2025/07/05
【NEW】シン・十四年式拳銃3 十四年式拳銃がコルト ブラウニング型式になった可能性はあるのか
十四年式拳銃が多くの問題を抱えたまま日本陸軍に採用されたのは、純然たる国産拳銃を選択するという前提で審査が行なわれたからだ。しかし、技術的な優劣から判断し、コルト、ブローニング形式の拳銃を選択するという可能性はなかったのだろうか。
陸軍技術本部兵器研究方針
第一次世界大戦が終わった翌年の大正8(1919)年、陸軍技術審査部は陸軍技術本部と改称し、第一次世界大戦で飛躍的に近代化した陸戦兵器の研究開発に当たる事になった。
この陸戦兵器近代化の基本方針として、大正9(1920)年7月20日に“陸軍技術本部兵器研究方針”というものが策定されている。
これは、陸軍技術本部長から陸軍大臣に基本方針が打診され、陸軍大臣は陸軍技術会議(陸軍次官を議長とし参謀本部、教育総監部の関係課長、技術本部の関係部長、造兵廠、兵器本廠の関係職員を委員として陸軍大臣に助言する会議で、後に南部麒次郎も委員となっている)に諮問した後、さらに参謀総長と教育総監にも意見を聞いた上で内容を審議するという慎重な手続きを経て取り決められた。
“陸軍技術本部兵器研究方針”では、重機関銃や軽機関銃、及び小銃口径の7.7mm化や迫撃砲の採用、あるいは狙撃銃の採用など、おおよそ歩兵用の小火器はほぼすべて近代化するべきという方向性が定められている。
そうした中に、拳銃も自動拳銃にするべきという意見が含まれていた。
その後の十四年式拳銃の仮制式上申書には個別案件として、二十六年式拳銃の旧式化に伴う新自動拳銃の取得が目的とされている。だが、必ずしも具体的な二十六年式拳銃の旧式化が十四年式拳銃開発の主たる要因ではなかったと言えよう。それは“陸軍技術本部兵器研究方針”の内容を見れば、陸軍としては第一次世界大戦で主戦国陸軍が高度に近代化したために、日本陸軍としても全ての兵器の見直しが必要というのが本音だったと思えるからだ。
“陸軍技術本部兵器研究方針”の策定を受けて陸軍技術本部は、大正10(1921)年4月に試製甲号自動拳銃を設計、東京工廠に製造を依頼して速率(初速)や命中精度の基本審査の後、歩兵学校、騎兵学校、野戦重砲兵学校などの実施学校での実用審査をするものの、威力不足と製造価格が高い事を理由に審査は打ち切り不採用とされる。
これは、『軍用拳銃ノ沿革及諸元』 陸軍技術本部第一部銃器班編が、昭和8(1933)年に刊行した小冊子に記述された内容だが、文書史料のみで基本諸元や特徴については何も記述されていないので、どのような拳銃だったのかを知るすべはない。
ただ不採用の理由が威力不足と製造価格が高いという事であるなら、後に8mm南部式拳銃実包を十四年式拳銃実包として制式を制定しているのだから、それより弱装の実包であり、構造も南部式拳銃より複雑だった可能性が高い。
おそらく後に十四年式拳銃となる自動拳銃が、南部式拳銃の改良型とならない可能性はこの第一次審査が唯一無二の機会だったと思えるが、威力不足と製造価格が高いという評価で審査打ち切りという状況では、コルト ブラウニング型式のものが試作されていた可能性は低いといえるだろう。
その後、二次審査からは、新自動拳銃の研究方針は既存の南部式拳銃の改良という方針が技術本部で決められた。
ただこの第二次審査は、大正11(1922)年11月に陸軍歩兵学校で行われ、試作拳銃に改修の必要性があったのでさらなる継続審査へと移行する。
結論ありきの継続審査
これを行なうにあたり、大正12(1923)年1月に伊良湖射撃場で試製自動拳銃5挺と南部式大型拳銃、ベルクマン、レクザー大型、パラペリューム小型、コルト小型、ブローニング類似について、速率(初速)、命中精度、侵徹力、耐久性の予備審査が行なわれたが、試製拳銃は600発の射撃でリコイルスプリングとストライカーが衰損して短くなり、張力不足を起こした上に湾曲してしまったとしている。
これからすると、打撃方式はストライカー式だったと考えられるので、南部式拳銃をベースに新たに試製された拳銃だったと推測できる。
また、この試製拳銃は、重量1㎏、銃身長97mm、初速304.2m/sだったと記録されている。
南部式大型拳銃と制式制定された十四年式は、いずれも銃身長が120mm弱で初速は315m/s程度なので、この試製自動拳銃が約20mm短い銃身長で初速304.2m/sであるなら8mm南部式大型拳銃実包を使用しているという推測が成り立つだろう。
