2025/12/03
【NEW】ちょっとヘンな銃器たち 23 コリアーフリントロックリボルバー
リボルバーはサミュエル・コルトが発明したものではない。パーカッション方式よりも前のフリントロックの時代に、既にリボルバーは存在していた。そのひとつの実例として1818年のコリアーリボルバーがある。但し、これも世界最初のリボルバーではない。リボルバーの起源は遥かに古いのだ。
*それぞれの画像をクリックするとその画像だけを全画面表示に切り替えることができます。画面からはみ出して全体を見ることができない場合に、この機能をご利用ください。
回転式のチェンバーを備えたリボルバーはサミュエル・コルト(Samuel Colt:1814-1862)が発明したという説が、かつては世界中で広く信じられていた。今でもそう思っている人は少なくないだろう。かつてはこれが定説であったからだ。
しかし、これは明らかに誤りだ。この”サミュエル・コルト・リボルバー発明説”に対し、それを否定する際の証拠としてしばしば引用される製品が、今回のフリントロック方式によるコリアーリボルバーだ。
サミュエル・コルトが回転式のチェンバーを備えたリボルバーについて、アメリカだけでなく、イギリスやフランスでもパテントを取得したのは、歴史的事実ではある。ところが、彼がリボルバーのパテントを取得するはるか以前から、回転するチェンバーを装備させたリボリング連発方式、そしてそれを組み込んだリボルビングピストルは多数存在していた。
今回紹介するコリアーリボルバーは、サミュエル・コルトの幼少期にアメリカ人エリシャ・ヘイドン・コリアー(Elisha Haydon Collier:1788-1856)によって設計された(これには異説もあるので後述する)。このリボルバーは、コルトのパテントに記されているパーカッション方式より古いフリントロック式の撃発機構が組み込まれたものだ。
ピストルの全体的な外見が、単発のフリントロックピストルにも似ており、視覚的に理解しやすいため、“サミュエル・コルト・リボルバー発明説”への反証として利用される機会が多く、これによってコリア―リボルバーは製造数が少なく入手困難な割によく知られるようになった。
しかし、このコリアーリボルバーも世界最初のリボルバーではない。イギリスではコリアーリボルバーより以前からリボルバー形式のピストルが考案されて製作されていた。例えば、フリントロックの原型ともいわれるスナップハンスロック(Snaphance lock)のリボルバーが現存し、イギリスのローヤルアーモリー博物館の所有となっている。
また、フランスではフリントロック方式の時代に、3つあるいは4つのチェンバーをまとめて合束式にして組み込み、これを手動回転させることで連発射撃のできるピストルが、複数の銃工によって製作販売されていた。
だが、これらでさえ、世界最初のリボルバーではない。ニュールンベルグの博物館には、ピストルではないが、リボルビング式チェンバーを組み込んだ、城壁の上から城外を狙撃する火縄発火方式のウォールガン(城壁銃)が現存し展示されている。これは2m程もある巨大なもので、このリボルビングウォールガンはその発火方式や銃器の用途から見て、ここまで説明してきた一連のリボルバーよりはるかに古い時代のリボルバーだ。
とにかく、サミュエル・コルトがリボルバーを考案し、パテントを取得するずっと以前からリボルバーは存在していたのだ。
銃砲がヨーロッパに伝来し、徐々に現代銃砲に近い形に進化する過程で、連発ができるものが求められ、おそらくその中で早い時期から複数チェンバーのリボルバーの考案が出現し、火縄銃の時代にはすでにリボルバーが作られるようになったと思われる。
ではサミュエル・コルトは何を発明したのだろうか。端的にまとめるなら、サミュエル・コルトはパーカッション方式で、ハンマーを指でコックすると自動的にシリンダーが回転するリボルバーを考案し、これを他社に先駆けて工業的に大量生産することを最初に始めた人物だといえるだろう。
つまり、サミュエル・コルトは、銃砲産業界のヘンリー・フォードだった。両者ともそれまで職人の手仕事に頼って製作されていた銃砲や自動車などを、工場で大量生産させることの先駆者だった。
話が脇道に逸れてしまったが、コリアーは1818年にリボルバーのアメリカパテントを取得したとされている。
アメリカの他、イギリスでも1818年11月24日にパテント#4315を受けている。フランスでも同様なパテントが同じ時期に取得されたとされているが、リポーターは現時点でフランスのパテントにアクセスできていない。アクセスできたのはフランスで1823年に追加パテントとして取得されたとされる改良型パテント#1429だけだった。
サミュエル・コルトがリボルバーのパテントを取得したのが1836年だったから、撃発方式がパーカッションに近代化されているとはいえ、パテント取得はコリアーからかなり遅れていた。
