2025/09/13
Gun History Room 16『十四年式の逆襲』始末記

Gun Professionals 2015年10月号に掲載
これまで4回にわたって “十四年式拳銃の作動信頼性について”をレポートしてきた。これは従来、ほとんど注目されなかった部分であり、分析する価値は大いにあったといえるだろう。いろいろ回り道をしたが、今回はその総括を行なうと共に、問題点を確定する。
“十四年式の逆襲”現在までの経緯
本誌2014年2月号においてTurk Takano氏は“TYPE14日本陸軍十四年式拳銃を再検証する”と題したレポートを発表し、“米国にある十四年式拳銃の多くは、フィーディングトラブルで連射ができない”と述べられた。この記事での結論は、“戦後米国で市販され。Turk氏も所有するRCBS社製ハンドローディングダイで製作できる8mm×22 南部実包は薬莢の形状がオリジナルとは微妙に異なっており、これが原因のフィーディングトラブルで連射ができないのではないか?”というものだった。
これに対し、同年3月号にはこの記事を読まれた読者の方からのご投稿が掲載され、そこには、ご自身がグアムに保管している十四年式拳銃(前期型 名古屋工廠製、昭和13年9月刻印)を200発連射したが、まったく問題なく作動するという事実が述べられている。
このご投稿に応えるべく、Turk氏は、よりオリジナルに近い形状の薬莢を持つOld Western Scrounger社製カートリッジを入手されて実射し、“十四年式の逆襲 南部式、陸軍十四年式の再考”と題されたレポートを2014年8月号に執筆された。
“逆襲”と銘打たれたこの記事では、よりオリジナルに近い実包をもってしても十四年式拳銃では2連射以上は不可能で、南部式拳銃では5連射までの改善が見られたという事で、8発の装弾数全てを快調に射撃する事はなく、結局のところ完全な“逆襲”とはならなかった。
裏話になってしまうが、Turk氏がこのレポートを書かれることが決まると、松尾副編集長は、そのタイトルを“十四年式の逆襲”と決めた。その時点でTurk氏の実射テストは実施されておらず、実のところ、どういう結果になるかは判っていなかった。
結局、“逆襲”は不発に終わったが、松尾副編集長は、この1回だけで検証を終わらせるつもりはなかった。だから“十四年式の逆襲”のタイトルは変更しなかった。
この十四年式は、きれいなブルーイングにグルーブの入ったコッキングピース、小型トリガーガード、マガジンキャッチ上部まで施されたグリップのすべり止めなど、典型的ないわゆる十四年式拳銃“前期型”の特徴を有する。
一方、Old Western Scrounger社製カートリッジで5連射できたこの南部式拳銃乙号だが、マッチングの弾倉なら90年以上たって経年劣化した弾倉でもその程度の機能を維持している。
(Photo by Turk Takano)
旧Gun誌では、ひとつのレポートはそれだけで完結してしまい、十分な検証ができなかった場合でも、その後に追加検証を行なってレポートする事はほとんど無かった。ましてや他のレポーターも参加して雑誌横断的に事実関係を徹底的に追及するような試みも無かった。しかし、松尾副編集長は今回、それを実行しようとしたわけだ。ちなみに“十四年式の逆襲”という毛筆で書かれたタイトル文字は、松尾副編集長のお母様が書かれたものだ。
この8月号で“十四年式拳銃嚢(ホルスター)に弾倉収納スペースが無い”というTurk氏の記述に対し、筆者が厚かましくも「いえいえ、奇妙な場所ですが収納スペースはありますよ」とテキサスへメールを送ったところ、Turk氏は律儀にも2014年10月号の“十四年式の逆襲 AGAIN”と名付けられた訂正のレポートを返して下さった。ここでは、松尾副編集長も十四年式拳銃の不具合について追加調査をすることを述べている。
