2025/10/06
ガンヒストリールーム 戦前日本で所有された拳銃の機種について

戦前の日本にはどんな拳銃があったのだろうか。南部式や十四年式といった国産拳銃以外の外国製ピストル、それもブローニングやコルトといったメジャーなもの以外にもいろいろな銃があったはずだ。それを現代に伝える史料から読み解いてみた。
機種特定の試み
先月先々月と遺品拳銃のルーツを辿ってみた、しかしそれは詳細な拳銃の機種などについて踏み込んだ検証は行なわず、全体の大きな流れを追うものだった。
そこで今月は史料の中から、機種の特定を試み、その実態に迫ってみたい。
日本で個人が所有した銃について、明治43(1910)年銃砲火薬類取締法施行以前に販売された拳銃の公式な記録はない。
ただこの時期に日本に輸入された拳銃について、金丸(かなまる)銃砲店の「各種雛形精密図入銃砲正価報告書 上・下」明治22(1890)年という拳銃販売型録(カタログ)から、S&W、コルト、H&R、アイバージョンソンの4社の製品があったことが確認できる。
それ以外にもあるのだが、拳銃の挿絵が極めて不鮮明で、個々のメーカー名も書かれておらず、機種の特定は難しい。だがそれらはほぼすべてが中折れリボルバーで、グリップセイフティが付き、ハンマーレス、もしくは折り畳みハンマースパーのものだという事と、価格は2円50銭から35円だという事くらいしかわからない。
自動拳銃の輸入については、金丸銃砲店刊「猟銃及猟用具」明治39(1906)年の174ページに最新式“コールト”自働拳銃 、186ページにモーゼル自働拳銃と言う広告記事が確認できた範囲では最初だ。*当時は“自働拳銃”と表記した
国立国会図書館の蔵書には、1898(明治31)年から1906(明治39)年までの金丸銃砲店刊行の印刷物が見当たらない。よってそれ以前にも輸入されていた可能性は充分にある。
また明治39年の広告に、コルトは“最新式”と謳っている一方で、モーゼルには最新式の表記がないので、モーゼルが先に輸入されていた形跡が窺われ、日本への自動拳銃輸入はもう少し遡る可能性が高い。
ところで金丸銃砲店は、カタログの他に「銃猟界」という雑誌を明治37(1904)年から刊行しており、国立国会図書館には146冊が所収されていて、ここに掲載された自社の広告や記事を辿ることで、拳銃のみならず当時の射撃や狩猟と、それにかかわる銃器の動向をかなり詳しく知ることができる。
それによれば、大正元年(1912)10月の広告で「時代に遅れること勿れ」と題して初めてブローニング モデル1910が紹介されている。
この拳銃はベストセラーだったモデル1900との切り替えに当たっての生産調整が行われ、実際にはこの1912年から生産が開始されているので非常に早い時期の広告といえる。
しかし、その後2年もたたずに第一次世界大戦が起こったため、欧州からの拳銃輸入は途絶え、この間はもっぱら米国製のアイバージョンソンリボルバーと、珍しいH&Rのオートマチック 25ACP(英ウェブリー&スコット自動拳銃のライセンス生産品)などでお茶を濁すような状態が続く。
再び本格的に、自動拳銃が日本に入荷するのは1920年代初頭(大正10年以降)の事で、日本での自動拳銃全盛期というのは、その後15年ほどの間の事と考えて良い。
そして昭和6(1931)年の満洲事変から終戦までの間、日本の民間では国防献納運動というものが盛んだった。
これは学校や、企業、組合、団体、個人などが募金によってお金を集め、陸海軍に兵器を献納(寄贈)する運動だ。
献納された兵器の詳細は、小学生の貯金で三八式の小銃弾ワンクリップを寄贈するというささやかなものから、富裕層の個人や大規模な団体なら戦車や航空機まで多岐にわたった兵器が献納されている。
そして陸軍に献納された兵器には“愛国”の文字、海軍に献納された兵器には“報国”の文字が打刻された。
このため拳銃の保有が少なかった海軍の場合、航空兵などに装備させるため国内銃砲店に滞留していたアストラ拳銃を国防献金で数百挺単位購入している。
それら拳銃には、フレーム右側に報国〇〇〇號の刻印が打たれていて、現在でも茨城県土浦の陸上自衛隊武器学校で見ることが可能だ。
国防献納運動は、基本的には募金による陸海軍への兵器の寄付だが、こと拳銃に関しては、個人の所有品を直接陸軍に寄贈した例が多い。
献納拳銃
では史料に当たってみよう。
昭和12(1937)年8月2日付の史料アジ歴リファレンスC01006894000「国防献納兵器に関する件」は
フォアハンドアームズ會社製弾薬式六連発拳銃 員数一、同実包五十発、同空包二十発
南部式大型拳銃 員数一、同実包五発、旧式拳銃 員数一
ブローニング自動八連発銃員数一、同実包五十発
