2025/07/28
【NEW】Gun History Room 121 遺品拳銃
戦争終結から80年となる現在でも、日本各地で“遺品拳銃”の発見が報道されている。この遺品拳銃とはどのようなものなのか、またどのような経緯で戦前戦中の拳銃が一般市民の手に留まったのかについての考察を行なってみた。
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昨年10月に編集部を通して、ある報道機関の記者の方から遺品拳銃について取材したいという連絡をいただいた。
周知の通り本稿は、過去の一次史料や二次史料を読み解き、実際にアメリカを中心に現存する日本軍の銃器の実態と突き合わせて、どのような経緯で日本の軍用銃が作られてきたのかを解き明かし、その調査結果を報告するものだ。
従って常に過去を振り返る内容にならざるを得ないわけだが、今回取材を受けたことで、改めて本稿で調べている当時の軍用拳銃が、遺品拳銃という形で今日まで連綿と歴史を共有していることに気付かされた。
そうした経緯で今月は遺品拳銃についての話とさせて頂くことにした。
戦後の日本は、拳銃の個人所有を厳しく禁止してきた。その対象は一般市民に留まらず、警察など法執行機関や自衛隊関係者にも及んでいる。職務上、拳銃を使用する者であっても、それはあくまでも貸与されているに過ぎないわけで、個人の所有物ではない。
またピストル射撃競技選手は50名までを上限とし、競技用装薬拳銃の所持が認められているものの、拳銃の保管場所は警察署と定められており、その状態を持って“所持”といえるかどうかは甚だ疑問だ。
したがって日本国内で、“私物として装薬拳銃を合法的に所持保管している人はいない”、と言い切って良いだろう。
しかし、もう数十年も前から、亡くなられた方の遺品整理の際に拳銃が見つかることがあり、それらは“遺品拳銃”と呼ばれている。
戦前の日本は、拳銃の個人所有が認められていた。当時の銃砲火薬類取締法では、拳銃や仕込み銃(変装銃)という秘匿性の高い銃器については、警察でそれらの銃を購入する許可証を交付してもらってから購入するという決まりだった。
一方、散弾銃やライフルに関しては、購入者の住所氏名や職業を銃砲店が聴取して、毎月所轄警察署に届けるだけという手続きで購入が可能であり、拳銃の購入は、散弾銃やライフルと比べ、ややハードルは高かったといえる。
それでも、よほど素性が怪しくなければ、一般の民間人が拳銃の購入許可を所轄警察署で交付して貰うことはそれほど困難なことではなかったようだ。
ちなみに昭和初期における拳銃の価格は40円から50円で、一般的なサラリーマンが月給100円程度であった時代であったことを考えると、拳銃は月収の半分程度という比較的高額な商品に位置付けられていた。
そして誰が拳銃を買って持っているかは、その地域の警察署の台帳に記載されていたはずだが、現在の銃刀法のような厳格な管理が行なわれていたとは思えない。その後に起こった戦争による混乱でその台帳が失われてしまった場合もあったと推測できる。
そうした事情から、民間人所有の拳銃の一部はその所在が不明になったまま、今になって発見されたりしているのではないだろうか。
そういったものとは別に、軍用に供された拳銃が遺品となって今日発見される場合もある。
軍用遺品拳銃の素性について
戦後80年の歳月が流れ、先の大戦に参加された方々はそのほとんどが鬼籍に入られている。そういった方々の遺品の中から、拳銃が見つかる場合がごく稀にある。
一般の人からみれば、敗戦のどさくさに紛れて、軍隊から持ち出したものと考えられがちだ。何しろ敗戦時には、衣類・食料・医薬品など様々なものが隠匿されて、闇市などに流出したことは今日も語り草になっているからだ。
しかし、遺品拳銃の中には、かつて将校の私物拳銃であったものが少なからずあると推測している。
日本陸軍の場合、下士官兵は、兵科によっては拳銃を貸与されることはあっても、それは日本陸軍所有の官品であって、兵隊が除隊時に小銃を持って帰れないのと同様に拳銃を持ち帰ることはできない。
一方で准士官である准尉や士官である少尉以上の将校の場合は、その軍装一式を私費購入するようになっていて、この中には拳銃も含まれていた。
民間人が警察から拳銃購入許可の交付を受けなければならないのに対し、陸軍服装規則によって実施部隊の場合は部隊長、官衙勤務の場合は直属上官による払い下げ購入願いで代替できるという違いがあった。
つまり陸軍の場合は、准尉以上の階級の者は、私費購入の拳銃を軍装用拳銃として個人所有していたということだ。
日本が正式に降伏したのは昭和20(1945)年9月2日だが、日本国内では8月15日の天皇陛下の玉音放送直後に早々に解散した陸海軍部隊も多かった。
