2025/11/04
戦前日本で所有された拳銃の機種について 2

日本軍将校が私物として使用した拳銃の種類について、具体的に知る史料はわずかながら存在する。これを掘り起こすことで、実際にどのメーカーの拳銃が多く使用されていたのかをある程度まで確認することができた。
前回に続いて、戦前の日本で所有されていた拳銃の機種について、それを知ることができる史料を探ってみたい。
アジア歴史資料センターのデータには、リファレンスコードC07091887800「召集解除者私物拳銃同実包調査の件報告」をはじめとして、同様の内容の報告が多数存在する。
これらに先行して出された「昭和十三年三月五日陸支普第八九〇号」というものがある。残念ながら、陸軍省大日記に綴られたはずのその原本史料は見当たらないが、アジ歴リファレンスコードC13070817100「秘憲兵令達集 第2巻」にそれが転載されており、その中身を知ることができるのだ。
この史料を見ると、支那事変へ動員された将校ならびに同相当官が、国内へ復員する際、所持する私物拳銃と弾薬について、機種数量、官姓名、内地住所を所属師団から陸軍省へ報告せよという指令が発せられたことがわかる。
まさに今回のテーマにぴったりの史料で、しかもその史料数は200点に近いので相当精緻な検証ができるものと喜んだ。
しかし、これは全くのぬか喜びだった。史料の内容に当たってみると、表紙に当たる部分と別紙に当たる部分に分かれて報告されており、別紙に拳銃の機種名が記されているはずなのだが、残念なことに表紙に押されたスタンプには「別紙は銃砲課にて保管」とあって分けられていたようだ。
おそらく陸軍省銃砲課に保管された別紙は、敗戦時に焼却処分などを受けて散逸したのだろう。
陸軍省が「昭和十三年三月五日陸支普第八九〇号」のような布達を出し、さらに銃砲課で別紙を一括保管しているところを見ると、陸軍の台帳に記載のない将校私物拳銃は、実際に兵器の一部として利用されているにも関わらず、あまりにも他機種に亘っており、それらについても統計、もしくは管理台帳の作成などの必要性をこの昭和13(1938)年という時期に感じ始めていたのだろうと思われる。
実際にこれ以降に、将校私物拳銃は部隊管理が行なわれるようになった。この事がその裏付けといえるだろう。
肝心な“別紙”が失われているものが多いのだが、幸いにも6点のみ、その別紙が残されていて拳銃の機種が確認できる。このうち最も古いのが昭和13(1938)年4月4日付で、その他、別紙が確認できるのは昭和16(1941)年4月から11月までの間の5点となっている。
昭和十三年三月五日陸支普第八九〇号」から1ヵ月後の、「第4師団留守司令官 復員部隊私物拳銃、同実包、空包等調査の件」は最初期の復命報告書だ。そして昭和16(1941)年4月から11月までの間の5点は、その翌年に将校用拳銃が私物から官給に変更される直前の史料ということになる。
昭和13年の史料
では最も古い史料である、アジ歴リファレンスコードC07090731500「第4師団留守司令官 復員部隊私物拳銃、同実包、空包等調査の件」(1938年)からその内容を見てみよう。
この史料は、第四師団(大阪)留守司令官佐伯清一(中将)から杉山元陸軍大臣に宛てたもので、復員した部隊は四號砲兵情報班、第二第三病院船衛生員となっている。すなわち、砲兵の観測員と、軍医や獣医及び薬剤師などの将校同相当官の拳銃を調べたものだ。
これには11人の砲兵少尉と、軍医大尉1名、軍医中尉1名、軍医少尉5名、獣医少尉1名、薬剤少尉2名の合計21名の所持拳銃が記載されている。
まず四號砲兵情報班の復員将校14名(砲兵少尉11名と軍医少尉、獣医少尉各1名)分を見てみる。
ここに登場する14挺の拳銃は、
中型ブローニング三二粍口径 2挺
ローヤル三二粍口径 2挺
十四年式三五粍口径 2挺
中型モーゼル三二粍口径 1挺
ブルワーク三二粍口径 2挺
回転式五連発 1挺
旧式回転式五連発 1挺
南部式 1挺
十四年式 1挺
回転式五連発三二粍 1挺
となっている。
口径表示に三二粍口径、三五粍口径などと書かれているが、32mmなら.126口径になってしまうし、35mmは.138口径なので“粍”は完全に誤記であろう。
この史料では、回転式五連発の所持者の住所が和歌山市で、旧式回転式五連発の所持者は京都府郡部で、南部式と十四年式の所持者が熊本県で、それ以外は大阪市内もしくは周辺都市部在住となっている。
興味深いことに、本稿で何度か史料として用いた昭和12年版の大阪偕行社(大阪市旧東区所在)酒保部発行の「軍装の栞」という軍装品カタログに、ブローニング、ローヤル、モーゼル、ブルワークの4機種が掲載されているが、ここではそれらが符合するように所持されていることだ。
