2025/06/01
【NEW】GUN HISTORY ROOM 119 シン・十四年式拳銃 十四年式拳銃の評価

旧Gun誌とGun Professionals誌で通算50年以上に亘り、リポーターを務められたTurk Takano氏は、日本軍の拳銃をレポートされるたびに、“日本軍はコルト、ブラウニング型式の拳銃を採用するべきだった”と主張されて来られた。併せて “それこそが最良の選択だったはずだ”とも記されている。
このご意見は正にその通りなのだが、当時の日本軍がそのようにしなかったその理由について筆者の見解は、十四年式拳銃に先行して南部式拳銃というささやかな成功作が自国に存在したからだ、というものになる。
南部式自動拳銃の影響
自動拳銃黎明期に登場した南部式拳銃を下敷きにして、主に生産性の向上と各部のブラッシュアップアップを施して完成したのが十四年式拳銃だが、これは南部式拳銃の存在がむしろマイナスに働いた結果だ。
下敷きにした南部式拳銃が、自動拳銃黎明期である明治37(1904)年に登場したもので、十四年式拳銃が登場した大正14(1925)年には、その基本設計が自動拳銃の本流から既に外れたものとなってしまっていた。
これは今日から見た結果論と言われるかもしれないが、当時の列強国が自動拳銃を採用した時期と機種を俯瞰してみると、あながち結果論ではないように思える。
列強国の自動拳銃採用で最も早いものは、オーストリア・ハンガリー帝国のロート・シュタイヤー M1907だ。1907年制式制定、翌1908年から製造開始している。この翌年ドイツ陸軍がルガーの名称で知られるパラベラムピストル08拳銃を採用し(1908年)、1911年にアメリカがM1911を採用している。海軍だけが採用したという例はこれ以外にもあるが、陸軍での採用を見れば、このような流れだ。
これまで気づかなかったが、南部式拳銃乙型が「四一式拳銃」として明治41(1908)年に制式が制定されていれば、世界的に見てもかなり早い時期の自動拳銃採用となっていたわけだ。しかし、当時は列強の一角ですらなかった貧乏国日本の陸軍が、このタイミングで自動拳銃の制式を制定しなかったのは、無理もない話だろう。
以上が第一次世界大戦以前に列強で採用された自動拳銃だ。この世界大戦以降の流れを見てみると、日本の十四年式拳銃が1925年に制式が制定され、次いでソビエトのトカレフTT30(1930年)、フランスのMle1935A(1935年)と続く。イギリスに至っては1944年にカナダのジョン・イングリス社で製造されたものが一部供給されたものの、全面採用されるのは1965年とかなり遅い。
ちなみに、第一次大戦後の列強国の定義は、オーストリア=・ハンガリー帝国が脱落し、日本とアメリカが加わったと考える。この時点で、ドイツはベルサイユ条約による軍事制限が架せられていた状態でとても列強国とはいえなかったし、イタリアも微妙なところなので外している。この二ヵ国は1930年代になって大きく存在感を増すのだが。
このような筆者なりの列強国の定義で、自動拳銃採用状況を見てみると、アメリカのM1911採用後にコルト、ブラウニング型式以外の自動拳銃を採用した列強国は日本だけだ。
もちろんこの展開には、コルト社が持っていたM1911のパテントが1931(昭和6)年に切れて、M1911を模倣した自動拳銃の製造が可能になったからではあるが、コルト、ブラウニング型式の自動拳銃が軍用拳銃として当時の最適解と認識されていたことがわかるだろう。
このように見てみると、自動拳銃の黎明期というのはM1911の登場で終了し、それ以降はブラウニングハイパワーの多弾数化、ワルサーP38のダブルアクションとデコッキング及びファイアリングピンブロックの採用、グロックの樹脂フレームと独特の安全撃発機構、これらが組み合わさって今日のほぼ完成形の自動拳銃となっていくわけだが、その基本骨格はM1911で完成していたといえるだろう。
そうした意味で、十四年式拳銃はその誕生の時点ですでに自動拳銃の本流から外れ、将来的な発展性のない隘路に陥った存在であったのだ。
南部式大型拳銃実包の問題
十四年式拳銃のもう一つの大きな問題点は、その使用弾薬に南部式大型拳銃実包がそのまま十四年式拳銃実包として制式が制定されたことだ。
もともと南部式拳銃に使用される実包は、7.65×21mmパラベラム実包を上回る威力の実包を検討していたようだが、実際に実用化されたものは7.65×21mmパラベラム実包を下回り、.380ACP実包程度の威力にとどまるものになっている。
