2025年7月号

2025/05/27

【NEW】無可動実銃に見る20世紀の小火器 197 三十年式歩兵銃

 

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日本軍の小火器として、三十年式歩兵銃の影は薄い。日露戦争での勝利に大きく貢献したにもかかわらずだ。しかし、三十年式は19世紀末の日本で開発製造された優秀な小銃であり、のちの三八式の原型でもある。三十年式はもっと注目されるべき存在ではないだろうか。

 

忘れられた存在

 三十年式歩兵銃、及び騎銃は、明治31(1898)年に制式が制定され、明治40(1907)年頃まで生産された、日本の軍用小銃だ。その総生産数は約60万挺に及び、日露戦争(1904-1905)における帝国陸軍の主力軍用銃として活用された。
三十年式はその優れた性能により、中国大陸東北部の遼東半島や奉天で繰り広げられた陸戦で日本軍の勝利に貢献したが、今日においてほとんどその存在が顧みられることはない。
 そうなった大きな理由として、三十年式の現存数がかなり少ないことが挙げられる。明治39(1906)年に、後継小銃として三八式の制式が制定された結果、三十年式は製造を終了、各部隊で新小銃に更新された後は余剰兵器として保管庫にしまわれた。
 しかしその後に勃発した第一次大戦で、そのほとんどはロシアなどをはじめとする戦争当事国に売却されてしまい、国内にほとんど残らなかった。その数は約40万挺に及ぶといわれているが、その多くはこの戦争で損耗してしまったか、その後に廃棄されたと思われる。
 これにより、第二次大戦で活用されることはなく、戦場で鹵獲されることも戦後に接収されることも無かったため、アメリカには三十年式があまり残存していない。世界的に見ても三十年式の現存数はかなり少ないと思われる。
 そのため、旧Gun誌、およびGun Pro誌で、三十年式の実射レポートは一度も掲載されたことがなく、目立たない存在になってしまった。本来であれば、三八式の原型となった銃として、少なくとも日本人からはもっと注目されてしかるべき銃であろう。

 

▲三十年式歩兵銃上面。ボルト最後端にある爪のような部品が副鉄で、この無可動実銃は撃発後の状態で固定されている。通常はこれを操作する必要はないが、不発発生時にはこの爪のような部分を後方に引くことでコッキング状態にすることができる。これはその後の三八式歩兵銃には無い機能だ。またこの爪を右に回転させると、内部のストライカーは一応ロックされる。


三十年式の採用の背景

 帝国陸軍が明治22(1889)年に制式を制定した村田連発銃(二十二年式)は、この時代の急速な技術革新により、短期間で旧式化してしまった。そのため新たな軍用小銃を必要としたことが、三十年式が開発された理由だ。
 ちょうどこの明治22年という時代は、銃身下部に弾薬を1発ずつ装填するクロパチェック式チューブマガジン(Kropatschek tubular magazine)から、クリップ等を利用して一気に複数の弾薬を装填できるボックス型マガジンへの転換期であったことと、従来の黒色火薬から、新しい無煙火薬への移行に伴う弾薬の大幅な変更がおこなわれた時期にあった。そのような時代に、遅れをとらないよう急いで開発された軍用銃が村田連発銃だ。
 新たに採用された8mm無煙火薬弾と、比較的短い村田連発銃の銃身長とが上手く適合しなかったことで、命中精度にも問題があった。にもかかわらず、村田連発銃は不完全な性能の銃のまま、量産配備となってしまう。
 精度の問題は改良することは可能だろうが、クロパチェック式チューブマガジンからボックスマガジンへ改造することはできない。この問題解決には、全く新しい銃に切り替えることしか、手が無かった。
 明治29(1896)年、村田連発銃に代わる新たな小銃の開発をおこなうことが決まったが、それまで日本の軍用小銃開発をおこなってきた村田経芳大佐は、すでに銃器開発から退いていた。村田連発銃が制式に制定された翌明治23(1890)年に貴族院議員となり、少将へ進級すると同時に予備役に編入されていたのだ。
そのため、東京砲兵工廠の提理(統括責任者)であった有坂成章大佐が、新小銃開発の責務を負うことになる。

 