さらに面白いのは、この銃種の中で最も将校用拳銃に向いているといえるブローニング拳銃の所持者2名は、いずれも大阪偕行社酒保部がある旧東区在住であり、彼らの住所から大阪偕行社酒保部は徒歩圏内だといえる。
本誌10月号本稿キャプションに松尾Web Editorが、「マウザーとブラウニングを比べた時、マウザーを選ぶのはどういう感覚なのだろうか。確かに味のあるデザインだが、ほぼ同じ価格であるなら、断然ブラウニングを選ぶのではないかと思ってしまう」とコメントされた。
これについて筆者が推測するのは、昭和12(1937)年に日中戦争が勃発し、外国製拳銃の輸入が困難になって、在庫が払底しつつあり、早い者勝ちの状態だったということだ。近くに住むものはいち早くブローニングを購入できたが、市外の大阪府在住者が遅れて大阪偕行社酒保部へ拳銃を買いに行った時点では、既に人気のブローニングは売り切れていたのではないだろうか。
さらに安価なスペイン製のローヤルやブルワークを購入した4名も大阪市内在住だが、モーゼルを購入した砲兵少尉は中河内郡英田村(現東大阪市)在住だ。
こうしてみてみると、戦前というのは居住場所によってモノや情報へのアクセスに相当な格差があったのだと思える。
次に第二第三病院船衛生員についてだが、これは軍医大尉1名、軍医中尉1名、軍医少尉3名、薬剤少尉2名分の合計7名分だ。
こちらは事務的に拳銃の機種名と製造番号が記載されているだけで、同じ第四師団でも起票者が四號砲兵情報班の分とは異なるのだろう。
ここに記されている拳銃の機種と製造番号は、
ローヤル85901、45639、50755、85429の4挺
ブローニング420465、1挺
モーゼル386155、1挺
エントラ5745、1挺
以上の7挺だ。
こちらの史料には、特段の共通点は見いだせないが、スペインのローヤル拳銃の所持者が石川県、大阪府、京都府、富山県と広く分布しており、スペイン製の拳銃が国内に一定量供給されていた事がわかる。
ただしスペイン製の拳銃は、その大部分が神戸港から荷揚げされていたことを考えると、関西を中心に購入できた可能性は否定できない。これについては後段で他の史料と突き合わせてみたい。
エントラという拳銃は、該当するものが思い当たらないが、アストラの誤記であろうか。“Astra”を“エントラ”と読むことは、かなり無理があるのだが。
昭和16年の史料
次に、アジ歴リファレンスコードC07091887800「召集解除者私物拳銃同実包調査の件報告」を見てみる。これは、昭和16(1941)年4月26日作成の書類で、中部第九十部隊長菅原道大(すがわら みちお中将)から東条英機陸軍大臣に宛てたものだ。
中部第九十部隊とは第一飛行集団(後の第一飛行師団)のことで、この時点では岐阜県各務原飛行場に本拠地がある。この史料からは、中佐1名、中尉11名、軍医中尉1名、主計少尉1名の合計14名の拳銃が判る。
この部隊員の出身地は、香川県、静岡県、愛知県、東京府、福岡県、大阪府、長野県、熊本県、栃木県、三重県と多岐に亘っている。
階級筆頭の中佐の銃は、南部式で製造番号267だが、階級から見てこれは南部式小型拳銃であろうか。
以下は
ブローニング7挺
ブルワーク2挺
九四式2挺
コルト1挺
レンコン1挺
となっている。
このうちコルトについては、製造番号が13744と記されているので、コルト社のWebサイトにあるSerial Number Lookup(製造番号照会)で検索してみると.25口径のモデル1908なら1909(明治42)年製で、.32口径のM1903なら1904(明治37)年製と出てきた。
少し古すぎるようにも思えるが、アメリカで製造後に国内で滞留していたものが、かなりの時間が経ってから日本へ輸入されたものなのかもしれない。
ブルワークの所持者は、どちらも静岡県出身だが、先の史料では大阪の出身者が所持していたので関西以外でも広域に販売されていたことがわかる。
また九四式拳銃の製造番号は、4005と4494で、それぞれ昭和12(1937)年と昭和13(1938)年製造ということになる。
次いでアジ歴リファレンスコードC07091945300「召集解除者中私物拳銃所持者調査に関する件報告」を見てみよう。これは昭和16(1941)年7月14日作成の書類で、宇都宮師団長李王垠(りおう ぎん中将)から東条英機陸軍大臣に宛てたものだ。
陸軍の公式書類に宇都宮師団という通称で書かれているのは、第14師団を母体に第51師団が新編された直後なので、このような書き方になったと思われる。
また師団長の李王垠中将は、大韓帝国最後の皇太子で、学習院中等科から陸軍幼年学校、陸軍士官学校に進んで、大正6(1917)年 陸軍少尉任官(陸士29期)、その後陸軍大学校を経てこの時期には陸軍中将で第51師団長だった人物だ。