これらの献納兵器を陸軍兵器本廠長に受領するようにと陸軍省副官が伝達する書類で、献納者は当時の東京市在住者だ。
このフォアハンドアームズ會社製弾薬式六連発拳銃だが、これはペッパーボックスで有名なイーザン・アレンの死後の1871年に娘婿のサリバン・フォアハンドとヘンリー・C・ワズワースが興した会社の製品ということになる。フォアハンドアームズ社は、1902年にホプキンス&アレン社に買収されて消滅しているので、献納された時点で最低でも製造されてから35年もたっている拳銃ということになる。
銃自体は32 S&W弾を発射する中折れ式のリボルバーだが、この拳銃の古さと弾薬の威力などっから見て、昭和12年という時代の軍用拳銃に向くかといえば、かなり疑問の残る機種といえる。ようするに献納して貰ったものの使い道がない。
次に南部式大型拳銃と旧式拳銃だが、献納者が女性名になっており物故した軍人の未亡人からの献納ではないかというようなことが想像される。それにしても旧式拳銃とはなんだろう。もしかしたらパーカッションリボルバー、いやもっと前の火縄銃“短筒”だったりする可能性が考えられる。まさに旧式だ。
最後のブローニング自動八連発銃については、戦前の護身用将校軍装用拳銃の定番と言ってよい拳銃だが、献納者の居住地から当時の富裕層からの献納ではないかとも思われる。
昭和12(1937)年8月7日付の史料 アジ歴リファレンスC01006895200「国防献納兵器受領に関する件」には、
ホプキンス&アレン社製拳銃一挺、スミスウエッソン社製拳銃一挺とされており、献納者は同一人物だ。
2挺とも先述の、フォアハンドアームズ社の製品同様の中折れのリボルバーと思われるが、S&W社の製品は明治の初期に輸入されたものが多いので、黒色火薬仕様である可能性もあり、これも軍用に向くとは考えにくい。
昭和12(1937)年8月26日付の史料 アジ歴リファレンスC01006898600「国防献納兵器受領に関する件」では、南部式自動拳銃、ブローニング拳銃、コルト拳銃、マーサー拳銃、南部式拳銃(予備弾倉共)、ハーリントン拳銃、2挺が献納されている。
マーサー拳銃がモーゼルであるならこの献納は、かなり軍用として使えるものと思えるが、25口径のモーゼルモデル1910の可能性もある。またハーリントン拳銃は、ハーリントン&リチャードソン社製のリボルバーの可能性が高いが、先述したように英ウェブリー&スコット自動拳銃のライセンス品も日本に輸入されていた事実があるので機種の特定は難しい。
同じ昭和12(1937)年8月26日付の史料 アジ歴リファレンスC01006899000「国防献納兵器に関する件」には、九粍一二墺太利製拳銃(9mm12オーストリア製拳銃)、と2挺が機種不明で記載され、続いてホッキンス拳銃となっている。
この九粍一二墺太利製拳銃(9mm12オーストリア製拳銃)だが、実包の献納が記録されていないので実包の紙箱記載の転記ではないだろうし、そもそも銃や紙箱に刻印や印刷を入れるとしても通常は9mmと記載されるはずだ、だとすれば9mm12というのは実測ということだろう。
そうするとオーストリアのラスト&ガッサーリボルバーは8mm口径で合致せず、シュタイアーM1907も8mm×18であるからシュタイアーM1911かM1912の9mm×23あたりになるのだろうか。
しかしそうするとなぜ、昭和12(1937)年の日本にこの拳銃があったのかがまたミステリーということになる。これらはかなり大型の軍用拳銃であり、当時日本に輸入されていた拳銃の大半は、中型、もしくは小型のピストルがほとんどであった。中にはモーゼルC96といった例外もあるが、オーストリアのシュタイヤーピストルは輸入された形跡がないのだ。
昭和12(1937)年9月25日付の史料 アジ歴リファレンスC01006905400「国防献納兵器受領に関する件」にある機種が記載されているものは、ホガキヤン式拳銃とブローニング拳銃だ。
ホガキヤン式というのは何かの読み違えとしても、思い当たる銃器メーカーが思い浮かばない。
総じてこうした紙資料だけから、機種を断定するのは困難なことで、先の九粍一二墺太利製拳銃(9mm12オーストリア製拳銃)のオーストリアというのも、当時の語学水準や銃器に対する知識からすると怪しいもので、そうなると何もわからないということになりかねない。
昭和12(1937)年10月30日付の史料 アジ歴リファレンスC01006912800「国防献納兵器受領に関する件」は、秋田県で献納されたもので173挺と数量が多く、すべて第八師団兵器部で保管しているので、おそらく秋田県全県の献納史料だと思われる。