有坂成章

 三十年式を開発したとされる有坂成章(ありさか なりあきら)は、日本の銃器開発者として、その名を残している。欧米では三十年式以降、第二次大戦終結時までの日本の軍用ボルトアクションライフルをすべてArisaka Rifleと呼んでおり、それらは三十年式から派生したバリエーションと位置付けている。
 有坂成章は三十年式の開発者であるが、それは有坂成章の輝かしい経歴のごく一部でしかない。ここではその歩んできた道をできるだけ短くまとめてみたい。
  有坂成章は、1852年4月5日(嘉永5年2月18日)岩国藩火薬方藩士の次男として生まれ、11歳で同藩の砲術家有坂長良の養嗣子となっている。15歳の時、岩国藩日新隊士として鳥羽伏見の戦いに従軍した。これが有坂成章にとって生涯唯一の実戦となった。
  明治2(1869)年、東京の開成学校に入学、ここで洋学を学んでいる。この開成学校は現在の東大だ。しかし、その翌年には大阪兵学寮(のちの陸軍士官学校)に入り、語学と数学、物理学、化学、築城学などを学んだ。優秀な成績を収め、明治6(1873)年には語学専業生(フランス語通訳)となり、その後に大阪兵学寮の教官にもなっている。
 そして明治7(1874)年、造兵司(のちの東京砲兵工廠)に着任した。この当時、造兵司にはジョルジュ・ルボン大尉をはじめとするフランス軍事顧問団がおり、多くの最新技術が日本にもたらされていた。有坂成章は通訳としてその技術移転の最前線に立っていたわけだ。
 明治13(1880)年、東京湾口の観音崎砲台建築が開始されると、ここでも有坂成章は通訳を務めるが、同時に千葉県富津沖の第一海堡の設計をおこない、これが採用された。このことから明治15(1882)年に陸軍砲兵大尉となっている。
 これ以降、有坂成章は東京湾要塞の海防に注力、海堡の建築と大砲の取り付け等をおこない、明治17(1884)年からは、砲兵会議に参加するようになった。砲兵会議とは、銃器、弾薬、車輌、装備、馬具、海岸砲台、および要塞等に関して、その採用の可否や技術的検討をおこなうものだ。明治20(1887)年には少佐に昇進し、明治22(1889)年に砲兵第一方面本署長となった。翌明治23(1890)年からは国産野砲の開発に従事する。そして明治25(1892)年から1年4ヵ月、ヨーロッパに出張、この間、ドイツのクルップ社で野砲の最新技術を学んできた。そしてこの間に有坂成章は中佐となった。
 帰国後の明治27(1894)年、野戦首砲廠長(工場長)に着任、この年に日清戦争(1894-1895)が始まった。そして明治28(1895)年に大佐に昇進、その後に砲兵第一方面本署に一旦復帰し、明治29(1896)年に東京砲兵工廠へ提理として着任、ここで三十年式の開発をおこなうのだ。

 

▲レシーバー左側面にはシリアルナンバーと東京砲兵工廠の標識(砲弾を4つ積んだ状態を表す)が確認できる。この標識は昭和8年の東京工廠移転に伴い、造兵廠小倉工廠でも使用されるようになった。

 

三十年式の開発

 長々と有坂成章の経歴を述べたのは、フランスからの技術移転を受ける最前線に立ち、海堡の建築とそこへの大砲の取り付け、国産野砲の開発等といった経験を積み上げてきた人物であるということを理解して頂くためだ。いわば有坂成章は、技術官僚、いわゆるテクノクラートであり、日本の銃器開発で名を残した村田経芳や南部麒次郎とは大きく異なる人物であったといえる。
 村田経芳は、洋式小銃の開発とその国産化に人生を捧げた。また南部麒次郎は拳銃から機関銃まで数多くの小火器を独自に設計開発し続けたことで知られている。村田経芳と南部麒次郎は生粋の銃器開発者であったのに対し、有坂成章は全く異なるエリートとしての道を歩んできた。高度な技術を集約したであろう野砲の開発をおこなった人物にとって、軍用ライフルは実にシンプルな道具に見えたのではないだろうか。
 有坂成章は後の南部麒次郎とは異なり、独自のデザインや設計を取り入れることは、初めから考えなかったと思われる。またそれをおこなう時間的な余裕もなかった。
明治29(1896)年の時点で、欧米諸国にはお手本となる最新の軍用ライフルが多数存在していたことは、有坂成章にとってありがたい状況だっただろう。村田経芳の時代とは異なり、製造技術の移転も終えている日本では、完全とは言えないものの、お手本となる銃を模倣することはできる。従って新型小銃の開発をおこなうにあたっては、パテントに抵触しない範囲で既存の銃器の良いとこ取りをすれば、欧米諸国と遜色ない軍用小銃が作れるわけだ。
 おそらく可能な限りの最新軍用小銃を集め、そこから選んだのが、マウザーボルトアクションライフルだったように思われる。マウザーはこの時代、様々な国に向けて自社のライフルを売り込んでいた。1896年の時点で存在したのは、マウザーモデル89、90、91、92、93、94、95で、同年にモデル96がでて、ここで大幅な見直しが掛かり、最高傑作のモデル98が完成するのだ。
 無煙火薬の登場で各国は次々と軍用ライフルの切り替えを進めていた。マウザーライフルは、ベルギーが採用したモデル89、トルコのモデル90、アルゼンチンのモデル91と進化していったが、ここで大幅な改良を加えたモデル92が誕生する。これ以降、一連のマウザーライフルはその完成度を高め、スペインがモデル93、チリはモデル95を採用した。