そして戦後拳銃の所有を禁止する法令は連合軍最高司令部の要請で日本政府が昭和21年6月3日に交付した勅令第300号「銃砲等所持禁止令」が最初であるから、それ以前であれば銃砲火薬類取締法が有効で、連合軍の進駐が始まり武装解除が行われた9月以前に国内にいて私物拳銃を持っていた准尉以上の階級の軍人が、故郷へ復員する際に拳銃を持ち帰っても、その時点では合法ということになる。
筆者は、こうした経緯で戦後拳銃の所持が非合法になった後も、元来合法であった拳銃を生涯持ち続けて、その死後に遺品拳銃として発見されたものがあると考えている。
拳銃と違い、将校用軍刀は遺品として発見されても、遺品拳銃のように騒がれることは無いが、これについても遺品の中から発見される場合がある。
将校用軍刀はその外装である拵えで軍刀であることが一目瞭然で、また将校用は拳銃同様私物であった。敗戦時点では、刀を取り締まる法律は無いので占領軍進駐以前に武装解除を受けずに故郷へ復員した場合でも、それを所有し続けることは合法だった。
軍刀の刀身である日本刀は、連合軍最高司令部の昭和20(1945)年9月24日付通達で「美術品と看做される刀剣に関しては、善意の一般市民の所有に係る場合にのみ」保管を許されるところとなり、昭和26(1946)年6月3日の「銃砲等所持禁止令」の公布により日本人審査員による審査が行なわれたことで、以降日本古来の折り返し鍛錬で作刀されたものは、美術刀剣として教育委員会への登録で所持ができるようになり現在に至っている。
もちろん将校用拳銃よりも日本刀の総数ははるかに多く、現在登録されている数量は250万振りといわれているが、今なお軍刀拵えのままの未登録な日本刀が発見され、新規に登録が行なわれているのだ。
遺品拳銃が軍刀外装の日本刀とともに発見されることもままあり、これなどはその遺品拳銃が、元々将校軍装用の私物拳銃であった証拠といえる。
もちろん、敗戦のどさくさで本来拳銃の所有が認められない立場の軍人が不法に拳銃を持ち出して、そのまま故郷に復員し、以後拳銃を所持し続けたというような場合もあったであろう。しかし、それは陸軍所有の国家財産を窃盗、もしくは横領したという犯罪であり、さらに当時の銃砲火薬類取締法においても拳銃譲り渡し証が無いので、拳銃の所有は明らかに違法だ。
さらに昭和21(1946年6月3日以降は「銃砲等所持禁止令」により、改めて違法となっている。
一方で、将校軍装用私物拳銃は、その由来は公明正大なものであり、同時に幹部軍人のプライド、そしてステータスであったものだ。であるからこそ、かつては敵であった占領軍の意向で拳銃の所持が禁止されても、それを手放すことなく、生涯所持し続けて亡くなったと考えられるのではないだろうか。

口径はいずれに7.65×17mm(.32ACP)で、軍刀と二重装備しなくてはならない日本陸軍将校から軽量コンパクトなブラウニングは、人気だった。
Photo by Terry Yano
どれほどの将校軍装用私物拳銃があったのか?
これを知るための史料として、次のものがある。アジ歴レファレンスコード C12120578400 “陸普第1147号 昭和17年2月26日付け「陸軍服装令に依り所持する私物拳銃保管規程実施に関する件関係陸軍部隊へ通牒」”だ。
これによれば、それまで個人保管されていた将校軍曹用私物拳銃について、昭和16(1941)年10月9日に、将校用拳銃の部隊一括管理が実施されることになり、その進捗状況が、憲兵司令官から陸軍省副官に報告されている。
そこに示された昭和16(1941)年11月末の時点で、現役における未管理個人保管の私物拳銃は1,309挺(総数の約8%)、同弾薬8,635発(総数の約8%)、在郷軍人の未管理個人保管私物拳銃19,550挺(総数の約88%)、同弾薬547,709発(総数の約83%)と部隊一括管理の進捗状況が報告され、なお一層の一括管理の強化を陸軍全体に促す布達となっている。
この進捗率を逆算すると、現役将校(及び現職にある召集中の予備役将校)の国内における私物拳銃総数は16,362挺、同弾薬607,937発、在郷軍人(退役、予備役、召集解除の予備役将校)の国内における私物拳銃総数22,216挺、同弾薬659,890発、合計内地私物拳銃38,578挺、同弾薬1,263,837発となる。
ただしこの数量は、対米開戦前の国内保有数であるから、現役将校の場合は対米開戦後の異動によってその数量は流動的だといえよう。
一方在郷軍人の場合は、退役と召集解除の予備役将校は召集による現職復帰はなく、予備役のみが召集対象であるので、流動性は低いと考えられる。
以上のことから敗戦時の日本国内にあった将校軍装用私物拳銃の数量を推計するのは、やや無理があるようにも思えるかもしれない。