そして、2014年12月号にE. Morohoshi氏が“十四年式の逆襲3 後期型連射性能検証”と題して、4マガジン32発をフィーディングトラブルなしで撃ちきることができたことがレポートされた。この時はそれを証明する動画も公開された。
“十四年式の逆襲”はここまでであったが、この時点で松尾副編集長の手には、もうひとつ、貴重な証言が握られていた。それについては、後で述べよう。
十四年式拳銃フィーディングトラブルの原因を考える
一連の“十四年式の逆襲”シリーズで明らかになった事実は、快調に作動する十四年式拳銃と、フィーディングトラブルで連射できない十四年式がある、ということだ。それは何故なのか。
これを考えるにあたって、本誌海外リポーターの方々で十四年式拳銃を所有されている、Turk氏、Morohoshi氏、そしてToshi氏それぞれがご所有の十四年式拳銃の来歴を検討してみる必要がありそうだ。
まずTurk氏の十四年式拳銃は、昭和14(1939)年1月名古屋工廠検定で中央工業国分寺工場製造の小型トリガーガードの製品。続いてMorohoshi氏とToshi氏の十四年式拳銃は、どちらも名古屋工廠鳥居松製造所の昭和19(1944)年のそれぞれ1月と5月のいわゆるダルマトリガーガードの製品だ。
これを添付の表に当てはめて頂きたい、ご覧いただけばお判りのように、十四年式拳銃は、名古屋工廠千草製造所、小倉工廠、中央工業国分寺工場、名古屋工廠鳥居松製造所の4ヵ所で生産された。
この中で、表に網掛けした、名古屋工廠鳥居松製造所で昭和16(1941)年から作られた十四年式拳銃に関しては、筆者は明確な文書史料は示せないのだが、リミット(限界)ゲージ方式を使った部品互換のある製品だったのではないかと推測している。
陸軍による限界ゲージ法を使った小火器の製造は、昭和8(1933)年から始まった十一年式軽機関銃が最初だが、拳銃、小銃、軽・重機関銃など小火器全般にリミット(限界)ゲージ方式が導入されたのは昭和16(1941)年後半からで、銃種によってはそれ以降だった可能性もある。
特に十四年式拳銃は、昭和16(1941)年に名古屋工廠鳥居松製造所に製造が集約されているが、この時の鳥居松製造所長は岩下賢蔵陸軍技術大佐だ。岩下大佐は、三八式歩兵銃(作図のみ)と九九式小銃の部品互換設計図の作成で、陸軍技術有功章を受章しており名古屋工廠におけるリミット(限界)ゲージ方式導入の第一人者だった。
また陸軍工廠にリミット(限界)ゲージ方式が落とし込まれる以前から、鳥居松製造所で作られていた八九式旋回機銃(航空機用)に工程管理を取り入れ、検品で不合格となった銃の不合格理由を統計的に調査して、徹底的にその原因の究明と排除に取り組む指導を行なっていた人物だ。
そこで名古屋工廠鳥居松製造所で生産された十四年式拳銃には部品互換性があるか、完全な互換性は無いにしても、最低限充分な工程管理が施されていたのは間違いない。
こう考えるとTurk氏の、昭和14(1939)年1月名古屋工廠検定で中央工業国分寺工場製造の十四年式拳銃には部品互換性が無く、同じように部品互換性が無い別の十四年式拳銃の弾倉を装着した場合微妙なフィッティングの違いで、フィーディングトラブルを起こすのではないかと考えられる。
一方Morohoshi氏の十四年式拳銃は、名古屋工廠鳥居松製造所の昭和19(1944)年1月製造なので部品互換があり、マッチングナンバーでは無い弾倉を装着しても弾倉の自由交換が可能なので作動が良好なのではないだろうか。
コッキングピースが楕円3筋のグルーブのものからローレット加工のものに変更された以外は特段省力型になってはいない。
