2025/08/12
パテント探究 3 FN ブラウニングハイパワー パテント Part 2
Text by 床井雅美 Masami Tokoi
2012年 Gun Professionals Vol.3(2012年6月号)掲載
2025年8月 Gun Pro Web Editorによる一部加筆修正があります

銃器の歴史に名を遺す一挺に数えられるFNハイパワー、もしくはブラウニング ハイパワーのパテントとして、一般的に知られているのは、1927年2月22日付のUSパテント1,618,510となっている。しかし、それは実際に量産されたハイパワーピストルとは、大きく異なる構造を持つ銃についてのパテントだ。
これとは別に、量産型ハイパワーに通ずるパテントが存在することを前回解説させていただいた。
今回から、最終的にFNハイパワー、あるいはブラウニング ハイパワーになるまでの改良とその変化を、パテントによって辿る旅に出ることにしよう。
まず今回は、その原点ともなったのオリジナルピストルのパテント考証から、このパテント検索の旅をスタートさせる。
アメリカ陸軍の制式ピストル Model of 1911となったコルト製ピストル(コマーシャル名コルト ガバメント)を完成させたジョン・M・ブラウングは、1921年から1923年にかけて、新たなアイディアを盛り込んだ新型軍用ピストルの開発に動き出した。
どうやらこの新型軍用ピストルは、最初からヨーロッパ側、つまりベルギーのFabrique Nationale d'Armde Guerre(ファブリケ ナショナル ダルム ドゥ ゲール:FN)の要請を最大限に取り入れる形で、開発が進められたらしい。
すでにアメリカは、ストッピングパワーを重視し、軍用ピストル弾薬として45ACPを制式に選定しており、これを変更する予定はなかった。その状況下で新型軍用ピストルは、9mm×19弾を使用すべく設計が進められた。これは、第一次世界大戦を通じて、9mm×19弾薬が主流となりつつあったヨーロッパ市場を重視するFN社の意向が強く働いたと考えるのが自然だ。
ジョン・M・ブラウニングは、モデル1911で自信を深めたティルトバレル ロックメカニズムを今回も組み込んだが、その際、バレルのティルト方式をより単純化させ、リンクではなく、傾斜溝を利用する方法を選んだ。
加えて、45ACP弾薬に比べ、直径の小さな9mm×19弾を使用することから、グリップのスペースを最大限利用し、セールスポイントの一つにもなり得る装弾数の多いダブルカアラムマガジンを組み込んでいる。
ジョン・M・ブラウニングは、アメリカでこの新型ピストルのパテントを、1923年6月28日に申請、これは、1927年2月22日にUSパテント#1,518,510として付与された。
このパテント図面をよく見ると、ジョン・M・ブラウニングがこの時に考案したピストルと、後年FNが製品化したハイパワーピストルに大きな差があることに気付く。パテント図面に描かれたピストルの外見が大きく異なっている点がまず目立つが、これは重要なことでない。当初のパテント段階の試作品と、量産化された製品の形が異なる事はよくあることだ。
最初の考案と製品化されたハイパワーの最大の差は、その撃発方式にある。
製品化されたハイパワーの撃発方式は、読者の皆さんよくご存じの通り、ハンマー露出式だ。これに対し、USパテント#1,518,510は、まったく異なるストライカー撃発メカニズムが組み込まれていた。
おそらくこのストライカー方式の撃発メカニズムを組み込むことに関しても、9mm×19弾の使用と同様に、FNからブラウニングに対して、要請があったのではないか、とリポーターは見ている。
というのも、FNがブラウニングと契約して以来、彼のパテントでFNが生産し、成功を収めてきたセミオートマチックピストルが、すべてストライカー方式の撃発メカニズムだったからだ。人も、会社も、成功した前例から抜け出すことは困難なものだ。
FNも過去の成功例から新型軍用セミオートマチックピストルをストライカー方式で設計するようブラウニングに依頼した可能性が高い。
ジョン・M・ブラウニングの開発した新型ピストルは、アメリカでブラウニングの名前でパテントが申請され、本人にパテントが付与されている。それに対して、同じ新型ピストルのヨーロッパにおけるFNの名前で申請がなされ、会社あてにパテントが付与された。
主要なパテントとしては、1924年4月7日付けでフランスパテント#569,054、1925年10月26日付けでオーストリアパテント#101,410、1926年に数次に分けてドイツパテント#424,528、#425,697、#430,037、第430,991がいずれもFNに付与されている。
ドイツパテントが数次に分かれているのは、ピストル総体でパテント申請がなされず、ティルトバレルの構造、撃発メカニズムの構造、トリガートランスファー・バーの構造などにそれぞれ分けてパテントが申請されたからだった。
FNの名でパテントが申請されたことから見ても、ハイパワーの開発に、きわめて早い時期からFNが深く関与していたことが窺われる。
ジョン・M・ブラウニングと協力して、FN側でこのピストルの開発を進めたのは、同社の開発技術者デュードネ・サイーブ(1888-1970)だった。
1926年、FNを訪問していたブラウニングは、社内に設けられていた彼のオフィスの入り口で、心筋梗塞に突然襲われ、帰らぬ人となった。
その後、このピストルの開発は、デュードネ・サイーブに託され、その開発の方向性が大きく変わっていくことになる。





Part 3に続く
パテント探求2 FNブラウニングハイパワーパテント Part 1
Text by 床井雅美 Masami Tokoi
2012年 Gun Professionals Vol.3(2012年6月号)掲載
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