2025/10/29
Toshiさん応援企画 S&W Model 29 44マグナムの始まり

Toshiさんが入院してしまった。しばらく闘病生活が続く。そんなToshiさんを応援するために松尾がToshiさんに代わって記事を書いた。テーマはSmith & Wessonモデル29の始まりの物語だ。Toshiさんの記事とはだいぶ違う堅苦しい内容だが、Toshiさん応援のため、どうかご容赦願いたい。
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Toshiさん応援企画
Gun Pro Web 11月号にはToshiさんの連載“Gunショー徒然日記”が掲載されていない。なぜならToshiさんが入院してしまったからだ。
“FNタクティカルポリスショットガンTPS”の記事や、“この銃に会いたかった”の記事原稿が届いた時に、ご本人から風邪っぽくて体調が悪いという話を聞いていた。ところがその後、連絡が途絶えてしまう。Gunショー日記の記事は未着のままだ。ちょっと心配になった。
そして9月末近くになってToshiさんの奥様から、Toshiさんが入院している旨の連絡を頂いた。病名はお聞きしたが、個人情報なのでここでは伏せる。その時点ではご本人はPCもスマートフォンも見ることができないという。それってかなりの重症ということだ…。本格的に心配になってきた。
その後、快方に向かっているとの連絡を頂き、近々退院されるのだろうと思ってだいぶ安心したのだが、それからしばらくして、遠方の病院に転院するとお聞きした。だとするとすぐには退院できそうもないし、それってより専門的な治療が必要という意味だろう。安心感は吹っ飛んでしまった。
そしてやっとToshiさん御自身からmailが届いた。そこには合併症で1ヵ月後に手術だということが書かれていた。今は手術に向けて体力をつけている状態だそうだ。細かい状況は判らないが、これはかなりの長期入院になる。
12月号分の記事を書いていただくことはできないことは間違いないし、それ以前の問題として、心底Toshiさんのことが心配だ。
そこでToshiさんの代わりに自分が記事を書くことにした。写真は過去のToshiさん記事から抜粋させて頂く。扱いとしてはToshiさんの記事となる。もちろんそれではToshiさんの記事とは全く違う内容とスタイルになるが、それはやむを得ない。
この記事はToshiさんに向けた、私にできる“ささやかな応援”なのだ。
Toshiさんの記事を楽しみにされておられる読者の皆さんにしてみれば、「松尾の堅苦しい記事では代わりにはならん」と思われるかもしれないが、そこはToshiさん応援のため、ご勘弁願いたい。
Toshiさんには、早く病気を克服して頂き、“最後のGun Pro Web=最後のGun Professionals”には元気な姿を見せて欲しいと心から願っている。
「がんばれ!Toshiさん」
1661年にトリガーガード前部にあった外部から止めるシリンダーストップスクリューが省略されて、29-2になった。1982年にバレルピンとリセスドシリンダーが省略されて29-3になるまでの間が、最も魅力的なモデル29だといえる。
この写真はToshiさんではなく、Akitaさんが撮ったものだ。
もし、この人がいなかったら…
「歴史にifはない」、イギリスの歴史家、政治学者であったエドワード・ハレット・カー(Edward Hallett Carr)は、歴史について、“もしあの時こうだったら、こうなっていたのではないか”という話はサロンの余興だと批判している。過去に起こったことを正確に記録して後世に伝える歴史学的見地からすればその通りだろうが、私達が日頃おこなっている“銃について想いを巡らせる”という行為は、学問ではなく余興というべきものだろう。そこでは“もしも…”というテーマは魅力がある。
もしジョン・M・ブラウニングが、パテントを次々と取得することなく、ユタ州の田舎にある銃砲店“J.M. Browning & Bro.”の店主として一生を終えたとしたら…
その結果で生じる事態は甚大だ。少なくともベルギーのFNからモデル1900は発売されなかったことになる。同社は19世紀末に銃器生産からの撤退を模索していたため、ブラウニングとの出会いがなければ、自転車や自動車のメーカーになって、とっくの昔に消滅していただろう。
そしてコルトのセミオートマチックがアメリカ軍に採用されることもなかったはずだ。コルトでは19世紀末、チーフデザイナーであるCarl J. Ehbets(カール・J.イバッツ)がブローフォワードのセミオートマチックピストルを開発していた。もしブラウニングがそこに登場しなければ、コルトはイバッツの設計した銃の開発を進め、20世紀初頭のアメリカ軍用ピストルトライアルにその試作品を持って参加していたと思われる。
おそらくイバッツによるコルトの試作銃は、サベージが提出した試作.45口径やDWMの.45口径ルガーにはまったく敵わず、そこで敗退してしまっただろう。そしてもし、コルトとブラウニングが共同開発した試作モデル1905の存在が無かったなら、DWMはアメリカ軍にパラベラムピストルが採用されるチャンスありと判断し、トライアルから途中退場することなく最後まで駒を進め、1910年におこなわれたサベージ モデルHとの比較テストに臨んでいたかもしれない。
それでも過酷な6,000発耐久テストにサベージ、DWM共に合格できず、アメリカ軍はこの時点でのセミオートマチックピストル採用を断念、第一次大戦はリボルバーを持って参戦したのではないだろうか。
ジョン・M・ブラウニングがいなければ1911は生まれなかった。それだけではない。ブラウニングが作った歴史に名を残す様々な銃が、どれも初めから存在しなかったことになる。その部分を埋める別の銃が誕生していたかもしれないが、ブラウニングデザインほどの性能は発揮せず、銃の歴史は全く違うものになっていたはずだ。
