2025/07/10
【NEW】CZ75 SP-01 Custom カスタムパーツ満載のSP-01 Part 1
Part 1
データ量が多すぎて1回の記事でアップできませんでした。そのためPart 1とPart 2に分割しています。
Text &Photos by Yasunari Akita
かつて最高のコンバットピストルと言われたCZ75はその後、時代の変化に対応しながら大きく発展し、現在のShadow 2に至っている。数多くのバリエーションが存在するCZ75シリーズの中で最もバランスの取れたモデルがSP-01だ。これをベースとしたカスタムモデルを自分で組み上げてみた。
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1975年に誕生したCZ75は、DA/SAトリガーを備えたコンバットオートとして、80年代に欧米で高く評価されたモデルだ。その後に数多くのバリエーションが生まれ、90年代以降は、競技用として設計・改良されたモデルがたくさんの人気を集めてきた。
CZ75はカスタムガンのベースとしても優れた構造を持っていることから、多様なカスタムパーツが登場すると共に、独自のカスタマイズをオファーするメーカーも現れている。そうした進化の系譜の中で、CZ75の基本サイズを踏襲しつつフルダストカバーとアクセサリーレイルを装備し、フロントヘビーに改良したSP-01シリーズが2005年に誕生した。
そして現在、上位機種であるShadow2や競技専用に特化したTS(タクティカルスポート)シリーズが市場で存在感を示している。その一方で、ベストバランスモデルであるSP-01の人気も根強く、その後も特殊仕様や記念モデルなどのバリエーションが誕生しているのが現状だ。
カリフォルニア市場からの撤退
“Unsafe Handgun Act”(直訳すれば「安全でないハンドガンの禁止法」)に基づき、2001年1月1日以降、カリフォルニア州ではガンショップが販売・登録するハンドガンに対し、落下テストの実施が義務付けられている。このテストをクリアし、州司法省が公表する“Roster of Handguns Certified for Sale”に掲載されたモデルのみがショップでの販売許可を得られる仕組みだ(一部例外を除く)。申請にかかる費用は高額であるため、銃器メーカーは売れ筋製品に絞って販売許可の申請・更新を行ない、毎年更新料を司法省に支払うことで、何とか販売を継続している。これにより、販売許可を得ていないモデル、または更新を断念して許可を失ったモデルは、オフロスターモデル(off roster model)と呼ばれているのが現状だ。
昨年の秋、一部関係者からのリーク情報を通じてCZ75シリーズがオフロスターになるとの噂が広まり始めた。長年にわたりCZ-USAは州内での販売許可を維持するために毎年更新料を支払い続けてきたが、このたびCZ75シリーズの大部分について、その販売継続を断念するということであった。
ただCZ-USAは、すでに製造中止となって久しいCZ40Bや2075 RAMIシリーズといったモデルであっても、中古市場での流通を促進するために毎年販売許可の更新を継続していた。筆者もそれを踏まえ、すぐに販売許可を断念することはないだろうと考えていた。
ところが今年に入り販売許可は更新されず、噂は現実になってしまったのだ。これにより、これらのモデルは州内のガンショップで自由に売買することができなくなっている。こうなってしまった背景には、コルトとの合併を経てCZ-USAの社内体制が大きく変化し、ビジネスに対する姿勢が一変してしまったことがあるといわれている。
販売できなくなったモデルには、CZハンドガンのアイコンでありスタンダードモデルのCZ75Bを始め、デコッカー仕様のCZ75BD、CZ75コンパクト、CZ75D PCR、P-01など人気のあったものが含まれているのだ。

中でもCZファンが驚き、落胆したのは、CZ75シリーズの中でも屈指の人気を誇っていたフルダストカバー仕様のSP-01が、その対象に含まれていたことだ。