この弾倉の写真ではボルト解放状態と同じなので、下側の実包はかなりな急角度で上を向いているが、ボルト閉鎖状態では最上段の実包は弾倉内に押し込まれ、ボトルネックのケースの形状と相まっておじぎをした状態になる、これが上を向くときケースのリムが弾倉後部内側を叩くという。(Photo by E.Morohoshi)
さらに弾倉がマッチングでは無いとしても、Morohoshi氏が使用されている弾倉は、弾倉本体がブルー仕上げ、弾倉脱落防止用の板ばねが噛み合う切欠きが弾倉前方下部に見えるので、鳥居松製造所で生産された部品互換のある弾倉の可能性が高い事も指摘しておきたい。従ってMorohoshi氏と同じ条件で、さらにマッチングナンバーの弾倉を使用するToshi氏の十四年式拳銃が作動良好なのは当然と言えるだろう。
昭和14(1939)年製で仕上げのブルーも美しいTurk氏の十四年式拳銃だが、こちらには部品互換性が無く、戦争末期の昭和19(1944)年製で、結合子(コッキングピース)など部品が簡略化され仕上げも良くないMorohoshi氏とToshi氏の十四年式拳銃は、部品互換性があって弾倉の自由交換が可能、さらには作動も良好だということが考えられる。
つまり、弾倉の自由交換と言う側面から見れば、一般的な製造時期における外観的価値と性能は逆の現象が起こっていると考えて良いのではないだろうか。
これに加えて、筆者の知る範囲では帝国陸軍の小火器が末期状態に入るのは昭和19(1944)年9月以降で、Morohoshi氏とToshi氏の十四年式拳銃は、どちらも昭和19年のそれぞれ1月と5月製造なので、かろうじて大戦末期の粗製濫造期以前の製品という事が影響しているかもしれない。
フィーディングトラブルは部品互換欠如のみが原因なのか?
しかし本当に部品互換性の有無のみがフィーディングトラブルの原因なのだろうか。たとえば戦前のスペイン製ブラウニングコピー拳銃のカタログには、予備弾倉が用意されていて別売り価格も設定されている。どう考えても住居兼用の町工場で製造されていたスペイン製コピー拳銃に、部品互換性があるとは思えないが、別売りの予備弾倉が設定されているとすれば、部品互換性の無い拳銃でも弾倉の自由交換が可能だという事になる。
これについて筆者は、十四年式拳銃の弾倉が南部式拳銃とほとんど同じ設計で、そのお手本としたと思われるパラベラムピストル(ルガー)から全く進歩が無い事に注目していた。つまり十四年式拳銃は大正14(1925)年に登場しながら弾倉の設計は、25年前の自動拳銃黎明期のままだったという事だ。
このあたりに何か問題が潜んでいそうだが、筆者にはこれを解析する能力はない。そこで、日本のトイガンデザイナーの第一人者タニオ・コバの小林太三氏に、この問題についてお知恵を拝借した。
以下は筆者の要約で、間違いがあればそれは筆者の責任とお断りしておく。
話はルガーパラベラムピストルのご先祖ボルヒャルトピストルまで遡るが、このピストルをルガーパラベラムピストルに改良する際に弾倉に影響を与えた変更点が二つあるという。ひとつは銃身露出式のボルヒャルトピストルはマズルジャンプが大きく、これを抑えるために、垂直だったグリップに大きな角度をつけた事。いまひとつは後部に大きく張り出していた、リコイルスプリング“室”をグリップ内に収納した事だったという。
この改良でグリップ内にリコイルスプリングが移動したので、弾倉はスペースに余裕を失い、かつグリップに合わせた急角度のフィーディングを強いられる事になる。この対策として、30ボルヒャルト弾の7.65mm×25を、30ルガーパラベラム弾では7.65mm×21と4mm短くして、マガジンフォロワーも急な角度のものとした。