史料は、少佐1名、大尉2名、中尉20名、少尉9名の合計32名分のもので、拳銃の内訳は
ブローニング9挺
コルト7挺
十四年式6挺
モーゼル3挺
九四式2挺
ローヤル2挺
コロニアル1挺
南部式中型1挺
カルリムファイヤー1挺
となっている。
コルト7挺の内、6挺のコルトについては、製造番号が記されているので、製造番号照会をかけてみると、539194、534070、536570については1938(昭和13)年製で、497759は1929(昭和4)年製で、どちらも.32口径のモデル1903という結果が出た。
このことから支那事変勃発(1937年)後も、何らかのルートでアメリカ製コルト拳銃の日本への輸入は行われていたと考えてよいだろう。
残りの2挺16142と221903は、片方は.25のモデル1908なら1909(明治42)年製で.32のM1903なら1904(明治37)年製、もう1挺は.25のモデル1908なら1919(大正8)年製で.32のモデル1903なら1916(大正5)年製ということになる。
十四年式拳銃を見てみると、6挺のうち5挺の製造番号が記されていて、266が昭和2(1927)年製で13864が昭和4(1929)年製、35162と36961が昭和9(1934)年製、51417が昭和11(1936)年製ということになる。
九四式拳銃は、7751が昭和12(1937)年製で、33754は昭和15(1940)年製ということになる。
ローヤル拳銃とコロニアル拳銃の所持者はそれぞれ東京府、茨城県、兵庫県であるので、大都市近郊ではスペイン製拳銃が入手可能であったことがうかがえる。
アジ歴リファレンスコードC07091945100「戦歿将校私物拳銃同実包調査の件報告」は、昭和16(1941)年7月9日作成の書類で、中部軍(名古屋)司令官藤井洋治(中将)から東条英機陸軍大臣に宛てられたものだ。
史料は、中佐1名、大尉2名、中尉1名の合計4名分のもので、拳銃の内訳は
ブローニング4挺
モーゼル1挺
の合計4挺だ。
この書類は、戦没であって召集解除者ではないことと、3名が大尉より上の階級でであることから陸軍士官学校卒業の正規将校である可能性が高い。数少ない例ではあるが、正規将校の装備拳銃はさすがにスペイン製などの廉価拳銃は見られないと考えることができるかもしれない。
アジ歴リファレンスコードC07091946300「召集解除者の私物拳銃同実包等所持調査の件報告」は、憲兵司令官田中静壱から東条英機陸軍大臣に宛てた書類で昭和16(1941)年7月20日作成の書類だ。これは羅南、平壌、青島の憲兵隊に勤務する中尉1名、准尉2名の合計3名分のもので、拳銃の内訳は
モーゼル式小型拳銃
十四年式拳銃 銃番号53994(昭和11(1936)年製)
ブローニング小型拳銃
となっている。
憲兵というと軍服に憲兵腕章というイメージが強いが、十四年式拳銃以外は.25口径とみられる小型拳銃が所持されていて、これは外地憲兵隊勤務なので私服での潜入捜査用ではないだろうか。
アジ歴リファレンスコードC07092016000「召集解除者私物拳銃同実包等の件報告」は、中部第九十部隊長阿部定(あべ さだむ中将)から東条英機陸軍大臣に宛てた書類で、中部第九十部隊は先述の第一飛行集団(後の第一飛行師団)だが、部隊長が代替わりしている。
その内容は中尉5名分のもので、拳銃の内訳は
コルト1挺 533834(1938年製.32口径のモデル1903)
十四年式拳銃 4挺 45410、45730、500800、50089
この500800は明らかな和文タイプの誤植で、正しくは50080であろう。だとするとこの4挺はすべて昭和10(1935)年の製造ということになる。
以上少ない史料ではあるが、概観を述べるなら、総数78挺の将校軍装用私物拳銃のうちFN社製のブラウニング拳銃が約30%を占め、これにコルトとモーゼルを含めると約50%が欧米の一流拳銃であったことがわかる。
これに国産拳銃を含めれば75%以上が一定の品質の拳銃で占められていたことになる。
先月の国防献納拳銃では、かなり奇妙な拳銃が含まれていたが、これはあくまで日本の民間で所有されていた拳銃であって、献納されたからといって必ず陸軍将校が使ったとは限らない。
史料数が少なくて断言することはできないが、上記のパーセンテージが日本陸軍の将校軍装用私物拳銃の内訳の一端を示していると思われる。

Text by 杉浦久也
Gun Pro Web 2025年12月号
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