少なくとも司法省司法研究所刊の『司法研究 第十八輯』によれば昭和4(1929)年における各県拳銃所持者数で秋田県には412挺の拳銃所持が確認できるので、この史料の数量だけで秋田県での個人所有の拳銃の43%が献納されたことになる。
拳銃の機種についてみると、大型モーゼル十連発自動拳銃、実包二〇六、大型南部式自動拳銃甲、実包一一九、三二径ハーリントン九連発自動拳銃、実包八〇、三二径ブローニング七連発自動拳銃、実包一〇〇、小型南部式自動拳銃、実包七〇、二五径ブローニング八連発自動拳銃、実包五〇、二十五径スマイゼル七連発自動拳銃3丁、実包八七、二十五径コンマー七連発自動拳銃、実包三二、二十五径ブローニング自動拳銃用実包一〇〇、二十六年式拳銃、実包九、二十六年式拳銃、実包四七、ここに挙げた15挺の機種が判明する拳銃に加えて、残り158挺は.38口径や.32口径の振出式(スイングアウト式)や中折れ(ヒンジフレーム)の引き落とし式(ダブルアクション)で、5連発ないし6連発のリボルバーだ。
この史料は、陸軍省副官から陸軍兵器本廠長に第八師団兵器部保管の献納拳銃173挺を受領せよというものだが、東京の陸軍省の軍人がリストを作成するはずがないので、現地秋田で献納された拳銃を仕分けしリストを作った軍人が居たはずだが、この人物は聡明、かつ当時としてはかなり銃に対する知識があったと思える。
それは他の史料では、事前に拳銃の仕分けをせず手当たり次第にリストを作成しており、なおかつ九粍一二墺太利製拳銃やホガキヤン式拳銃などの苦し紛れのような機種の同定をしているうえに、単にブローニング拳銃やコルト拳銃の記載では25口径か32口径かで機種が同定できない。
一方でこの史料では、国防献納拳銃が陸軍に献納されたのち陸軍にとって有用な、軍用拳銃として耐えうるものをあらかじめ分類したうえで、リストの最初に列記し、口径、装弾数、機種名を的確に記している。
このため後代の我々にも、銃器の知識があれば的確にその機種が特定できるし、史料自体が16ページ173挺もの献納拳銃が確認できる一級史料といえる。
大型モーゼル十連発自動拳銃はマウザーC96で間違いないだろう。
大型南部式自動拳銃甲はちょっと驚きで、従来ほぼ全数が中国向けに販売されたとされる甲型が昭和12年に青森県に存在していたという事実が興味深い。
三二径ハーリントン九連発自動拳銃は、先述した英ウエブリー&スコット自動拳銃のライセンスモデルで、輸入されていた事実と現物が符合する貴重な史料といえよう。
三二径ブローニング七連発自動拳銃は、時代的にモデル1910の可能性が高いが、どちらも32口径で装弾数は7発なのでモデル1900である可能性もある。
小型南部式自動拳銃は、南部式小型自動拳銃のことだが、この拳銃は最終型が東京瓦斯電気工業で製造され、昭和初期に銃砲店で民間にも販売されたが、非常に高価で販売範囲も小さかったと考えられるので、青森で献納されたのなら、おそらくは退役軍人の献納ではないだろうか。
二五径ブローニング八連発自動拳銃は、いうまでもなくブローニングモデル1906だ。
二十五径スマイゼル七連発自動拳銃3丁は、それぞれ別の人物からの献納で、一般的にはハーネル・シュマイザーピストルとして知られる拳銃だ。この銃はブローニングモデル1906ピストルから、グリップセイフティを外したような外観だが、内部を見ると安全機構や銃身の固定方法に加えてリコイルスプリングの配置や撃発機構などかなりな部分が独創的なものになっている。この銃に関しては、後で松尾Web Editorより解説してもらおう。
決してメジャーとは言えないこの拳銃が、青森で別の人物から3挺も献納されているところを見ると、東北地方の有力銃砲店などで一定量が販売されたようなことが考えられる。
二十五径コンマー七連発自動拳銃は、ドイツのツェラメリスのテオドール・コンマー社によって1920年に発売されたストライカー式のベストポケットピストルで、後年の分類ではモデル1から3までのモデルが知られるがモデル3は装弾数が9発なので、ここに記載されているのはモデル1か2であろう。
二十六年式拳銃は、言わずと知れた日本陸軍最初の国産リボルバーだが、日露戦争時に陸軍将校へ払い下げが行なわれているので、そうした経緯を持つ退役将校からの献納の可能性が高いといえる。
国防献納において拳銃の機種までがわかる史料は以上となる。ここから判ることは、昭和12(1937)年の支那事変以降、国際情勢の緊迫化で拳銃の輸入ができなくなるまで、日本には実に雑多な外国製拳銃が輸入されていたということだ。そしてその多くは機能、性能の良し悪しに関わらず、拳銃を必要とした陸海軍に献納され、民間人の手元に残ったものはかなり少なかったと推測する。