サミュエル・コルトは明らかにコリアーリボルバーの存在を知っており、リボルバーを考案するときにおそらく実機を見るか現物を手に入れていた。
1851年にコルトとマサチューセッツ アームズカンパニーの間で起こったリボルバーに関する裁判で、エリシャ・H・コリアーは、マサチューセッツ アームズカンパニー側として証言台に立った。この裁判にサミュエル・コルト自身が出廷したどうかわからないが、両者の間で議論があったとすれば非常に興味深い。
肝心のコリアーリボルバーのアメリカパテントだが、ワシントンDCを襲った大火災で当時のアメリカのパテントオフイス(特許庁)も被災し、その際にコリアーリボルバーのパテント原本が消失して残っていないとされる。コルトのリボルバーのパテント原本も被災したが、後に制作されていた製品と深くかかわるパターソンリボルバーなどのパテントは、コルトが所有していたパテント原本から複製されて、パテントオフィスに再納入された。しかし、フリントロック式のため時代遅れと見做されたコリアーリボルバーのパテントは、複製されることも再納入されることがなかったとされている。
パテントの検証ができないところから、後年の研究者たちの混乱を招く結果となり、多くのリボルバーパテント裁判がコルトから起こされたことも加わり、サミュエル・コルトのリボルバー発明者説を生む大きな原因になった。
エリシャ・ヘイドン・コリアーという人物
さてコリアーリボルバーのメカニズムやその作動の説明に入る前に、このリボルバーの開発者とされているエリシャ・ヘイドン・コリアーについて説明しよう。コリアーリボルバーはこの人物が設計したとされているという事には“異説がある”と書いたのには理由がある。
コリアーリボルバーは、マサチューセッツ州コンコードに住んでいたアルテマス・ウィーラー大尉(Captain Artemus Wheeler)という人物が発明し、エリシャ・ヘイドン・コリアーは彼の発明と独占製造権を購入し、事業化しただけだった、という説があるのだ。そしてこれは、多くの支持を集めている。
当時の銃砲開発者にはドイツなどからの移民が少なからずおり、良いアイデアを思いついても製造するための資金がなく、別の人物がそのアイデアを買い取って独占製造権を獲得、それを事業化することが一般的におこなわれていた。おそらくアルテマス・ウィーラー大尉もそういったヨーロッパから移住して間のない銃砲開発者の一人だった可能性がある。
エリシャ・ヘイドン・コリアーは1788年にマサチューセッツ州ボストンで生まれた。生年月日は不詳で、幼少期の履歴もよくわかっていない。
アルテマス・ウィーラー大尉からアイデアを買い取ってパテントを獲得したエリシャ・H・コリアーは、アメリカで1818年にコリアーリボルバーの生産を計画するが、複雑すぎて製造コストが掛かることと、当時アメリカで銃砲の一番の顧客だったアメリカ開拓者たちにとってもその取り扱いが複雑すぎるとの理由から、出資者を集めることができなかった。
そこで、エリシャ・H・コリアーは、コリアーリボルバー生産に向けて有力な出資者を見つけるべくイギリスに渡る。そこでコリアーリボルバーの販売先は広大な植民地を抱えるイギリス軍だと思い至る。そこでイギリスのパテントも取得した。
彼の証言によると、熱心な売り込みでイギリスのインド植民地軍向けに10,000挺もの納入が内定される直前まで行っていたとされている。このイギリス・インド植民地軍の反応を受けてイギリスの出資者が集まった。彼は会社を設立し、部品をイギリスの工場で機械加工させて製作し、この部品をロンドンを中心としたイギリスの銃砲職人に渡し、そこで最終加工や仕上げ、組み立てをおこなってコリアーリボルバーとして完成させる生産体制を整えた。
ところが、最初10,000挺納入の予定だったイギリスのインド植民地軍との契約は最終的に不成立となってしまった。その結果、彼がイギリスで設立したコリアーリボルバー製造会社は倒産してしまう。
それでもコリアーリボルバーが生産開始した1819年から、会社が倒産して製造中止となった1824年までの期間に、コリアーリボルバーは225挺が生産されたとされている。この少数のコリアーリボルバーには、初期生産型とその改良型がある(詳細は後述)。また同じ形式のカービン銃やショットガンを約150挺生産した。
コリアーリボルバーの生産計画が頓挫した後も、エリシャ・H・コリアーは、イギリスに留まり続けた。そしてイギリスで銃砲とは関連のない蒸気船用ボイラーの開発や、釘を大量生産する機械の開発などをおこなった。この間に蒸気ボイラーに関する書籍も執筆している。この時代の銃砲開発者の多くは、単に銃砲だけでなく、広く一般的な道具や機械の設計開発をおこなうことが普通だった。
1850年、エリシャ・H・コリアーは、生まれ故郷のマサチューセッツ州ボストンに戻る。晩年をこの地で過ごし、その間にコルトとマサチューセッツ アームズカンパニーの裁判に出廷したりした。そして1856年1月23日、ボストンのエリオット通り88番地の自宅で逝去している。