さらにこの当時は円コイルのスプリングしか使えず、このスプリングを蛇行させずに垂直に上下させるために弾倉本体に丸いふくらみを付けてガイドとしている。この設計の場合フォロアーは真ん中の円コイルスプリングで支えられるので、工作精度が高くないとフォロワーがシーソーのように前後に振れる状態になる。
この問題に対処するには、下からフォロワーを強く押し上げる必要があり、強力なマガジンスプリングを使用する事になるので弾の装填には補助具を必要とする。これらの問題を対処するために、後年のルガーパラベラムピストルでは弾倉スプリングは角コイルに改良されている。
小林氏によれば、このフォロワーの振れのために十四年式拳銃の弾倉内では、ボルトが閉鎖されると8発装填の場合5発目あたりの実包がおじぎをしてしまうが、ボルトが開いてフォロアーのテンションが解放されると実包が再び上を向き、その際にケース(薬莢)のリムが弾倉後部内側を叩くので、長期間使用された十四年式拳銃の弾倉には、この弾倉後部外側にリムの当たった“膨らみ”が規則的についていると証言された。
以下筆者が考えるに、Turk氏の十四年式拳銃の弾倉で起こっている現象は、これがよりひどくなって、おじぎした実包の先端がマガジン前方の内側に接触してスタックした状態なので、ボルトが解放しても実包が上を向かず、上昇できなくなっていると考えられる。この様になる理由は、経年使用でフォロワーと弾倉の内側との隙間が大きくなり、マガジンスプリングがフォロワーの中心よりやや後方から上へ押し上げる形になるので、フォロワーは前屈してしまい、その結果実包先端が弾倉前方内側に当たってしまうのだ。
この問題を解決するには、十四年式拳銃の弾倉の本体にあるガイドのふくらみをフォロワーの中心に来るよう矯正し、併せて最上段の実包の弾倉からの突き出し量をマガジンリップの角度で調整する必要があるという事になる。元々工廠でも専用工具を使って、部品互換性のない十四年式拳銃本体に同じように部品互換性のない弾倉を1挺ごとに調整して部隊に出荷していたはずだ。この十四年式拳銃の弾倉の調整については、『兵器生産基本教程. 第6巻 (銃器)著者陸軍兵器学校 編著 兵器航空工業新聞出版部 1943年7月』に記されているので拳銃に関する当該ページを掲載しておく。
これを弾倉内側に入れてガイドとし、外側からハンマーでたたき弾倉本体の凹凸を補正する)、この金型の重要な部分は弾倉本体側面の弾倉スプリングをガイドするふくらみの矯正で、おそらく弾倉の不良状態によってそれぞれハンマーのたたき方にコツがあるのだろう。
これを弾倉内側に入れてガイドとし、外側からハンマーでたたきマガジンリップの角度を補正する。この工具が無いと微妙なマガジンリップの角度の補正はペンチなどでは不可能だ。
弾倉底板(マガジンボトム)のピン抜き
“十四年式の逆襲3 後期型連射性能検証”のマガジン写真のキャプションで「マガジンボディとボトム部は2本のピンでしっかり固定されているので、分解作業は面倒な事になりそうだ」とMoroboshi氏が書かれている。しかし中隊兵器係下士官はちゃんと専用のピン抜き工具を持っていたわけだ。
これは陸軍兵器学校の教科書だが、陸軍兵器学校は実施部隊の兵器係の下士官を養成する学校で、卒業生は中隊クラスの兵器係まで配属される。この教科書には、拳銃用工具として十四年式拳銃の調整用工具のみ4点が掲載されていてこの内3点が弾倉補正用の工具だ。ここから判断できるのは十四年式拳銃の弾倉は問題が多く、中隊兵器係の下士官が定期的に十四年式拳銃のマガジンリップや弾倉のガイド溝を調整していたという事になる。
