2024/10/20
明治から続く『浦賀ドック』の歴史【かつて造船の町だった地】
横須賀市
都心から京急で約1時間、横須賀の中心地を超えたその先に今回の目的地はある。
横須賀の観光といったら「猿島」「軍港巡り」「三笠公園」「ドブ板通り」「横須賀美術館」「ソレイユの丘」といった場所などが挙げられる。今回紹介する浦賀は他の観光地とは少し離れた場所にあり、今では少しマイナーかもしれないが、歴史・日本の産業において重要な役割を果たしている。
そんな「かつて造船の町だった地」浦賀にある日本で2つしかないレンガ作りのドックである「浦賀ドック」をご紹介していこう。
▶前編はこちら◀
- 浦賀の歴史
浦賀は古来より様々な形で船と関わり続けた歴史を持つ。
鎌倉時代から船との関わりがあり、戦国時代には北条氏の水軍基地として、江戸時代になると家康は海外貿易の地として期待され、江戸中期から船改番所として江戸に入るすべての船の検査と干鰯問屋(ほしかどんや)の栄える地となる。
「入鉄砲出女」を見張る江戸の陸の関所が箱根であるなら、浦賀は海の関所として重要視された。
※入鉄砲出女:江戸時代における交通政策。江戸に鉄砲などの武器が持ち込まれるのを防ぎ、江戸から女性が出ていくのを防ごうとした政策
江戸後半期になると浦賀は最盛期を迎えた。
そんな最盛期を迎えた浦賀に起きたのが、日本の歴史を大きく揺るがすこととなった1853年のマシュー・ペリー率いる黒船来航だ。この時に浦賀奉行所与力の中島三郎助が最初に旗艦サスケハナへと乗り込みアメリカとの折衝にあたった。
そしてこの出来事が今の浦賀を形作ることになる。
黒船来航を受けた幕府は海防強化策として大船建造の禁の解除、造船所への洋式大型軍艦の発注を浦賀奉公所・水戸藩を命じ、同時期には薩摩藩も造船を開始した。
この時浦賀奉行所で日本初の洋式軍艦製造の中心として活躍したのが前述した中島氏だ。その後、1860年には簡易的なドライドックが整備されたが、漏水なども多かったようだ。
しかし、小栗上野介らによって横須賀港に横須賀製鉄所が建設されることになり、造船の中心は横須賀へと移り浦賀は一旦表舞台から降りることになる。
※大船建造の禁:江戸幕府が出した諸大名が500石以上の軍船を建造・所有を禁止する禁令
時は進み1891年、箱館戦争で戦死した中島三郎助の招魂碑(当時23回忌にあたる)が浦賀の愛宕山公園に建てられた。その除幕式の席で箱館戦争時の同志であった荒井郁之助や榎本武揚らが民間主導による造船所の設立を提唱した。
これによって浦賀船渠株式会社の設立に加え、現在まで残る浦賀ドックが作られることになった。
日清戦争などの影響もあり、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていた。その一方で造船においては技術・設備で大きく後れを取っていた。それを取り戻すべく、国内各地に次々と造船所が作られていった。この造船所もその一つである。
浦賀コミュニティセンター
(郷土資料館)
浦賀ドックから目と鼻の先、徒歩三分ほどの場所に浦賀コミュニティセンター(郷土資料館)がある。
ここでは今解説している時代の歴史や浦賀ドックについてのコーナーがあるので、浦賀ドック見学の際は併せて訪れてみてはいかがだろうか。
・住所
〒239-0822 神奈川県横須賀市浦賀7丁目2-1
・開館時間
8:30~17:00
・休館日
年末年始
- 浦賀船渠の設立
浦賀ドックは横須賀製鉄所のような国主導ではなく、オランダ人技師の基本設計とドイツ人技師の技術指導を元に、横須賀製鉄所 横須賀校舎で技術を学んだ日本人技師 杉浦宋次郎を中心とした最初期の民間主導で作られた造船所である。1899年に竣工し2003年の閉鎖まで1千隻の艦船の製造・修理をおこなった。
浦賀ドックは浦賀の象徴とも言え、現存するレンガ作りのドックは浦賀ドックと川間ドックの2つであり、海水を抜いたドライドックとしては日本で唯一となる。
ドック建造のためには丈夫な地盤が必要となる。そのため山を切り崩して浦賀船渠は作られた。ドックは明治中期以降に作られたレンガ作りの建造物としては珍しくフランス積みで作られており、これは設計者が横須賀でフランス人技師から学んだことからきているかもしれない(諸説あり)。