信頼性と拡張性の高さから、競技用途やタクティカルユース、セルフディフェンス用としてもSP-01は大きな支持を集めてきた。特に競技シューターにとっては、規制が厳しく購入できるハンドガンの種類が圧倒的に少ないカリフォルニア州で、USPSAやIDPAに向いたハンドガンとして、SP-01は貴重な存在だったのだ。
ストライカー方式の代表格であるG34(グロック社もすでにG34の製造中止を発表している)と並び、ハンマー方式メタルフレームの代表として高い精度と安定性を誇ったSP-01はディーラーから購入可能な中の2大巨頭と呼ぶにふさわしい存在だった。その両モデルが同時期に市場から姿を消すことになったのだから、カリフォルニア在住の競技シューターたちは長年頼りにしてきた名銃を一度に失ってしまったことになる。
今後も同州内での個人売買であれば、引き続き手に入れることはできるが、新規にディーラーから購入できないとなると当然のことながら希少性が上がり、中古価格市場も高騰してしまう。事実、これまで$600くらいで売買されてきた中古のSP-01は、$1,000から$1,200まで取引価格が高騰し始めている状況だ。最近では“もう1挺買っておけばよかった”などの声もよく聞かれる。
チェコ共和国に拠点を置くCZ本社、CZUB(Česká Zbrojovka)によれば、今回の件は正確には“製造中止”ではなく、設計の更新により、カリフォルニア州コンプライアントモデルの製造維持が困難であることが理由であるという。
今年のSHOT SHOWにおいて、筆者がカリフォルニア州担当のマーケティングスタッフと話した際にも、ファイアリングピンブロック周辺の設計変更が決定され、それにより従来設計を維持したカリフォルニアコンプライアンスモデルだけを別途特別に大量生産することが難しくなった、との説明を受けた。
カリフォルニア州の規定では販売許可を得た時点で提出されたサンプルから大きく仕様を変更することは認められておらず、たとえ現行の製品であっても設計変更が加えられた場合はオフロスターモデルとして扱われてしまう。しかし、メーカーがあえて従来通りの仕様で生産を継続し、販売許可の更新を続けていれば、州内での販売を維持することは可能だ。実際にCZ97Bにマイナーチェンジが加えられた後も、カリフォルニア市場のために旧仕様を生産し続け、販売許可を維持していた。もっとも、その場合の変更点はごく僅かで、フロントサイトとグリップパネル程度にとどまり、生産ラインに大きな負担をかけずに対応できたからこそ可能だった側面もある。
だからといって、CZにとって販売継続の道が完全に閉ざされたわけではない。今もなお、もう1つの選択肢が残されている。それは、現行法においてカリフォルニア州が義務付けているマガジンセイフティおよびローデッドチェンバーインジケーターを新規に搭載した新たなコンプライアントモデルを設計し、改めて販売許可を申請するという道だ。
同州のCZ担当者も考えは同じであり、人気モデルであるShadow2をはじめとした最新の製品について、数年前からCZUBに対してコンプライアントモデル開発を提案し続けているという。しかし現時点で目立った動きは見られていない。特にマガジンセイフティのような機構の導入は設計上簡単ではなく、それが大きなハードルになっているからだ。
こうした事態を想定していたわけではなかったが、このたび販売許可を失ったモデルの1つであるSP-01を筆者は数年前に入手していた。これに各種カスタムパーツを装着し、スライドにはオプティックカットも追加してきた。まだ他にも試したいカスタムパーツがあるので、完成への明確なゴールを定めている訳ではないが、独自仕様のカスタムモデルとして、じっくりと製作を進めていたのだ。
今回は筆者が手がけたカスタムSP-01と、それに用いたカスタムパーツについて詳しく紹介していきたい。
SP-01登場までの長い道程
CZ75の開発

Image Courtesy of Česká zbrojovka a.s.
