2025/06/24
日本警察のM1911A1
Gun Professionals 2014年9月号に掲載
武装解除
日本政府は、1945(昭和20)年8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。9月2日に降伏文書に正式に調印、これにより、日本は連合国の占領下に入った。日本占領の目的はポツダム宣言の執行であり、それは日本を非軍事化することが含まれる。
そこで、まず帝国陸海軍を解体、武装解除したのだが、占領当局は同時に民間レベルの武装解除も求めた。これは旧軍将兵の抗戦派などが占領軍に対しておこなうかもしれない抵抗を排除するためだ。
また復員兵などが国内に持ち込んだ流出武器の回収をも目的としている。日本の非武装化は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP)の参謀第4部(G4)が主導したが、民間武装解除は、参謀第3部(G3)が担当。その後、参謀第2部民間諜報局(CIS)に移り、日本側は、内務省警保局が主導した。
一般的にこの時、日本はあらゆる武器、銃器を取り上げられたと解釈される場合もあるが、それはあくまでも武器であり、猟銃は武器ではないため対象外となっている。また警察官の武装は治安維持のため例外として認められていた。しかし、進駐軍内部でもその事実が不徹底であったことから、持っていた武器を剥奪された警察官も多い。
日本軍の武装解除は1946(昭和21)年3月にほぼ完了し、その時収集された小銃は165万挺、拳銃は5万5千挺であったと記録されている。一方、民間からの武器回収は同時点で、拳銃 11,916挺、小銃 395,891挺、機関銃 22,994挺と正確な数字が残されている。
これに先立ち、1946(昭和21)年1月16日、GHQは“日本における警察官の武装に関する件”の覚書を発行した。これにより警察官の拳銃携帯がGHQにより正式に認められた。それまでの警察官の武装は拳銃よりもサーベルなどの剣が主流であったが、同年3月には警察官の帯剣が禁止され、武装は剣ではなく拳銃でおこなうという指針が示された。
戦前の拳銃装備
ここで戦前戦中の日本警察の拳銃装備について見てみよう。
1872(明治5)年8月28日,司法省に警保寮が設置され、全国の警察が統一された。江戸幕府に代わって維新政府が誕生してから5年目の事である。これ以前の日本は、まだ藩という小国家に分裂したままであったが、大久保利通が廃藩置県を断行して、やっと全国が統一された。警察組織の統一もそれに続いて行われた事になる。この時点で警察拳銃は制式には装備されていない。
1874(明治7)年1月15日、東京警視庁が創設される。しかし1877(明治10)年1月11日、警視庁は廃止され、内務省に統合された。まだ組織形成においても混乱期であったと推測される。同年、西南の役が勃発した。いわゆる薩摩軍と官軍の間で争われた内戦である。これには9,500名の警察官がスナイドル銃などを装備して出征したが、この武装は特殊ケースと考えられる。その後の1881(明治14)年に警視庁は再度設置された。その2年後の1883(明治16)年6月15日,巡査全員に帯剣が義務付けられ、この状態が長く続いた。
1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生、この時,一部で暴動が起こるという事態に発展した。これに対して警察官が装備するサーベルでは十分な治安維持活動ができないといった問題が発生し、警視庁は翌年2月18日拳銃を調達、各署に配布した。但し、その数はたった400挺である。調達された拳銃はブラウニングM1910、コルトM1903(32オート)とM1908ベストポケット(.25ACP)であった。警視庁は国産拳銃ではなく、外国製拳銃を採用したのだ。但し、その後に陸軍から二十六年式拳銃が少数、移管され配備された模様だ。1928(昭和3)年には、内務省直轄の特高警察が全国の警察に組織され、ブラウニングM1910を装備している。
いずれにしても我が国の警察装備は外国製のセミオートマチックで始まった。国産を選択しなかったのは大きさと価格の問題があったのだと推測する。警視庁はその性能差も冷静に分析していたのかもしれない。南部麒次郎が作り上げた国産拳銃より、ジョン・M・ブラウニングが開発した傑作拳銃の方が遥かに使いやすい。
その他,鉄砲隊といわれる重武装グループも作られたようだが、実際には出動するような事態には至らなかった。いずれにしても警察が戦前に装備した拳銃の数はごくわずかだ。当時の日本は、一般市民でも許可制で拳銃を購入できたにも関わらず、警察が銃で武装する必要はほとんどなかったということだ。