しかし次章で述べるように、この進捗状況が報告された直後に、将校用拳銃も官給に変更されていることと、国内での私物拳銃調達は輸入拳銃の枯渇で不可能になっているので、在郷軍人の所持していた2万挺程度はほぼ確実に国内に滞留していたと考えてよいだろう。

ルビーやアルカーは、コルト モデル1903をスペインで簡略化コピーしたものだ。これらスペイン製コピー拳銃は、生産地の名称をとってエイバルピストルと総称されていた。これらは廉価ピストルとして、大正末期から昭和初期に大量に日本に輸入されている。
Photo by Terry Yano
将校軍装用私物拳銃の調達不能と官給
支那事変が起こると、拳銃に関しては外国からの輸入頼みの日本では困った状態になる。
当時日本へ拳銃を輸出していた米国、ドイツ、ベルギー、スペインといった国からの輸入の可能性は全く無くなったわけではない。
しかし米国とは、支那事変で緊張関係が高まり、またスペインは、既にその前年の昭和11(1936)年から内戦中であった。昭和12(1937)年春には、その主要な銃器生産地エイバルとゲルニカは、フランコ反乱軍を支援するドイツコンドル軍団とイタリア空軍の爆撃を受け、ほぼ壊滅状態となってしまった。とても日本へ拳銃を輸出できる状態ではない。
一方で支那事変では、昭和12(1937)年中に100万人の兵力が動員されたので、将校も幹部候補生制度で養成され民間にいた予備役将校5万人ほどが動員されている(その後も幹部候補生出身将校は大量に動員された)。
こうした緊迫した国際情勢の変化によって、外国製拳銃の輸入は不可能となり、その一方で支那事変への幹部候補生出身将校の大量動員が行なわれ、将校用拳銃の不足に拍車をかけた。
そうした背景から、昭和16年7月17日付け陸密二一〇三号(甲)(アジ歴レファレンスコードC01007772400)で、『新任将校に被服及軍装品貸与し又は供用せしむることを得る事に関する件』が布達された。
これによって『新たに兵科又は各部の中(少)尉(准尉より任官する者を除く)又は准尉に初任の者には当分の間、已むを得ざる者に限り、下士官兵被服(襦袢袴下、靴下及手套を除く)及軍装品(拳銃、水筒及図嚢等)を貸与し、又は供用せしむるを得ることに定められたるに付、依命通牒す』とされ、被服軍装品は“已むを得ざる者に限り”貸与供用という事になった。
しかし、少中尉や准尉には服装武装の手当が支給されているので、まさか彼らに下士官兵の軍服の貸与供用が必要なわけはなく、実際にこの布達が有効なのは調達が非常に困難になっていた拳銃と双眼鏡という事になるだろう。
さらに対米戦が発動し、さらなる幹部候補生出身の将校の動員によって将校用拳銃官給の方向性が一層強化される。
それを裏付ける史料は、アジ歴レファレンスコードC01005269700の“陸普第七一一号 将校准士官軍装用拳銃に関する件陸軍一般へ通牒”にある。
昭和17年2月5日 首題の件に関し左記の通定められたるに付依命通牒す
左記 一、 将校及准士官の軍装用たる拳銃は将来部隊に於て戦用品として九四式拳銃を以て整備するものとす(以下略)
従ってこれ以降の新任准尉以上の軍人の拳銃は官給ということになる。だとすると、敗戦時には、このように官給であった将校用拳銃は原則として陸軍の所有物であるから、占領軍に武装解除される以前に故郷へ復員したとしても、中隊兵器係に返納しなければならない。
以上のことから、昭和17年以降、将校用私物拳銃は全く増えることはなかった。だとすると、昭和16年11月末に行なわれた調査の段階で存在したものが、日本における将校用私物拳銃の総数であり、敗戦時には国内に少なくとも2万挺、多ければ3万挺の将校軍装用私物拳銃があったわけだ。
そのほとんどは進駐してきた占領軍の武装解除により供出されたものの、そのうちの一部が、かつて将校だった者の手に残り、現在まで市中に残存して遺品拳銃として発見されているのだと、筆者は推測している。

スペインのアストラで製造されたコルト モデル1903をベースとしたコピーモデル。装弾数を増やすためのグリップを長く延長し、7.65mm弾を12発装填できるようにしている。
日本軍将校は、これら民間市場向けに売られていた小型ピストルを自費で購入して装備した。あくまでも私物であり、自力調達であったため、様々な拳銃があった。
しかし、外国製拳銃の輸入が困難になったため、昭和16年に将校用拳銃が官給品に切り替わった。その結果、九四式拳銃などの国産拳銃が主体となっていく。
Text by 杉浦久也
Gun Pro Web 2025年9月号
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