審査の過程で、陸軍技術本部員は試製自動拳銃5挺と南部式大型拳銃、ベルクマン、レクザー大型、パラペリューム小型、コルト小型、ブローニング類似について、速率(初速)、命中精度、侵徹力、耐久性の予備審査を行なっている。
南部式大型拳銃を改良して、試作拳銃を開発するのだから南部式大型拳銃を比較対象とするのは理解できる。
では、それ以外の外国製拳銃はどのモデルだったのだろうか。
ベルクマンはベルグマンベヤード社の1903から1921までの拳銃であろう、これは着脱弾倉ではあるが弾倉位置はマウザーC96と同じの古い設計の銃だ。
レクザー(Rexer?)はデンマークのマドセン社関連の拳銃だと思われるが、詳細は不明だ。しかし、その後の歴史からはすっかり消えており、完成度は低かったと思われる。
パラペリューム小型はドイツDWM社のモデル1922だと思われる。これはFNモデル1910のコピーだ。
コルト小型、ブローニング類似はそれぞれ、コルトポケットハンマーレス モデル1903とFNモデル1910だろう。
コルトポケットハンマーレスM1903は約57万挺、FN M1910は約75万挺が製造された中型自動拳銃だ。どちらも20世紀前半のマスターピースと言って良く、新品なら回転不良など考えられない。その一方で国産の試製拳銃は600発の射撃でリコイルスプリングとストライカーが衰損して短くなり張力不足を起こした上に湾曲している状況なのだ。
そしてこの拳銃の審査をしている、陸軍技術本部員というのは、圧倒的に理系が多い陸軍士官学校を卒業して、砲兵科に所属している技術者だ。陸軍技術本部に配属されているということは陸軍砲工学校高等科卒業の可能性が高い。そんな陸軍技術本部員なら、審査の過程で、外国製拳銃と国産試作拳銃の能力差はすぐに見破ったはずだ。
国産試作拳銃は、試製甲号自動拳銃と呼ばれるものだが、これは3度にわたって作り変えられている。一回目は南部式大型拳銃の改良ではないと思われるモデルで、二回目から南部式大型拳銃を改良したものとなったが、これは関東大震災で審査不能となり、三回目のものが、“Japanese Military Cartridge Handguns 1893-1945”(Harry L. Derby Ⅲ 、James D. Brown 共著)に、Experimental Mark A Automatic Pistolとして紹介されている装弾数15+1発の大型自動拳銃となる。
そしてこの三回の審査中も、常に装弾不良、排莢不良、ばねの衰損、金属部の破損などが続出しており、東京砲兵工廠対案の試製乙号自動拳銃も審査の過程における不具合は、それより少し良いという程度でしかない。
技術的観点から審査対象拳銃の優劣を判断したなら、国産試作拳銃はどう考えてもコルト、ブローニングと比較して明らかに劣ると判断し、審査対象から外すのが、妥当だろう。しかし、それを行なわず、三回も審査を繰り返したわけだ。
こうしたことを考えていくと、日本陸軍としては初めから“国産試作品の採用ありき”であって、外国製拳銃との比較はそもそも当て馬でしかなく、初めから採用するつもりは全くなかったのだろうと推測できる。
筆者が当時の審査官の立場で制式制定趣意書を書くなら、
「ベルグマンベヤードは大型拳銃で威力も大きいが設計が古くかさばって操作がしにくい、他のパラペリューム小型、コルト小型、ブローニング類似については、口径が小さく(伝統的に日本では.32ACP弾が主流で.380ACP弾は戦前流入していない)、軍用銃としては威力が低い、として試作国産自動拳銃の制式制定が妥当である」
とするだろう。立場上、そう書かざるを得ないからだ。
さらに言うなら、比較用の外国製拳銃は陸軍技術本部が任意で選んでいるわけだから、最初からこうした作文がしやすいモデルを選択したのかもしれない。なにしろ、第一次大戦で広く活用されたアメリカのM1911, ドイツのP.08を全く審査していないのだ。イタリアのベレッタ モデル1915もない。これらは主要交戦国が戦場で使用し、バトルプルーフされた拳銃だ。FNのモデル1903とそれをスウェーデンで国産化したハスクバーナm/1907だって、高い性能を発揮しただろう。