周知のように.380ACP実包は、ストレートブローバックでも、発射可能な威力の実包であり、であるならばショートリコイル式の閉鎖機構を備える南部式拳銃はその設計自体が非合理な構造ということになる。
ただ南部式大型拳銃実包の場合、ライフル弾と似たボトルネックのケースでテーパーが強いのでロッキングがあった方が良いという見方もできるが、後年十四年式実包を使ってストレートブローバックで二式拳銃が登場していることは見逃せない。
ただ南部式拳銃の場合、ボトルネックケースを採用したのは仕方がないのかもしれない。それは南部式大型拳銃実包に先行する、代表的軍用実包の7.65×25mmボルヒャルト弾(1890年)、7.63×25mmモーゼル弾(1896年)、7.65×21mmパラベラム弾(1898年)、これらはどれもボトルネックケースを採用している。
そして自動拳銃用のストレートケース実包が設計され始めたのは、20世紀の始まり前後のことだ。
大型軍用拳銃用のストレートケース実包は、1900年に開発された.38ACP弾(後に.38スーパーへ発展)と1902年に9mmパラベラム弾がある。
現在の視点からは、日本は古臭いボトルネックケースを踏襲したように見えるが、明治37(1904)年に開発が完了した南部式大型拳銃実包は、比較的新しいこれらを参考にすることはなかったのだろう。
とはいえ南部式大型拳銃実包の開発以降、ストレートケースを使用する.380実包が1908年に開発され、それを発射できるストレートブローバック式のブラウニングモデル1910が登場し、それが広範に普及した時点で南部式大型拳銃実包が陳腐化していることは明らかだったといえる。
ただ日本陸軍の中では、こうした状況を正確に把握していなかった。陸軍技術本部で十四年式拳銃の開発が始まったころに試作された試製甲号自動拳銃を見ても基本設計は南部式拳銃を踏襲し、使用弾薬はもう南部式大型拳銃実包一択と決められていたようだ。
十四年式拳銃の問題点はこの二つ以外にもあるが、基本的にはこの“設計の古さ”と“使用実包の陳腐化”を挙げることができる。この問題はすべて南部式拳銃から受け継いだものだ。
したがって南部式拳銃のささやかな成功、つまるところ明治37(1904)年に自動拳銃を日本で製造できたという成功体験が、かえって日本軍の拳銃の発展を阻害したといえるのではないだろうか。
また基本的なことだが、十四年式拳銃を大正14(1925)年に完成させる必要があったのかという問題もある。
軍用拳銃を特に重視する、アメリカやドイツが自動拳銃を早い時期に採用したのは国民性といえるだろうが、現実に即して考えればフランスやソビエトが自動拳銃を採用した時期である1930年代まで待つことはできただろうし、なんとなればイギリスのようにリボルバーのままでも大きな支障があったとは思えないからだ。もし1930年代半ばまで自動拳銃を採用を遅らせていれば、より、多くの外国製拳銃の機構を参考にできた可能性も高い。
だが、残念なことに日本では第一次世界大戦よる軍事技術の大発展に対応するための「陸軍技術本部研究方針」が策定され、その研究開発事項に自動拳銃があったため、手っ取り早く既存の南部式拳銃の改良によって自動拳銃の採用を急いでしまったわけだ。
仮に十四年式拳銃に先行する南部式拳銃が存在しなかったとしたら、Turk Takano氏が言われるように日本軍は広く世界の軍用拳銃を比較検討し、その中からコルト、ブラウニング型式の拳銃を選択、これをベースに拳銃を試作改良し、それを採用していた公算は高いのではないだろうか。
その場合、日本軍は強力な拳銃を必要としない傾向があるので、口径を.380ACPとして、コルトモデル1903に近いものを選定採用していれば、官給品と将校用を共通化できたのではないだろうか。
十四年式拳銃の回転不良を再考する
残念なことに、十四年式拳銃の回転不良は陸軍が存在していた時代から問題点として提起されていた。
今では個人が画像情報を発信できる時代になり、動画サイトでアメリカなどから十四年式拳銃の射撃が見られるが、そこでも回転不良が起こるものが複数見られる、そこで十四年式拳銃の回転不良について再考してみたい。
従来筆者は、十四年式拳銃の回転不良の原因は、その弾倉設計の不備にあると主張してきた。
しかし、十四年式拳銃の回転不良の原因を弾倉や、弾頭形状や重量、あるいはケースの形状、装薬量などのどれか一点に絞るのは無理があるように思えるようになった。
