2025/01/25
南部式自動拳銃大型 甲/乙
南部式自動拳銃大型 甲/乙
Report by 床井雅美 Masami Tokoi
Photos by 神保照史 Terushi Jimbo
Gun Professionals 2012年11月号に掲載
(GP Web Editorが2025年1月一部修正)
今回のリポートは、日本で量産された最初のセミオートマチックピストル、南部式自動拳銃についてお届けしたい。
南部麒次郎によって開発された自動拳銃と言えば、第二次世界大戦で使用されたといわれている十四年式拳銃が最もよく知られている。しかし十四年式拳銃を実際に完成させたのは南部麒次郎ではない。
今回のリポートの主役は、その十四年式拳銃の原型となった南部式自動拳銃だ。
19世紀末、中央ヨーロッパを中心にしてライフルやピストル、そしてマシンガンなどのオートマチック銃の開発レースが展開された。
この時期に中央ヨーロッパでオートマチック銃の開発レースが展開された理由はいくつかある。
その最大の理由は、金属薬莢式の弾薬の発展と、少量の火薬で高い初速を得られる無煙火薬の実用化だった。
少量の火薬で高い初速を得られる無煙火薬の実用化によって、ピストルで使用する弾薬をきわめて小型に製作できるようになった。軍用としてじゅうぶんな威力のあるピストル用の小型弾薬が製作できるようになったことが、セミオートマチックピストルの開発レースの最大の理由だ。
それまでの黒色火薬を用いた弾薬は、ピストル用に短い弾薬を製作しようとすると、火薬量を減少させざるをえず、低い初速となってしまう。低い初速でじゅうぶんな威力を得ようとすると、口径の大きな重い弾丸を使用する必要があった。
このような大口径の弾薬は、とくにセミオートマチックピストルを設計しようとした場合、ピストル全体が大きくかさばるものになりやすかった。
しかし、無煙火薬の出現で、少量でも高い初速が得られるようになると、口径が小さく軽い弾丸でも、高い初速で発射すれば、じゅうぶんな威力が得られるようになる。
その結果、ピストル用の弾薬として、口径が小さく、その全長も短い軽量小型、かつ威力のある弾薬の製作が可能になり、その結果、小型で操作性の良いピストルを開発できるようになった。
2012年10月号で紹介したボーチャード(ボルヒャルト)ピストルも、この時期の開発レースの中で出現したセミオートマチックピストルだ。
明治維新以降、近代化のモデルをヨーロッパに求めた日本も、こういったヨーロッパの動きに無関心ではなかった。
日本の陸軍造兵界は、最初フランスの指導を仰ぎ、1871年に勃発した普仏戦争(フランコ・プロイシッシュ戦争) でフランスが破れると、プロシャ(後のドイツ)の動向に注目するようになった。
そしてドイツは、ボーチャードセミ・オートマチックピストルを生産する国だった。

南部麒次郎自身がその回顧録で記述しているように、ヨーロッパにおけるセミオートマチックピストルの開発レースに関して情報を得ていたことがわかる。
東京砲兵工廠に勤務する南部麒次郎も、ヨーロッパで旧式化したリボルバーがセミオートマチックピストルに世代交代していくことを知った。
彼は、当時、東京の文京区後楽園周辺にあった東京砲兵工廠で、独自にセミオートマチックピストルの研究を開始した。
残念なことにセミオートマチックピストルの開発を始めた時期や、その開発プロセスに関して、ほとんどわかっていない。
というのも、後年、東京砲兵工廠は関東大震災の直撃を受けて火災を起こし、造兵廠もろとも、当然保管されていただろうはずの試作ピストルなどの多くの重要な資料のほとんどが焼失してしまった。
さらに、1945年8月敗戦によって第二次世界大戦を終えた日本陸軍は、自らの手で多くの資料を火中に投じ、焼却処分してしまった。
これらのことは、銃砲研究者としてまさに痛恨の極みである。