そしてレンガ作りのドックというのは貴重であるが、この頃はより強度の高い石積のドック(横浜ランドマークタワーの下にあるドックが一例)が主流で、建築におけるレンガの積み方もイギリス積みが主流だった。
これは民間主導である事から潤沢な予算を確保できなかった資金的理由(レンガ積みのが安価)と、創設者の一人がオランダ留学経験者である事からきているのかもしれない(諸説あり)。
浦賀船渠が設立された同時期、同じく浦賀に東京石川島造船所(現IHI)の浦賀分工場が建設された。浦賀ドックと艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられ、ダンピングを生み両者の経営を悪化させることになる。後に石川島造船の浦賀分工場を浦賀船渠が買収し、自社の浦賀分工場とした。
横須賀製鉄所が名前を変え横須賀造船所となり、そして組織改編で横須賀海軍工廠となると民間船の造船・修繕は浦賀が請け負うことになる。
とはいえ軍艦建造をしないわけではない。日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことから始まり、軽巡洋艦「五十鈴」「阿武隈」や、駆逐艦に至っては神風型(初代)から始まり、神風型(二代目)からは秋月型に至るまで駆逐艦建造に関わっていき、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれるほど駆逐艦建造の名門となる。
- 戦後のドック
太平洋戦争後も民間だけでなく海上自衛隊の艦艇建造や米空母ミッドウェイの大規模改修など造船事業は続いた。さらに優れた鉄の加工技術を生かし橋梁やメガフロートの建造にも携わるなど、造船以外でも貢献してきた。
昭和30年代は隆盛を極め世界屈指のマンモス運台を起工するなどし、1962年には子会社の浦賀玉島デイゼル工業と合併し浦賀重工業株式会社へと社名変更した。
そして1969年には住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる。
しかし同じく浦賀地域にある川間分工場は1978年には新造船から撤退させ橋梁専門とし、1984年には川間分工場を閉鎖。浦賀造船所もその機能を徐々に追浜工場へ機能が移行する。そして2003年、工場集約のために浦賀造船所は閉鎖され、日本造船をけん引し浦賀の発展にも貢献した長い歴史に幕を閉じた(造船所としての機能はないが資材置き場としての利用はされていた)。
2007年11月には浦賀船渠の第一号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定される2021年3月には浦賀ドックと周辺部は住友重機械工業から横須賀市に寄付された。
浦賀ドックもとい浦賀船渠、民間主導で生まれた最初期の造船所として、住友重機械工業の造船所の一角として多くの造船や事業に携わってきた。造船所というのは何も船だけを作る場所ではない。横須賀造船所が最初は横須賀製鉄所と呼ばれたように、当時は鉄を扱う産業のスペシャリストだった。
例えば、国会議事堂の鉄骨工事施工や横浜ベイブリッジ、明石海峡大橋、東京湾横断道路高架橋(レインボーブリッジ)などにも協力している。これらは鉄を扱うことにかけて優れた技術を持っていた証にもなる。
2024年、住友重機械工業は、造船事業を手掛ける子会社の住友重機械マリンエンジニアリングを、新規造船事業から撤退させると発表した。これによって浦賀造船所から始まり一度解散、造船を再開した浦賀船渠株式会社から続く造船の歴史に幕を閉じることとなった。
造船所としての歴史は幕を閉じてしまったが、横須賀市はレンガドックを中心に「海洋都市横須賀の実現に向けた重要拠点」「市内の歴史や観光周遊の中核的な集客交流拠点」として官民連携で整備を進めていく。今後どのような道を歩んでいくのか、注目される。
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