チェコスロバキアにおいて銃器設計において秀でた才能を発揮した兄弟、ヨゼフ・コウツキーおよびフランティシェク・コウツキー(Josef Koucký, František Koucký)の手によって生み出されたCZ75は、今年誕生から半世紀を迎えた。現在のところ50周年記念モデルはCZUBから登場していないが、今年後半くらいにはアナウンスされる可能性が高いだろう。
その後のCZ75の開発では弟のフランティシェクが主導的役割を果たすこととなったが、同兄弟はチェコスロバキア有数の工業都市ブルノに本拠を構える大手メーカー、ズブロヨフカ・ブルノ社(Zbrojovka Brno)でキャリアを重ね、銃器だけにとどまらず自動車や工作機械など、多岐にわたる製品設計に従事していた。1930年代、ヨゼフは同社の主任設計者に昇格、1950年代には兄弟揃ってプラハの開発部門へ移籍した。以降、サブマシンガンや自動小銃の開発において頭角を現した。
第二次世界大戦後、民生用銃器の開発に注力し、ZMKライフル、ZKP524ピストル、ZKR511ターゲットリボルバーといった製品を次々と手がけていた。1960年代後半、一度は引退を決意したものの、そこから銃器史における重要な転機が訪れることとなる。 この出来事が、後にCZ75誕生へと至る大きな道を切り開くこととなった。
1960年代後半、ブルノ工場のテクニカルマネージャー、ミロ・プロチェクは西側市場での販売を想定した新型ハンドガンの開発を模索し始めた。そして、リタイア生活を過ごしていたコウツキー兄弟はチェスカー・ズブロヨフカ・ウヘルスキー・ブロッド(Česká zbrojovka Uhersky Brod: CZUB)に招かれ、9mm×19の新型ピストルの開発に着手する事となる。
1969年に国営企業のPresne Strojirenstvi Uhersky Brodとの契約の下、西側市場に向けた9mmピストルの開発プロジェクトが始動した。設計拠点はホドフの農業機械研究所で、必要に応じてCZUBの設備も併用された。
開発計画の当初、フランティシェクは8発装填のシングルスタックマガジンを使用するポケットに収まる角の取れた小型軽量ピストルのデザインを構想した。しかし、それでは欧米市場のトレンドに合っていないと判断され、貿易部門から次世代のトレンドである装弾数の増加、つまりはハイキャパシティマガジンの導入を要望されたといわれている。こうなると小型モデルという枠には収まり切らないため、本格的なフルサイズモデル開発に切り替わった。
不思議に思うのは、この1960年代末期において,9mm口径のダブルスタックピストルが西側市場のトレンドであったわけではないことだ。この時点で西側に存在したダブルスタックマガジンを有するモデルはFNハイパワーとMAB PA-15だけだ。S&Wモデル59の登場は1971年であり、その試作モデルの存在をチェコの銃器関係者が知っていたとは考えにくい。また西側のガンメーカーの多くは、この時点でダブルスタックマガジンが次のトレンドという感覚を持っていなかったと思う。
にもかかわらず、このプロジェクトはその方向に向かって進んでいった。ということは、CZ75の開発を主導した人物はかなりの嗅覚の持ち主だったということになる。
いずれにしても、開発の方向性は、ファイアパワーが一気に倍となる16発装填可能なダブルスタックマガジン採用へと変わった。フランティシェクは装填角度の最適化などを研究し、その試作を進め、1969年秋には部品の製造が開始された。
1970年春、試作第1号機(のちに“UBK-70”と命名)が完成している。ティルトバレル式ショートリコイル、リングハンマー、インターナルレイル、SA(シングルアクション)トリガー、ならびにコック状態でのみ機能するセイフティを備え、現在のCZ75へと通じるデザインの輪郭が明確に表れている。
実射試験においてはエジェクションポートの配置変更など細部の改良が進められた。試作第2号では上層部の指示により、DA(ダブルアクション)機構が追加され、DA/SAトリガーのモデルへとコマを進めている。
フランティシェクは、フレーム内部で両側面を可働するトリガーバーにより、ハンマーへの力の伝達を均等化する案を思いつく。これによりトリガープルは作動時の圧力の変化をできるだけ押さえつつ、プルの軽量化を果たせた。