このように、様々な問題を抱えていた十四年式拳銃の弾倉だが、Morohoshi氏が“十四年式の逆襲3 後期型連射性能検証”で紹介されていた、十四年式拳銃用の予備スプリングパックが米国で販売されているように、国産高張力ばねには不安があるので角コイルの弾倉ばねへの変更は行なわず、円コイルばねのまま十四年式拳銃を完成させたと思われる。
これは陸軍技術本部の科長も務めた銅金義一少将(陸軍より東大派遣学生で熱冶金学を専攻)が小銃用や機関銃用の大型ばねは、昭和10(1935)年頃までにどうにか原料のピアノ線から国産化できたと論文に書いているので、小さな拳銃の弾倉ばねがその10年も前に角コイルばねで製造できたとは思えない事も付け加えたい。
そして米国に残された十四年式拳銃の弾倉がアンマッチである理由は、戦地で米国兵に鹵獲された十四年式拳銃を兵士が米国に持ち帰る際、弾倉の国内持ち込みが禁止され、その後日本本土で接収された弾倉が米軍から放出されたものと組み合わせた事から起こったようだ。
詳細は2015年8月6日発売の本誌別冊『三八式歩兵銃と日本陸軍』に載った「十四年式拳銃最後のご奉公」を参照頂きたい。この記事は、海上保安庁で使用された十四年式拳銃について詳しく記述されたものだ。
昨年末に松尾副編集長が入手した貴重な記録とは、この記事のことを指す。本誌読者である松村信彦さんという方から送って頂いた手紙がそれで、別冊『三八式歩兵銃と日本陸軍』に大幅加筆する形で掲載させて頂いた。
それによれば、海上保安庁が1970年代まで使用し続けた十四年式は、概ね5発装填なら作動は良好で隊員には好評であったことが記されている。これらはいずれも大型トリガーガードのもので、小型トリガーガードタイプの使用は確認されていない。この記述は、ほぼ本稿で考察した十四年式拳銃の実態と驚くほど合致している。
全てマッチングナンバーというこの十四年式拳銃の作動は快調で何の問題も今のところないようだ、Moroboshi氏の十四年式拳銃より4ヵ月後の生産だが、まだコッキングピースは省力型にはなっていない、このあたり日本軍の小火器はわからないことだらけだ。(Photo by Toshi)
最後に
以上のような問題点を持っていた十四年式拳銃の、特に部品互換性が無い個体(総生産数の半数強)において、アンマッチの弾倉を使用した結果が米国に残された多くの十四年式拳銃のフィーディングトラブルの原因だと考えられる。そして、この不具合の原因は日本で昭和初年には角コイル型の高張力ばねが作れなかった事にあるが、それは致し方のない事であり、それが歴史の事実だ。
しかしそれでも日本人は、十四年式拳銃1挺を最終検査で12時間もかけて試射調整して送り出し、実施部隊配備後も専用工具を配布して教育を受けた兵器係下士官が定期的に調整を行なって、その兵器としての実力を維持していたのだ。これを、登場時点で部品互換性が完全だったM1911と比較すれば、日米の工業力の差には愕然とするものがあるが、それでも我々の父祖はこうまでして、我が国の独立自存を勝ち取ろうと努力していたのだ。
帝国陸軍が崩壊して70年もたった現在(2015年の時点)、米国に残された不完全な状態の十四年式拳銃の実射事例だけでその実力は計れないと筆者は思う。
もちろん、いかな筆者とて十四年式拳銃がコルトM1911を凌駕しているなどと言う気は毛頭ない。しかし我々日本人が、多少とも十四年式拳銃の往時の“雄姿”を復元してやらねば歴史の陰に埋もれてしまいそうな十四年式拳銃があまりにも不憫だと思うのは筆者だけだろうか。(了)
Text by 杉浦久也
Gun Professionals 2015年10月号に掲載
※当サイトで掲示している情報、文章、及び画像等の著作権は、当社及び権利を持つ情報提供者に帰属します。無断転載・複製などは著作権法違反(複製権、公衆送信権の侵害)に当たり、法令により罰せられることがございます。