アメリカで回転不良を起こしている十四年式拳銃は、昭和16(1941)年12月以前に製造された個体が圧倒的に多い。
確定的な史料は見つかっていないが、この時期に十四年式拳銃は完全ではないが部品互換が与えられたようだ。
具体的にはこの時期に、それまで中央工業で製造され陸軍名古屋工廠で検定を受けていた十四年式拳銃の製造は、名古屋工廠鳥居松製造所に移管され、代わりに九四式拳銃を中央工業が受け持つことになる。
この鳥居松製造所長が、九九式小銃の部品互換を主導した岩下賢三技術大佐であり、以降の十四年式拳銃では回転不良が少ないように見受けられるからだ。
筆者は十四年式拳銃の回転不良の原因を弾倉にあると考えているが、これはアメリカ軍の鹵獲拳銃管理手法にも問題があった。
大正の末年に制式が制定された十四年式拳銃では、昭和16(1941)年12月以前の製品に部品互換がないにもかかわらず、占領軍は日本の敗戦の際に鹵獲した十四年式拳銃について、拳銃本体と弾倉を別個に管理してしまったことが原因だろう。
アメリカ軍としては、自分たちのM1911同様こうした管理をしても問題ないと考えたのだろうが、部品互換の無い初期の十四年式拳銃では1挺に2個の弾倉を組み合わせてハンドフィッテイングされているので、異なる弾倉を装着した場合には回転不良が起こると可能性が非常に高かった。
また十四年式拳銃の弾倉は、丸巻のマガジンスプリングを使用してこれが蛇行しないように弾倉本体にガイドの膨らみを付けて使うという、その20年前に設計された南部式拳銃と変わらないものだ。
さらに言えば、この設計とボトルネックの弾薬との相性も決して良いものではない。
また、部隊配備された十四年式拳銃も中隊兵器係でマガジンリップの矯正を行わないと回転不良が起こったようで、これを矯正する木製の専用器具まで配布されている。
このようなことから筆者は、十四年式拳銃の回転不良は弾倉に原因があるという説を推してきたのだが、どうも南部式拳銃に関しては非常に微妙な構成要素で作動しているように思えるようになった。
つまり十四年式拳銃は、弾頭の形状、重量、マガジンリップの適否(それも個体ごとに一定ではない)ケースの形状のほかに、リコイルスプリングの張力やそれを相殺するストライカースプリングの張力など複雑で微妙なバランスで作動しており、既に生産から最も新しくても80年以上たっていてる十四年式拳銃が回転不良を起こすのはむしろ当たり前と思えるようになった。
要するに黎明期の自動拳銃は、当然だが機械の設計にこなれの悪いところがあり、それを問題なく作動させるためには職人芸といえるような多くのハンドフィッテイングが必要で、黎明期の自動拳銃の影響を、銃本体にも弾薬にも色濃く残す十四年式拳銃もそうした要素を多分に含んでいたということだ。
そうすると、現在のアメリカで回転不良を起こしている十四年式拳銃は、まず製造から80年以上を経て各部のスプリングが衰損しており弾倉がアンマッチなうえに、日本陸軍規格の弾薬が手に入らないのだから、当然といえば当然の結果といえるのだろう。

十四年式拳銃は約28万挺製造されているが、そのうち44%に当たる123,000挺が部品互換のあると思われる名古屋工廠鳥居松製造所製であり、これらは回転不良の可能性は低いと考えられる。
一方部品互換がないと思われる約156,000挺に関しては、弾倉がマッチングナンバーでない場合回転不良の可能性がある。
しかし初期型の十四年式拳銃は実戦配備されており衰損数も多いと考えられるので前期型後期型のアメリカに渡った鹵獲数はほぼ同数と考える。
現在アメリカで販売されている十四年式拳銃の弾倉は圧倒的に後期型の黒染めのものが多いが、これは後期型が国内で整然と鹵獲されたと考えられ、その場合銃本体に対して2個の弾倉が鹵獲されているからであろう。
こうした経緯を考えると、本来クロムメッキが施された弾倉が備わっているべき前期型の銃に黒染めの弾倉が付属しているものが多いが、このようになってしまった個体で回転不良が発生していると考えられる。
ここでいう前期型後期型は、トリガーガードの大小でいう前期型後期型ではなく、部品互換の無いと思われるものを前期型、部品互換があると思われるものを後期型としている。
筆者は、むしろこの分け方が正鵠を射ていると考える。
Text by 杉浦久也
Gun Pro Web 2025年7月号
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