2025/09/05
GUN HISTORY ROOM 122 遺品拳銃2

戦前の日本には、軍からの官給品ではない、個人所有の拳銃の総数がどの程度あり、また民間で所有されていた拳銃がどのような理由で軍へ移管されていったのかということについて解説したい。また遺品として発見された80年以上前の拳銃とその弾薬は発射可能なのかについても言及する。
遺品拳銃の話題は今が旬なのか、先月号でテーマとして出稿し、ゲラ原稿の修正が上がった直後に、また別のメディアからも取材を受けることとなった。
前回もそうだったのだが、今回取材された方も大学で歴史学を専攻された方で、日本の近代銃器史には門外漢であっても、歴史学の素養があるので的確な質問を受けた。
そこで気づかされたのが、戦前の日本に軍民含めて官給拳銃以外で個人所有されていた拳銃の総数がどの程度で、それが民間から軍へ移管されていった状況を説明していないことと、遺品拳銃が実包とともに発見された場合、現在でも射撃できるのかという問題だった。
そこで説明上先月号と一部重複する部分もあるが、この2点について遺品拳銃の補足をさせていただきたい。
民間拳銃の総数と軍用拳銃への移管の推移
まず日本の民間市場にどのくらいの拳銃があったかだが、昭和7(1932)年度末に内務省警察が所持を把握している民間での拳銃所持数は53,663挺で、銃砲商販売在庫として6,133挺という記録が残っている(司法省 司法研究第十八輯「拳銃の密輸に就いて」1933年)。
従って所持拳銃と販売在庫を合わせると、59,796挺の拳銃が民間にあったのことが確認できる
それ以外に、明治43(1910)年の銃砲火薬類取締法施行以前に販売された拳銃は、警察が発行する拳銃譲り受け証が不要だったので、警察で未把握の拳銃があり、この数量よりある程度多くなると考えられる。
また銃砲商の販売在庫に目を向ければ、明治43(1910)年銃砲火薬類取締法施行以降に、昭和7(1932)年末現在の国内拳銃所持数53,663挺の全数が市場で購入されたものと仮定すれば(譲り受け証を申請しての個人間取引も否定できない)、この23年間での平均販売数は全国で2,333挺/年 という数字になる。
さらにこの年間販売量からすれば、昭和7(1932)年末の国内銃砲商拳銃在庫の6,133挺というのは、ざっと2年半分の在庫という事になり、今日の流通業的視点に立てば、非常に回転の悪い過剰在庫と言えよう。
しかし昭和12(1937)年に支那事変が勃発すると、足かけ5年間で日本陸軍は210万人まで兵力を増やしている。
全兵力に占める将校の割合は7%程度であるから、総数約15万人の将校が動員されており、このうち陸軍士官学校卒の正規現役将校は2万人程度しかいない。
またこの5年間に、正規現役将校を養成する軍学校の卒業者も1万人程度だ。
その他は、ほとんど予備役の幹部候補生出身将校で、一部佐官級で退役していた老将校が召集された場合もあるだろうが、絶対数が少なく除外して良い範囲だろう。
こうして見ると支那事変間に必要となる将校私物拳銃は、12数万挺程度の数量と推計される。
これに対する将校私物拳銃の調達先は、一般の銃砲店だけではなく陸軍造兵廠で製造される制式拳銃を有償で払い下げてもらうという方法もある。
特に将校用として、昭和10(1935)年に準制式が制定されていた九四式拳銃が有力だが、制式制定以降、昭和16(1941)年までの製造数は2万挺程度でしかない。
制式である十四年式拳銃も払い下げ対象ではあったが、支那事変勃発後の製造数は7万挺足らずで、こちらは本来下士官兵への官給拳銃であったから、全数を将校用に回すわけにはいかない。
また陸軍将校は軍刀と拳銃の二重装備となり、拳銃を含む将校軍装一式は私費購入であるから、大きく重い造兵廠払い下げの制式拳銃を好まず、勢い外国製の中小型拳銃を選択する傾向にあった。
ところが昭和12(1937)年頃には、日本に外国製拳銃が入ってこなくなって深刻な将校用拳銃の不足が問題になる。
外国製拳銃の輸入が途絶した最大の原因は、昭和6(1931)年末に日本が金本位制を廃止したことによる信用不安から、円の価値が1/3にまで暴落した事で、外国製拳銃の原価高騰を招き、輸入を差し控えるような状況にあったためだ。
これは昭和12(1937)年度の大阪偕行社酒保部発行『軍装の栞』掲載の拳銃価格を見るとブラウニング拳銃は42円であり、昭和5(1930)年の粟谷銃砲火薬店カタログに所載の価格30円から3割程度しか値上がりしていない。
もし昭和6(1931)年末以降に輸入されたブラウニング拳銃が昭和12(1937)年に販売されていたとすれば、その価格は90円程度になっていなければならない。