初めから国産拳銃を採用する前提で進めながら、肝心の陸軍技術本部には、画期的な新自動拳銃を開発する能力はなかったため、技術本部首脳としては早々に過去の成功事例である南部式拳銃の改良というところに落ち着いてしまったように見える。
これは陸軍の官僚体制が完全に出来上がった弊害だ。南部麒次郎のようなノンキャリアの小銃製造所長に銃器設計の多くを任せるような、陸軍の規定外の人材起用を首脳部も認める、明治ならではの進取の気風がすっかり失われてしまっている。
次期自動拳銃のライセンス生産の可能性
本来ならば、日本陸軍も、国産に固執せずライセンス料を支払ってライセンス生産するという考え方もできたはずだ。
また当時のパテントの有効期限は20年だから、コルト モデル1903に関連するパテントは1923年に切れる。それ以降であれば、これを発展させた拳銃を開発することもできる。この審査の過程で、コルトブローバックピストルを操作し、射撃しているのだからその実用性は理解できただろう。
さらに速率(初速)と弾頭重量もわかっていれば、陸軍技術本部員にその初活力が計算できないわけがなく、ならば.380ACP口径弾が南部式大型実包と同等ということも理解できるはずだ。
であるならばパテント切れのコルト モデル1908をベースに、スライドを後方はね上げで脱着できるオートギスピストルと同形式にすれば加工が煩雑なバイヨネットラグなどではなくフレームにバレルがピン固定できるだろう。
さらにグリップセイフティを除去すれば製造は容易になり、十四年式拳銃よりはるかに軽く同程度の威力を持つ将校用下士官兵共通の主力自動拳銃が誕生することになっただろう。
陸軍のライセンス生産についての考え方は、あまりなかったようだ。このことは、三十年式銃の例を見ても明らかだ。
三十年式銃の開発に際して、有坂成章がマウザー社にパテント料を支払うことを潔しとしなかった背景を考えてみたい。
1905年にアメリカ合衆国政府は、スプリングフィールドM1903小銃についてマウザー社から特許侵害で訴訟を起こされている。
この問題は実際に特許侵害であったようで、銃とクリップのパテント料として20数万挺分の特許料として約20万ドルを支払っている。
三十年式銃の開発時期はスプリングフィールドM1903より7年ほど先行しているが、当時の円ドルレートは1ドル=1円だから20万円ということになり20数万丁の製造なら現邦貨換算するための係数として5,000倍すれば10億円となる。
仮に実際の製造分60万挺分のパテント料を支払ったとすれば、それは60万円となるが、これは当時の国家予算の0.1%に過ぎない。
しかし陸軍は、マウザー社のパテントを取得せず、それでいて当時最新とされたマウザー風のパイプ型ワンピースボルトをデザインしようとした。
この作業に当たった有坂成章は、最初からパテント回避のためのデザインをしなければならず、このため部品点数が多くその強度に脆弱性がある三十年式銃を完成させてしまった
その後この問題点は、南部麒次郎の天才的ひらめきによって改良され、三八式銃に発展した。三十年式銃で11点あったボルト部品は5点で機能するようになりパテント回避の悪弊は根絶されることになる。
明治期いっぱいまでは、この様な師弟関係によるナイスフォローなどがあった。また明治13(1880)年の村田銃、明治18(1885)年の改正村田銃、明治22(1889)年の村田連発銃、そして明治26(1893)年の二十六年式拳銃、明治37(1904)年の南部式大型拳銃と、様々な軍用銃を立て続けに開発に成功したことが、拳銃や小銃の開発では外国パテントに頼らない開発慣例になっていったのであろう。
ただ日本陸軍は、日露戦争に当たってドイツのクルップ社に三八式火砲群を、昭和に入ってその後継となる九〇式野砲でフランスのシュナイダー社にパテント料を支払っている。
小火器の分野でも陸軍はフランスのホチキス社には保式機関銃のパテント料を支払っているので、必ずしもパテント料の支払いに否定的だったわけではない。
ただ、多くの成功体験を持つ拳銃や小銃の分野では、できれば海外にパテント料を支払わず国産で開発したいという意思が働いていたようなことは想像に難くないのだ。
Text by 杉浦久也
Gun Pro Web 2025年8月号
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