この試作モデルは1971年5月に完成。1972年春、試作第2号が組み上げられた。命中精度が芳しくなかった事からライフリングピッチの変更を行ない、信頼性向上のためにエジェクターおよびエキストラクターにも改良が施され、フルレングスのリコイルスプリングガイドも導入された。
マガジンもダブルポジションフィードでは安定したチェンバーへのフィーディングが難しかった事から、15発と装弾数は減ったものの、より安定した装填が可能なシングルポジションフィード方式へと変更された。
1973年、本計画はいよいよ最終段階に入る。バレル固定方式が完成型と同じくスライドキャッチの軸を用いるものに変更され、グリップ背面もカバーは廃止され、構造がより合理的に洗練されていった。
こうして1975年初頭にCZ75は事実上完成し、製造番号00001から00005までの5挺がサンプルとして組み上げられた。ジュラルミン製グリップを備えた新型ハンドガンにはMODEL 75 CAL.9.PARAのモデル名が公式に与えられた。
しかし本格的な量産開始まで、その後も研究開発は継続していく。命中精度が期待値に届いていなかったが、スライドとバレルの固定方法を見直すことでこれは解決をみた。1975年6月、5,000発の試射の結果では25mで6発を12cm以内に集弾可能な精度を発揮することが確認され、これをもって量産が正式に開始される事となった。

スチールフレームを採用していること、そしてダブルアクションでありながらデコッキングレバーを持たず、1911のようにフレーム側に設けられたマニュアルセイフティレバーを装備するなど、完成されたCZ75の設計には、西側のハンドガンにおける当時の主流から外れた要素が多く含まれていた。これらは軍や警察での採用において障壁となる一因でもあったが、一方で1911を信奉する層からは、むしろ高い評価を受けるポイントともなった。
また、当時のハイキャパシティマガジンを内蔵する他のモデルと比較しても、CZ75のグリップは人間工学的に優れ、非常に握りやすい形状であった。さらに、SIG P210に見られるような、スライドとフレームのレイルが通常とは逆構造となる“スライドインフレーム方式”を採用しており、これが命中精度の安定性にも寄与していた。
CZ75の開発は、冷戦下にあって西側市場進出を視野に入れたチェコスロバキアによる意欲的な挑戦であったといえる。
チェコスロバキアの国営企業、チェスカーズブロヨフカウヘルスキーブロドは、この新型の量産体制を整えたが、実際の量産計画は決して平坦な道のりではなかった。

CZ75は西側市場を強く意識した設計思想のもと開発されたと言われつつも、欧米の新型モデルと大きく異なる点がいくつかあり、その一つが切削加工による堅牢なスチールフレームを備えていた部分だ。耐久性の高さでは西側が進めていたアルミ合金フレームを上回り、また肉厚を最小に抑えることも可能であったため、グリップは太いマガジンを導入しつつも細く握りやすいデザインを取り入れることができた。このことが、のちのちCZ75の人気を支える大きな要素の1つとなっている。
但し、当時すでに西側諸国は軽量化と生産性を重視し、アルミ合金フレームは重量軽減と共に、加工がしやすく生産性も高いという点に注目していた。その意味では、CZ75の設計思想は前時代的で、生産性の面ではコストアップにつながるという欠点もあったわけだ。
当時のチェコスロバキアは社会主義体制下、特有の製造インフラの制約に直面しており、生産ラインや技術力には明らかな限界があった。そのため、旧来の切削加工技術に依存せざるを得ないという実情があり、この点について懸念の声が上がっていた。
1975年9月、本格量産の前に実験的に70個ほどのインベストメントキャスティングによる試験生産も試みたものの、技術が不十分で耐久性の基準を満たすことができず、伝統的な切削加工方式への回帰を余儀なくされた。
その結果、予想通り生産数は伸び悩み、初年度の生産目標は500挺とされていたものの、実際に完成したのはわずか54挺に留まり、目標との間には大きなギャップが生じた。翌年も1,000挺という目標に対し、完成数は18挺に過ぎず、生産能力の限界がより深刻な形で露呈することとなった。それでもなお、1976年3月にはチェコ国内の銃器・弾薬認証機関から正式な製品化許可を取得し、量産への足がかりを確保するに至った。