S&Wに目を転じてみよう。
1856年、リボルバーの開発を進めていたDaniel Baird Wesson(ダニエル・ベアード・ウエッソン)が、もしRollin White(ローリン・ホワイト)の貫通シリンダーに関するパテントの存在に気付かず、ホワイトに宛てた手紙を送っていなかったら、ローリン・ホワイトは別のガンメーカーにパテントの使用権を売っていただろう。そうだとするとS&Wが.22口径のリムファイアリボルバーModel 1を作ることが無かったばかりが、S&Wがリボルバーメーカーとして再スタートを切ることもなかったかもしれない。
ローリン・ホワイトのパテント使用権を手に入れ、リボルバーメーカーとして成功を収めたS&Wだったが、第二次大戦前の段階で業績がかなり悪化、戦争という特需で何とか持ちこたえたものも、戦後には破綻寸前という状態に陥った。そんなS&Wを救ったのは、創業者一族ではない新社長のCarl.L.Hellstrom(C.L.ヘルストロム)だ。優れた嗅覚と経営手腕を持ったヘルストロムは、新たな製品開発と改良を進め、S&Wを一気に立ち直らせた。
もし、ヘルストロムが社長になっていなければ、現在のS&Wは無かった可能性が高い。彼もまた銃砲史に大きな足跡を残した人物なのだ。
44マグナムはElmer Keithによって生み出された
エルマー・キースは1899年、ミズーリ州で生まれた。1920年代にオレゴン州とアイダホ州で牧場主兼ハンティングガイドとなり、“アメリカンライフルマン”や“ガンズ&アモ”といった銃器雑誌に記事も寄稿していた。第二次大戦中はユタ州のオグデン兵器廠(Ogden Arsenal)で査察官(Inspector)をしている。戦後にはフルタイムのガンライターとなり、生涯において10冊の著書を残した。その中には1957年におこなったアフリカンサファリの様子を記したものも含まれており、ハンターとしても第一級の実績を持っていたことがわかる。
そんなエルマー・キースは357マグナム弾の開発に少し関わった。1930年に発売されたS&Wの強化型.38口径リボルバー.38/44 HEAVY DUTYを用いて、この銃で使用する38/44カートリッジをよりパワフルにしたハンドロード弾を研究している。目指したのは、158grの弾頭を1,400fps以上で飛ばすことだ。同時期にガンライターであり、かつNRAのテクニカルスタッフであるPhil Sharp(フィル・シャープ)もまた同じ試みをおこなっていた。
38/44リボルバーはチャンバーサイズこそ38スペシャル仕様だが、Kフレームではなく、大型のNフレームを用いていたため、38スペシャルを強化した.38/44カートリッジにも対応できた。
エルマー・キースは38/44カートリッジのホットロード弾を用いたハンティングの結果をS&Wへ報告する手紙を何通も書いている。これらをS&Wから見せて貰ったフィル・シャープは、より強力な.38口径リボルバーを開発することへの自信を深め、それが38スペシャルのケース(薬莢)を約3.2mm伸ばした357マグナム弾と、Nフレームを用いた357マグナムの完成に繋がっていく。
357マグナムの製品化に直接関わったのはフィル・シャープだが、エルマー・キースのアプローチは、結果としてそれをサポートするものだった。
エルマー・キースは、強化型.38口径弾の開発に力を注いだのち、その目を44スペシャルに向けていた。ハンターであったキースにとって、より重い弾頭を装着できる大口径カートリッジの方が容易にパワフルなカートリッジが作れて魅力的だからだ。
44スペシャルはS&Wが1907年にニューセンチュリーリボルバー用に開発した弾薬で、44ラッシャンをベースに、そのケース長を0.19インチ(約4.8mm)伸ばし、無煙火薬を詰めたものだ。
44スペシャルのファクトリーロードはやや控えめなパワーであったため、1920年代の終わり頃からこれをベースにホットロード化する愛好家が現れ始める。エルマー・キースはその中でも突出した人物といえる存在だった。しかし、第二次大戦により、その試みは中断された。
戦後にエルマー・キースは再び44スペシャルに手を加え始める。当時この弾薬は200gr程度の弾頭が使われていたのに対し、250grの弾頭を装着したホットロードなどを作り、テストを続けた。
そしてじゅうぶんなデータが揃った1953年、キースはレミントンに44スペシャルマグナム弾の製品化を提案した。そのカートリッジは既存の44スペシャルよりケース長を0.125インチ(3.175mm)延長したものだ。当然、既存の44スペシャルリボルバーには装填できない。
レミントンはこのキースの提案に賛同し、この新型カートリッジを使用するリボルバーの開発をS&Wのカール・ヘルストロム社長に要請した。この時、エルマー・キースも同席したらしい。アグレッシブに活動していたヘルストロムは、キースに対して新しいリボルバーの開発を検討すると回答した。
この時点で世界最強のリボルバーはS&Wの357マグナムであり(まだモデル27という名称は無かった)、この.44口径新型リボルバーの開発は“世界最強”のレベルを一段高めるものであったといえる。
企業も個人も、時として不思議なことをするものだ。この0.5インチの短縮も何でそんなことをしたのか、理由が判らない。コストカットが目的だとも言われているが、大した効果はないだろう。この変更があってもダッシュナンバーは変わらず、約3年後に大幅な仕様変更がなされて29-3となった。
たった0.5インチ(12.7mm)だが、6インチのモデル29を見るとちょっと短いと気付く。違和感を覚える、というやつだ。
“モデル29は、やっぱり6.5インチであるべきだ”というファンの気持ちにS&Wが応えたのか、現行のモデル29クラシックは6.5インチバレルに戻っている。


