもなっている。アメリカではスパイを正義のヒーローに仕立て上げ、悪の組織との戦いを描いたテレビドラマシリーズが立て続けに作られ、類似の映画も次々と製作されるようになった。いわゆる1960年代のスパイアクション映画ブームだ。
本家である007もシリーズ化され、ジェームズ・ボンドの活躍する作品が次々と作られるようになった。1964年に原作者が死去した後も新作が製作され続け、ブームが去ったあともこのシリーズだけは別格となり、第一作の公開から60年以上経過した現在もこれが続いている。
その最初の映画“Dr. No”の冒頭、英国秘密情報部の中でジェームズ・ボンドは上司であるMから使用するピストルの変更を言い渡される。10年以上、ベレッタを使い失敗したことが無いと主張するボンドに対し、Mは前回の任務でジャミングを起こしてボンド自身が負傷したことを指摘し、ベレッタではだめだという。
その時、スクリーンに登場したベレッタがモデル1934、またはその7.65mm口径版のモデル1935だった。映画のセリフでもはっきりと“ベレッタ”と言っている。
そして英国秘密情報部のアーモラーであるブースロイド少佐が、ボンドにワルサーPPKを勧める。このブースロイド少佐の名前は3作目以降、Qに変更され、以後ほとんどの007映画に登場、様々な秘密兵器や武器を提供するようになるのだが、その最初がPPKだったわけだ。
映画の中の短いこのシーンは、ヨーロッパの銃砲業界に大きな影響を及ぼした。この事は1970年代にリポーターがワルサー社やベレッタ社を訪問した際に、それぞれの広報担当者達から直接聞いて確認した話なので、以下に書くことは単なる都市伝説ではなく、事実そのものだ。
映画が公開されるころ、ドイツのワルサー社は1920年代に開発されたワルサーPPやその派生型であるPPKの刷新を計画し、生産打ち切りを考えていたという。しかし、007映画が公開されると世界中からPPKの注文が殺到し、生産打ち切りどころか、増産に切り替える必要が出て、その後100万挺近くのPPKが生産されることになった。当時の007映画の影響力や驚くべきものだったわけだ。
映画制作の際にワルサー社から製作者や原作者に対する働きかけは一切なく、突然ジェームズ・ボンドと彼の使用するワルサーPPKが映画を通じて世界中に知れ渡るようになった。その後、映画の影響力を認識したワルサー社は、007映画に積極的にPPKを提供するようになったという。
一方、ダメだと断定されてしまったモデル1934(または1935)を製作していたベレッタ社は、大きな痛手を受け、販売数が激減、戦後も継続していたモデル1934の生産供給を打ち切った。すでに新型のモデル70シリーズを販売してはいたものの、ベレッタブランドのイメージは大きく損なわれた。この事が原動力になったのかどうかはわからないが、ベレッタ社は約13年後にワルサーPPKを大きく凌駕するダブルアクション機構や、ダブルスタックマガジンを組み込んだモデル80シリーズを開発している。
映画の短いせりふのやり取りが、これほど銃砲業界の2社の明暗を分けることになるとは、原作者イアン・フレミングや映画関係者も想像していなかったことだろう。現在であれば訴訟問題に発展するレベルの話だ。
ちなみにこのシーンは、1958年に出版された原作小説にも概ね同じような形で描かれている。1年前に出版された前作『ロシアより愛をこめて』で、ボンドは.25口径のベレッタに装着したサイレンサーがベルトに引っ掛かり、その結果、重傷を負ってしまった。
これは、グラスゴー在住の銃器研究家であったジェフリー・ブースロイドが007小説のファンで、フレミングに送ったファンレターの中で、ボンドが愛用する.25口径のベレッタでは威力不足であることを指摘、別のモデルに変更することを提案したことがきっかけだった。ブースロイドの勧めた銃はS&Wセンティニアル エアウェイトであったが、フレミングはサイレンサーを装着可能なピストルにこだわったため、PPKが選ばれた。そしてこれが小説『Dr. No』の冒頭で、上司Mからピストル変更を言い渡される展開に繋がっている。

その提案者であるブースロイドも武器係として小説に名前が登場、ご丁寧に映画でもそのシーンが描かれたわけだが、そこでベレッタ モデル1934(または1935)が使われたことが、ベレッタ社にとって大きな痛手となる。
原作に忠実に.25口径のヴェストポケットピストルを登場させ、「.25口径じゃ頼りないので、もっと口径の大きな銃を使いたまえ」と言えば、ベレッタ社はダメージを被らなかっただろう。
ベレッタ モデル1934(1935)の名誉のために一言解説するなら、この銃は決して劣った性能のピストルではない。限られた少ない部品数で構成され、シングルアクションながら過酷な状況下でも作動することが求められる軍用ピストルとしての条件を備えている。
その点で、構造が複雑で部品点数が多いワルサーPPKは、過酷な状況下での使用に対しやや繊細だ。事実、北アフリカ戦線に投入されたベレッタ モデル1934は、細かい砂塵が舞うリビア砂漠でも正常に作動した。一方、イタリア軍と共に戦っていたドイツ軍のワルサーPPKやP08は砂塵に対して脆弱で作動不良を起こしやすく、ドイツ軍兵士はピストルのクリーニングに忙殺されたと伝えられている。
ベレッタ モデル1934(1935)はフレーム左側面の手動セイフティ表示の円形の凹みの中が赤色に塗装されていたため、連合国の兵士たちはこのピストルにレッドポイント(Red Point)のニックネームをつけた。
ベレッタ モデル1934(1935)は、小型でかさばらず軽量なこともあり、イギリス軍をはじめとする連合国将兵のお気に入りのウォースーベニール(戦利記念品)となった。そして多数が故郷に持ち帰られている。そんなベレッタピストルの中の1挺は、1948年のガンジー暗殺事件で使われた。
北アフリカのリビア作戦に参加していたインド植民地軍の指揮官だったイギリス軍将校は、1941年にイタリア軍から1挺のベレッタ モデル1935を鹵獲し、ウォースーベニールとして持ち帰った。彼は戦後に、そのベレッタを持ってベルギー経由で新たな任地であるインドに向かうのだが、その移動中にシリアルナンバー606824のモデル1935が盗まれてしまう。
そして1948年1月30日、ヒンドゥー至上主義の信奉者であったナトラム・ゴドセ(Nathuram Godse)はこのピストルを用いてインドの宗教家であり、政治指導者であったマハトマ・ガンジー(1869-1948)を暗殺したのだ。
戦利品として持ち帰られたモデル1934(1935)の存在により、第二次世界大戦後、戦勝国の一般社会にもベレッタの名前が知られるようになった。その結果、戦後ベレッタ社にはアメリカなどから注文が舞い込むようになる。それまでベレッタはアメリカ市場への輸出をおこなっておらず、ウォースーベニールがベレッタの名前を広く知らしめたわけだ。
そうしてアメリカ市場にも進出し、その販路を拡大していった戦後のベレッタピストルだったが、1963年の映画によって、大きな風評被害を受けた。しかし、それから約22年後、アメリカ軍にベレッタ92Fが採用され、ピストルメーカーとしての頂点に立つことができた。この時点においてピストルメーカーとしてのベレッタは、ワルサーを圧倒していたといえる。
この映画によりワルサーが株を上げ、一方、ベレッタのブランドイメージが損なわれた話は、リポーターが一度、書いておきたかったことだ。本連載の趣旨とは直接関係はなく、記事冒頭から大きく脱線した話でたいへん恐縮だが、その時代を実際に見てきたひとりとして、事実を書き残したいというリポーターの想いをご理解いただければ幸いだ。