ヨーロッパの動向を察知した南部麒次郎が、東京砲兵工廠でセミオートマチックピストルの研究開発を始め、ほぼ完成させたのが、陸軍大尉だった明治35年から36年(1902年から1903年)にかけてだったことが、わずかに残された手がかり(彼自身の回顧録)から確定できる。
南部麒次郎によって完成されたセミオートマチックピストルは、南部式自動拳銃の名前が与えられ、従来の二十六年式拳銃や二番型拳銃(S&Wラッシャンリボルバー)などに代わる軍制式ピストル候補として日本陸軍でもテストされた。
しかし、日本陸軍におけるピストルの位置付けは、将校の武装用や、限られた一部の部隊の武装であり、決して最優先の兵器ではなかった。
当時の日本陸軍の最優先武装兵器は、なんといってもライフルだった。
この時期の少し前、日本は下瀬火薬として無煙火薬の国産に成功し、この火薬を発展させて装填したライフル用の小口径弾薬を完成していた。そして、この小口径ライフル弾薬を使用するライフルを設計、明治30年(1897年)に30年式小銃として制定した。
2012年12月号での訂正:
この南部式大型拳銃のリポートの中で、爆薬の下瀬火薬を無煙火薬として、これを発展させて小銃の発射薬を完成させたと記載してしました。しかし、読者の方から、これは間違っているとのご指摘を頂きました。
下瀬火薬はピクリン酸を基剤とした燃焼速度のきわめて速い爆薬で、他方、小銃で使用される無煙発射薬は、燃焼速度の遅いニトロセルロース系の火薬でまったく異なるものです。
謹んで訂正させて頂きますと共に、誤りをご指摘して頂きました読者の方に感謝致します。
床井雅美
南部式自動拳銃が完成してテストされたのは、東京造兵廠で三十年式小銃の量産が進められて、さらに無煙火薬を装填した弾薬を使用する第二世代のライフル(後の三八式)の開発が南部麒次郎自身の手で研究開発されている時期に重なっていた。
陸軍造兵廠にとって、また日本陸軍にとって、最優先すべきは、最も重要な陸軍歩兵の武装となるライフルの生産と配備だった。
東京砲兵工廠の生産能力、そしてなにより軍事予算の面から、制式ライフルを新型ライフルに交代させるなど多くの兵器の近代化を図っている時期に、副次的な兵器である制式拳銃の世代交代は急ぐべきでないとの意見が出された。
その結果、陸軍が南部式自動拳銃を制式ピストルに選定することはなかった。
歴史に”もし”は禁物だ。しかしあえて、“もし、この時期に日本陸軍が南部式自動拳銃を制式ピストルに選定していたならば”と夢想してみることはできる。
この当時、制定される制式兵器には明治の年号をつけるのが普通だったから、今回のリポートのタイトルは、南部式自動拳銃大型ではなく、三十五年式拳銃、あるいは三十六年式拳銃となっていたかも知れない。

南部式自動拳銃は、陸軍制式ピストルには制定されなかったが、陸軍を初めとする日本軍の将校用ピストルとして販売されることになり、1906(明治39)年からその生産が始められた。
南部式自動拳銃は、階交社を通じて陸軍将校の希望者に販売された。また、海外渡航する民間人に向け、護身用ピストルとして販売された。
さらに、南部式自動拳銃は、量産されて中国軍やシャム国軍(タイ国軍)向けにも輸出された。
1909年9月1日、日本海軍は、それまで陸戦隊や海軍艦船の艦内装備ピストルとして使用していた一番型拳銃(S&WニューモデルNo.3リボルバー)やマゥザーC96セミオートマチックピストルに代わるものとして、南部式自動拳銃を制式制定した。
日本海軍は、南部式自動拳銃に陸式自動拳銃(陸軍式自動拳銃)の制式制定名を与えて第二次世界大戦が終わるまで、後に制定した十四年式拳銃などと共に使用し続けた。
南部式自動拳銃は、1906 (明治39)年に東京砲兵工廠で生産が開始されている。日本海軍が1909年に採用を決定すると、海軍からの大量の需要が、中国軍向けの南部式自動拳銃の生産をおこなっていた東京砲兵工廠の生産能力を圧迫するようになった。
そのため、軍需品の製造をおこなっていた東京瓦斯電気工業株式会社(Tokyo Gas Electric Engineering Co.,Ltd.)で南部式自動拳銃のライセンス生産が開始された。