2025/03/24
Bren Ten 究極のコンバットオート その夢と挫折
Bren Ten
史上初の10mmオートにして
Ten パーフェクト・コンバット・オートに
なるはずだった幻の名銃
Text & Photos by Yasunari Akita
Gun Professionals 2013年2月号に掲載
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Masterpieces of 60's-80's
名銃 ブレンテン
製造が打ち切られ、過去のものとなってしまっても、人々の記憶の中にその存在が深く刻まれるモデルは沢山ある。それらの一部は、"名銃"と呼ばれるようになっていく。
名銃の条件とは何か? 優れた性能を発揮し、実績を築いてきた小火器達がズバリ当てはまるのだと思うが、例え失敗作であっても出現当時は注目され有名になったモデル、または何かしら後世に大きな影響を与えたモデルなら名銃と呼んでも良いのではないかと筆者は勝手に考えている。
サクセスをつかみ損ねビジネスとしては大失敗したものであっても、その強い個性から年十年経っても存在感を放ち続けるモデルも筆者にとっての名銃扱いだ。
今月はそんな歴史の中でいまなお銃器ファンたちに語り継がれるモデルの一つ、ブレンテンを紹介してみたい。これこそ筆者がオートマグと並んでいつかは欲しいと思っている名銃の一つ。といっても現在コレクター価格は高騰し、大体3,000ドル以上はするし、お目にかかることも殆どない。

ブレンテンはハッキリいって商品としては失敗作だ。しかし開発過程から多くの人々の期待を背負い、もしかしたらコンバットオートの究極の形、パーフェクトコンバットオートになるのではないかという大きな夢を人々に与えてくれた。そして二度の挫折を経て、現在でもその復活プロジェクトが進行している事からも、長い間人々を魅了し続けていることが理解できる。
10mmオートの第一号製品であったことでも注目され、また当時大人気を誇ったアメリカの刑事ドラマシリーズ、『特捜刑事マイアミ・バイス』(Miami Vice)でドン・ジョンソン演じる主人公ソニー・クロケットが、夜間シーンでも目立つクローム仕上げのスライド付きの特別製ブレンテンを使用したことから、思い出深いモデルになっている。
この銃にまつわる数々のストーリーがブレンテンという銃を名銃へと昇華させていった…なんて書くとカッコ良すぎるが、ブレンテンは好きな人には本当にたまらない、スター性の高いハンドガンなのだ。

コンバットオートの究極の形
話は70年代後半にまでさかのぼる。ブレンテン誕生の裏には近代コンバット射撃の骨組みを作ったジェフ・クーパー(Jeff Cooper :1920-2006)の存在がある。
全ては米国の専門誌ソルジャー・オブ・フォーチュン誌でクーパーが高い評価を与え、コンバット・オートの理想像としてチェコのCZ75の存在を広めた事から始まった。
1975年に登場したCZ75は欧米で開発される次世代型軍・警察用オート達とは相反するように大変オールドスクールなコンセプトと製造手段による製品だった(その後、CZは工場の近代化と共に生産性重視の方向性に移行したが)。
その頃、西側では生産の効率化と汎用性が重視され、オペレーションは安全かつシンプル化なものへと変化し、耐久性をある程度犠牲にしても軽量素材による軽量化を重視する流れに進んでいた。
ガバメント、そして45ACPをコンバット射撃用ハンドガンの基準としていた当時のクーパーにとっては、そのような新世代ハンドガン達は全く興味が湧かない存在だっただろう。
ところがCZ75はDAを採用しているにもかかわらずコック・アンド・ロック機能を残し、そしてフレームはスチール素材を切削加工(最初期のモデル)という西側を意識しつつもかなりオーソドックスなデザインと生産方式だった。
当時クーパーが理想とした玄人向けの条件の多くをCZ75は満たしていた。唯一、使用弾が9mm×19であった事が惜しまれた。この銃が高いストッピングパワーを持つ.45ACPであれば本当の意味でクーパーには理想の戦闘用拳銃になっていた。
また冷戦真っただ中の当時、共産国に属していたチェコスロバキア製小火器の米国への輸入には大きな制限があり、カナダを経由するなど特殊なルートでしか入手できず、価格は手数料が上乗せされ高騰した。
しかしアメリカで自由に販売できないからこそ、そこにビジネスチャンスが眠っていると考える人物達が現われた。それがトーマス・ドールナス、マイケル・ディクソンの2人で、1979年12月にD&D社をLAの南、ハンティントンビーチに設立した。

この両人はコルトガバメントの後継者のような存在になりうる次世代型オートの開発を夢みていた。この情報をキャッチした業界はさっそく注目した。
1981年7月15日、D&Dエンタープライズとしてビジネスがスタートし、翌年11月に同所に製造工場が完成。当時としてかなり進んだ自動工作機械が導入され、従業員は全員、射撃好きで構成された。
こうしてD&Dの第1号製品として企画されたのがアメリカ製CZ75、ブレンテンである。CZ75をベースデザインとしつつも、単純なコピー商品ではなく開発コンサルタントにクーパーを迎え入れ、さらに進化・発展させたヘビーデューティ コンバットサービスピストルの完成を目標とした。
つまりD&DはCZ75のあと一歩…という部分を独自に改修し、完璧なコンバットオートを形にすることを目指していたのだ。ただ、この究極のハンドガン開発に膨大な資金が必要であったため、82年初頭から先行オーダーを受け付け、お客から前金を受け取り、同社は資金作りを行なうといった危うい作戦に出た。
クーパーにとってCZ75の大きな不満であった使用弾は9mm×19から変更されたが、そこに.45ACPを持ってくることはせず、新型10mmオート弾を標準口径としたことも大きなインパクトを与え(.45ACP化も視野に入れ開発は進めていたが)、大口径化に伴い銃本体もCZ75からスケールアップされた。
10mmオート弾はスウェーデンのノルマ社が開発中だったもので、9mm×19と.45ACP双方のメリットを掛け合わせたバランスの良いハンドガンカートリッジとして紹介され、クーパーお墨付きの究極のコンバットオートに新型口径の組み合わせとなった事で完成への期待がますます膨らんでいった。専門誌で試作の進行状況をクーパー本人が報じ、試作品も公開された。


