2025/04/09
CZ 75 First Model
CZ 75
First Model
Text by Terry Yano
Photos by Yasunari Akita
Special thanks to: Richard Zapletal (Česká Zbrojovka, a, s.), Ichiro Nagata and Kenichi Sonoda
Gun Professionals Vol.1 (2012年4月号)に掲載
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“ショート・レイル”とも呼ばれるCZ 75の最初期型
20世紀に開発されたセミオートマチックピストルのTop 10を選ぶとしたら、CZ 75は確実にそこに入るでしょう。このレポートは、そんなCZ 75についてCZUBの協力の下、その誕生の経緯を詳しく解説したものです。ベースとしたのは、CZUBが2005年に発行した“CZ 75 The Birth of a Legend”で、これはCZ 75の誕生を解説した公式史料に相当します。そのため、これ以前に我が国で書かれたCZ 75レポートとは次元が異なる濃い内容になりました。CZ 75が誕生して半世紀が経過しようとする今、レジェンドであるこの銃の歴史をどうぞお楽しみください。
2025年4月 GPW Editor
はじめに
独特のスタイルを持ったCZ 75の最初期型は、入手困難なコレクターズアイテムだが、コミックやアニメに登場したこともあって、日本での知名度は高い。
今回のリポートでは、本文でCZ75の開発に関するエピソードを本文で紹介しながら、写真とキャプションでCZ75のファーストモデル(別名ショートレイル)の細部をチェックするというスタイルをとってみた。
このリポート作成では多くの方にご協力をいただいたが、中でも撮影のために貴重な銃器を貸してくださったイチロー・ナガタ氏と、メールや電話で対応してくださったCZ UB(セーゼット ウーベー)コミュニケーションマネージャーのリハルド・ザプレタル(Richard Zapletal)氏に、この場をお借りして深く感謝を申し上げたい。
なお、リポート中のチェコ語にはカタカナを併記したが、私の聞き取り能力とカタカナ表記の限界を考慮して、参考程度でしかないことをご了承願う。

新型ハンドガンの開発背景
現在CZ UBの商標で知られるチェスカ・ズベロヨフカ(Česká zbrojozka a.s.)は、ストラコニチェ(Strakonice)にあるCZ本社(当時)の一部門として1936年にチェコスロバキア東部のウヘルスキ・ブロッド(Uherský Brod)という町に設立された。工場の名称は何度も変更されることになるが、1965~1982年の期間はプシェスネ・ストロイェレンスティ・ナホドニ・ポドニック・ウヘルスキ・ブロッド(Přesné strojírenství, národni podnik, Uherský Brod、英訳すればPrecision engineering, national enterprise, Uherský Brod)であったので、このリポートでは便宜上「UB精密技術国営工場」と表記している。
第二次大戦前から優れた銃器を生み出してきたチェコスロバキアにとって、各種銃器の輸出は外貨獲得の重要な手段となっていたが、1948年に共産主義体制が確立して以来、銃器メーカーは海外の取引先とのビジネスを自由に行なうことができなくなった。銃器の輸出は対外貿易局(Ministry of Foreign Trade)の管轄となり、各輸出公社が担当したのだ。メーカーとの直接商談ができなくなった海外顧客は、取引への興味を失い始めた。
海外顧客の要望や他社製品の動向に対するUB精密技術国営工場の目が開かれた背景には、輸出形態の変化によって、製造される銃器のクオリティに悪影響が及び始めていたという由々しき事態が存在する。チェコスロバキアが銃器市場で重要なポジションを維持したいと願うのであれば、工場の大幅な刷新と既存製品のアップグレードが必要であると認識したのだ。
UB精密技術国営工場では、1968年の春から変革が始まった。「9mmパラベラム口径のディフェンシブ・ピストル」というアイデアが考案されたのもこの頃で、販売予測等のリサーチが行われた後、1969年に開発の許可が出されている。
CZストラコニチェの支部として設立されたUB精密技術国営工場には、それまで開発部門が存在しなかった。研究開発部門が設置されたのは1970年頃であったが、パーツ製造などを専門業者や個人にまで発注することも珍しくなかったという。新型ハンドガンの研究開発のために起用されたのは、1967年にリタイアしたばかりの銃器設計家フランティシェク・コーツキィ(František Koucký、7/20/1907-1/11/1994)氏であった。
フランティシェク・コーツキィ氏は、兄のヨゼフ・コーツキィ(Josef Koucký、3/11/1904-7/25/1989)氏と共に、1930年代から活躍した銃器デザイナーだ。二人が協力して設計を行うことも珍しくなかったので、CZ 75も二人の合作と推察されることも多い。ヨゼフ・コーツキィ氏が部分的に関与した可能性を完全に否定することはできないが、新型ハンドガンに採用された新しい機構に関するオーサーシップ・サーティフィケイト(後述)は、すべてフランティシェク・コーツキィ氏に与えられている。
UB精密技術国営工場の経営陣からは、テクニカル・マネージャーのミロシュ・プロセック(Miloš Plocek)氏が新型ハンドガンの開発をサポートし、開発室の優れたツール・メイカーであったスタニスラブ・シィジック(Stanislav Střižík)氏を担当ガンスミスとして参加させるなど、多くの援助を行なった。



新型ハンドガンの開発
UB精密技術国営工場と契約したフランティシェク・コーツキィ氏は、1969年に新型9×19mmハンドガンの研究開発に着手する。研究はホドフの農業機械研究所Research Institute for Agricultural Machinery(RIAM)で行なわれたが、開発の重要な段階では、コーツキィ氏はUB精密技術国営工場に赴いた。
プロジェクトの当初のスペックは“9mmパラベラム口径のディフェンシブピストルを設計せよ”という非常に簡素なものだ。次の引用は、1972年のフランティシェク・コーツキィ氏のコメントを意訳したものである。 「9mmパラベラムという口径以外の技術的なスペックが示されていなかったので、最初は軽くて小さな、ポケットでも携行しやすいように各エッジを丸めたスムースなハンドガンをデザインした。弾倉を8連のシングルカアラムとしたのは、そのためだ」
コンシールドキャリーを意識したスリムなハンドガンを目指したコーツキィ氏のアイデアは、基本設計図の段階にすら進まなかった。対外貿易局によって、ハイキャパシティマガジンの採用という追加指示があったからである。この指示が誰から発せられたものか、またどのような経緯があったのかなど詳細は明らかではないが、新型ハンドガン開発における画期的事件であったことはいうまでもない。ハイキャパシティとするにはマガジンをダブルカアラムとするほかなく、新型ハンドガンの設計コンセプトは根本的に覆された。
ハイキャパシティマガジン採用の決定後、コーツキィ氏はダブルポジションフィードのマガジンをデザインしている。マガジン全長が同じであれば、ダブルポジションフィードの方がシングルポジションフィードより装弾数において有利であるほか、装填が迅速に行なえるという利点もあるからだ。