従って、昭和12(1937)年当時販売されていた拳銃は、平時の年間販売数から見てもかなり以前からの在庫品と考えて良く、少なくともベルギーからの輸入は長らく滞っていたと考えられる。
またアメリカからの輸入も支那事変での日米の関係悪化以前に、元来高額であったアメリカ製拳銃は日本での販売価格を100円以上にせざるを得ないことから銃砲商もその輸入に二の足を踏む結果になったためと考えられる。
さらに比較的廉価な拳銃供給元であったスペインは、昭和11(1936)年から内戦中で、その主要な銃器生産地エイバルとゲルニカは、ドイツとイタリアの爆撃を受けてほぼ壊滅状態となっていて、とても日本へ拳銃を輸出できる状態ではなくなっていた。
こうした国際状況下で国防献納運動(軍への民間拳銃寄付)や陸軍による買い上げ、あるいは個人間での軍人への売買などで相当数が民間から将校私物として陸軍内へ所有が移転したのは事実だ。
この結果、昭和14(1939)年7月28日付け内務省警保局長の廰府県長官宛布達によれば、民間で正規に拳銃の携帯許可を受けている件数は2,843件であると記述している。
もちろん携帯許可拳銃であるから、実際に民間で保有している拳銃の総数はこれより多いと考えられる。
しかし、支那事変以降必要になる将校私物拳銃の数量を12万挺程度と見込めば、約2万挺の九四式拳銃や十四年式拳銃の一部及び兵器廠手持ちの外国製拳銃などに加えて、民間で所有されていた約6万挺の拳銃の大部分を陸軍に吸収することで、支那事変の急場をしのいだといえる。
ただ実際には内地勤務の将校相当官(軍医、獣医、経理、軍楽など)の一部は、拳銃を装備していなかった可能性は否定できない。
GP Web Editor 補足:
杉浦さんから、かつて記事で使用した戦前のカタログ写真を、遺品拳銃となっていると思われるものの一例としてここに掲載して欲しい、と依頼された。
それは全く問題ないことだが、この拳銃がどのようなものであるかを併せて説明したいと思った。なぜなら、Gun Pro誌はもちろん、旧Gun誌でもこのブルワークなるピストルが紹介されたことは一度も無いはずだからだ。
自分自身も全く知らない銃であるため、今回調べてみた。
Bulwark Pistol
全長 175mm
重量 870g
口径 32ACP
マガジン装弾数 8発
数値的には、カタログ表記値と少し異なるが、気になるのは大きさの割には870gはかなり重いということだ。ちなみに大きさ的に近い32口径のワルサーPPは665gだ。どちらもスチールフレームであり、約200gもの重さの違いはどこからくるのだろうか?
製造元はスペインのBeustugui Hermanos(ベイスティギ・エルマノス)で、これをフランスの販売会社Fabrique de Guerre de Grande Précision、またの名はFabrique d'Armes de Guerre de Grand Précisionが販売した。おそらく日本は、この会社を通じてブルワークピストル輸入したのだろう。
ベイスティギ・エルマノスは1909年にスペインのエイバルで、Cosme Beistegui, Domingo Beistegui、Juan Beisteguiの3兄弟によって武器製造会社として設立された。いわゆるルビーピストルと呼ばれるブラウニングコピーを生産し、第一次大戦中は、他のスペイン製ピストルと共に大量のフランスに供給されたようだ。
ベイスティギ・エルマノスは第一次大戦後に自転車の製造を開始、ピストルの生産を平行しておこなった。同社のピストルとして、もっとも有名なものは、1926年に開発されたマウザーC96のコピーであるModelo Hと1930年にそれをフルオート仕様にしたModelo Military 1931(MM31)だろう。いわゆるマウザー712に先駆けてスペインはフルオート仕様としたわけだ。
同社はこれらのピストルに、Marcelo Zulaicaから購入した商標“Royal”を冠して販売している。ローヤルピストルの名はルビーピストルのひとつとして有名であったため、ベイスティギ・エルマノスは販売戦略上、このローヤルブランドを買い取ったと思われる。
ベイステギ・エルマノスはスペイン内戦が始まるより前の1934年に銃器生産から撤退した。
現在、スペインの自転車メーカーBeistegui Hermanos S.A.(BH Bikes)として事業を継続している。
どうでも良いと思えるブルワークピストルも、調べていくとなかなか奥が深くて興味深い。