新型モデルは、優秀だった英国のブレンマシンガンと新10mm口径をあわせ"ブレンテン(Bren Ten)"と命名。弾の開発が遅れていたためか、最初の試作モデルは.45ACPで組み上げられた。
第2号試作から10mmオートでのテストが開始。のちの製品版との大きな違いは、装弾数が12発であったこと、そしてスライド側面から押して作動させるクロスボルト ファイアリングピンブロックセイフティ機構がまだ備わってなかった点などであった。
全体的にCZ75と大きく異なった部分は、フレーム素材を耐腐食性と生産性(加工がしやすい)に優れたステンレスに置き換えたことだ。ただしスライド素材をステンレスにしてしまうと、その素材の特性上、レールとのかみ合わせ部分の摩擦が増加するため、スライドはスチールのままとした。
数年の試作ステージを経てブレンテンの量産準備が整ったのが1984年で、基本モデルの小売価格は500ドルに設定された。しかしここでブレンテンの評判を著しく落とす重大な出来事が発生してしまう。
マガジンの製造をイタリアのMec-Gar社に発注し製造させる運びとなっていたが、計算が大きく狂ってしまう。諸事情から銃の発売にマガジンが間に合わないという事態に陥り、前金を払って待たせている数多くのお客さん達をそれ以上待たせられないというプレッシャーに負けたD&D社は、マガジン無しで出荷を開始するという苦渋の選択を選んだのだ。
基本モデルの製造番号は83SMxxxxxから開始され、「マガジンは入荷次第、あとで送ります」と説明した紙を添えて出荷が始まり時間稼ぎを行なった。
当初は.45ACP用を兼用できるデュアルマガジンを目指し開発を進めていたが、納入予定が大きく遅れ、84年初頭に届けられた初回ロット品は熱処理がされておらず、数百発でゆがみが生じ、それにより銃に挿入できない個体まで確認された。


D&Dは製造元に抗議し、次のロットではフォロアーやスプリングを変更し、各口径別とデュアルの2種を作らせ、組み立ては米国側で行なった。しかし今度はフレームのキャスティング素材を作らせていた会社が寸法を間違えてグリップが短くなり、挿入はできてもマガジンが長すぎ、銃の中で不安定になり、ジャムを誘発したり射撃中に抜け落ちるケースも発生した。
そこでD&D社は、ベース部にリベットを打ち込むことで隙間を埋め、問題に対処したが、その間も多くのお客さん達がマガジン無しのブレンテンを受け取ってずっと待っていた。
マガジンの準備は何とか整ったがそれまでかなりの時間を要した。ここまで期待し待たされた挙句、マガジンがいつになっても届かず撃つことも叶わない…お客さんたちの不満は爆発寸前だった。

トラブル続きでブレンテンの製造は思い描いたように順調ではなく、製造開始からおよそ1,500挺で生産に終止符を打つ事となった。発売からたった2年の出来事である。出鼻をくじいたマガジン騒動も大きな要因だったが、D&D社が抱えた資金不足から来た負債が最大の倒産理由だったと言われている。
広大な土地に建設された工場、製造プロセスの自動化など、最初に思い描いた夢が大きすぎたのだ。消費者の期待が大きく膨らみすぎ、マガジンの問題は不運だったが、それがD&Dの焦りを加速させてしまった。
しかし、その2年間に製造されたバリエーションはいくつかあり、実現には至らなかったが、さらなる開発プランも存在していた。
当時進行中だった米軍XM9トライアルに提出された9mm×19版の試作品、XM-9ブレンが84年のアメリカン・ハンドガンナー誌に掲載されていた。
4インチ銃身にまでコンパクト化したスペシャルフォースモデルが少数製造され、クローム仕上げスライドのライト、黒色仕上げ(スライドはパーカライズ、フレームはブラックオキサイド)のダークという2種があった。
銃身長は同じだが8発まで装弾数を減らしフレームを薄くしたポケット・モデルが3挺だけ試作されている。

この他にもブラックオキサイド仕上げのフレームを持つミリタリー&ポリス・モデルがあり、ビジネスが順調であればデューティガンとして売り込みに力を入れていた筈だろう。
記念モデルも数種類用意されていた。.45ACPのコンバージョンキットを抱き合わせたデュアルマスター プレゼンテーションモデルは50挺製造されエングレーブが加工され、木製のケースに収めれて販売された。
イリノイ州のマークスマンショップの発注により作られたマークスマンスペシャルマッチ45(記録では250挺製造された事になっているが真相は不明)もあった。
2,000挺限定でジェフ・クーパーの運営していたガンサイト(GUNSITE)の特別記念モデルの登場も82年に予告されていたが、実際に組まれたのは13挺だけだった。
こうしてD&D社は倒産してしまった訳だが、ブレンテンが業界に残したインパクトは大きなものであった。それが後世にも大きな影響を与え、復活を試みる出資者たちを生み出している。

ブレンテンでは操作レバー、ボタンの大型化によって操作性をさらに向上させ、さらにスライド側面にあるボタンがクロスボルト方式のセイフティになっていて、ファイアリングピンを直接ロック(写真はオン)できるので、安全にハンマーを戻すことができる。ブレンテンにはCZ75にないトリガーストップも標準装備されている。