 マウザー93と95は、ストリッパークリップによる複列固定マガジンを装備した、フロントデュアルロッキングラグのコックオンクロージングの7×57mm弾を使用するライフルだ。エキストラクター等の仕様は異なるが、のちの三十年式に近い特徴を持っている。またスウェーデンが採用したモデル94と96は6.5×55mm弾を使用する一連のバリエーションで、おそらく有坂成章はこれらマウザーライフルを参考に、パテントに抵触する部分を他の形式に置き換えるか、取り外していったのだろう。
 おそらく三十年式の開発において、もっとも苦労したのが、ボルトのデザインであったのではないだろうか。同時期のボルトアクションライフルの多くは、二分割、三分割の構成部品を組み合わせ、ボルト本体を形成している。しかし、マウザーはヘッドの部分のロッキングラグを含めて、ボルトボディを一体構造にしていた。もちろんファイアリングピンやスプリングなどを内蔵させるべく、ボルトボディ後部は別体のパーツ(ボルトスリーブ、コッキングピース、セイフティキャッチ)が装着されているが、マウザーのボルトデザインはシンプルかつ強度が高い素晴らしいものだった。
 有坂成章はマウザーの完成度の高さをいち早く見抜き、可能な限りそれに倣ったボルトを設計した。しかしながら、ボルト後端のボルトスリーブデザインは1895年にマウザーが“Small Lock”としてパテントを取得しており、またクロ―型エキストラクターデザインも1892年に“Shell Extractor”としてパテントが取られていた。すなわち同じボルトデザインとするわけにはいかない。
 その結果、ボルトのデザインはマウザーとは大きく違うものとなり、ボルトヘッドは分割式となったが、巧みなデザインで必要な機能を凝縮させることに成功した。
 ストリッパークリップによるローディングに関しても、マウザーは1889年、1892年、1895年などに何件ものパテントを取得しているが、これに関しては回避できたものと推測する。そもそもストリッパークリップによるマガジンローディングはアメリカのDeWitt Clinton Farrington(デウィット・クリントン・ファ―リントン:1825-1900)によって1878年に取得されたものが最初で、これはすでに失効しているため、有坂成章はマウザーの新たなパテントに抵触しないシンプルなクリップと、それを受ける銃器側のデザインを完成させることができたと思われる。
 またこの時、8mm村田無煙火薬弾薬に替わる、新たな6.5×50mmSR弾薬を開発した。有坂成章は7mm、6.5mm、6mm口径の弾薬を試作し、これを比較研究し、6.5mmを採用するに至ったのだが、この選択が、三十年式を優れたライフルとする大きな力となっている。
 6.5mmは、当時の列強国が採用した7.62mm以上の大口径弾と比べて、小口径で空気抵抗を受けにくい。また小口径ゆえに弾頭重量を稼ぐために前後に長いブレットを採用、そのため一回転8インチという高いライフリングピッチを採用したことで、非常に低伸性が高い弾薬となった。その結果、当時想定された小銃による現実的な交戦距離である500m程度まで比較的フラットな弾道を形成し、実戦における敵兵士へのヒット率が高いという結果に繋がった。このことは三十年式を用いて戦った日露戦争において、日本軍を勝利に持ち込む大きな要因となっている。
 有坂成章が中心となって東京砲兵工廠で明治29(1896)年に開発が始まった新小銃は、明治30(1897)年にその試作審査が行なわれ、明治31(1898)年2月21日に制式が制定された。

 

▲フロントサイトは三角形ピラミッド型で。アリ溝(ダブテイル)固定となっている。この個体は銃身下部に収納されている槊杖(さくじょう:クリーニングロッド)が失われている。

 

▲リアサイトはラダータイプで、最大照準距離は2,000m。その後の三八式は2,400mとなった。300mまでは倒した状態で射撃し、それ以上はサイトを起こして、刻まれた数字×100を射撃距離し、それに標尺をスライドして合わせて射撃する。最大距離2,000mは一番上のVノッチを使用する。

 

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