2024/06/13
タナカ M27 3-1/2インチ “ハイパトの復活” 半世紀以上前の昔話
消えかかっていた “日本のトイガン文化”に再び灯をともした“ハイパト”
タナカからS&W M27 3-1/2(3.5)インチが発売される。力強い大型Nフレーム、エジェクターロッドシュラウド付き3.5インチテーパードバレル、スクエアバットのマグナグリップ、ファインリィチェッカ―ドトップストラップ マッチングバレルリブ…。若い世代のファンには新鮮な3.5インチバレルのリボルバーだが、60代以上のオールドファンにとって、この銃はたまらなく懐かしい存在だ。
今から半世紀以上前の1972年末、ほとんど同じ形のモデルガンが発売された。名前は全く違うし、口径も違う。“ハイウェイパトロールマン41”と名付けられたその製品は、あの時に消えかかっていた日本のトイガン文化の灯を、再び灯すことに成功した。そんな昔話にしばしお付き合い願いたい。
昭和46年モデルガン規制と樹脂製モデルガン黎明期
1971(昭和46)年4月20日、第65回国会にて、銃砲刀剣類所持等取締法の一部を改正する法律が衆議院で可決し、銃刀法の改正が決まった。これによって同年10月20日以降、金属製の模造拳銃は所持禁止となってしまう。
ここでいう模造拳銃とは金属で作られ、かつ拳銃に著しく類似する形態を有する物で、総理府令で定めるものとなっている。但し、銃腔に相当する部分を金属で完全に閉塞し、かつ表面(グリップを除く)の全体を白色、または黄色としたものは、模造拳銃には該当しないとされた。これがいわゆる“昭和46年モデルガン規制”だ。
この法規制がモデルガンで楽しんでいたすべての愛好者と、その製造や販売を仕事にしていた人達に多大な影響を与えたことは言うまでもない。当時、最大手のモデルガンメーカーであったMGCは、当初この法規制の対象が拳銃型モデルガンであることから、既存のモデルガンに着脱式ストックを装着することで、それはいわゆる長物(Long Gun)と見做され、法規制の対象から外れると判断したらしい。実際に当時の人気機種であるS&W M44コンバットオートや、ガバメント(GM1)にストックやサイレンサー、スコープ等を装着したピストルカービンカスタムを発表した。しかし、それらアタッチメントを外せば簡単にピストル型モデルガンになるわけで、そんなことを警察が認めるわけはなかった。
この法規制が施行された結果、拳銃型モデルガンは売上が激減し、当時数社存在したモデルガンメーカーは、その存亡の危機に立たされた。そんな状況下、当時MGCでモデルガンの開発を手掛けていた小林太三さんは、金属がダメなら樹脂等の非金属でモデルガンを作ればよいのではと考え、樹脂の研究を始めた。しかし、MGC社内の反応は懐疑的だった。「プラスチックでモデルガンを作っても、誰も買わないだろう。重量感はないし、オモチャっぽい」…社内ではそんな声が大勢を占めていたが、小林さんは樹脂の可能性を信じ、突き進んだ。
当初、素材にはポリカーボネートを使おうと考えたらしい。その強度は同厚ガラスの約200倍、アクリルの30倍で、割れにくさは他の樹脂に比べても圧倒的に上だ。しかし、ポリカーボネートは収縮率が大きかった。そこでABS樹脂が選ばれた。ABS樹脂の収縮率はポリカーボネートの40%だったのでこちらの方が使いやすい。しかし、亜鉛合金と比べれば圧倒的に大きな“収縮”という特性は、オートマティックモデルガンを作る上では非常にやっかいなものだった。
それでも小林さんは、オートマティックのブローバックモデルとリボルバーの2つを同時進行させた。現在とは異なり、火薬(当時は紙火薬)によるブローバックモデルはまだ黎明期であり、ほとんどの製品は手動でスライドを操作して楽しむものだった。ブローバック機能を搭載したモデルガンが安価に購入できるのであれば、それは大きな付加価値となる。
オートマティックは当初、ガバメントを製品化するプランであったが、ABSの収縮の問題がすぐには解決できなかったので(のちにそれを克服している)、その影響が比較的少ないと思われたSlide Rails Inside Frame Layout(フレームがスライドを外側から覆うレイアウト)のSIG P210が選択された。MGCの製品名はSIG SP47/8で、これは1972年の10月頃発売された。この時点で、昭和46年モデルガン規制が施行されてからほぼ1年が経過している。
このABS製SIG SP47/8の発売で、1年ぶりにモデルガンショップに戻ってきたファンは多かった。当時中学生だった自分もその一人だ。御徒町にあったMGCサービス部のショーケース(壁一面の大きなショーケースがあった)に展示されたSIG SP47/8を初めて見たとき、それは衝撃的だった。金属感たっぷりに美しく輝いていたからだ。ところがカウンターに行き、現物を手渡されると、ちょっとした落胆を味わった。ショーケースのサンプルは、上手に塗装されていたのだが、実際の製品はプラスチック感たっぷりのテカテカで、オマケにスカスカに軽い。1年前まで持っていた金属の黒いモデルガンと比べると、悲しくなるほどオモチャじみていた。それでも4,900円を支払って、それを自分のものにした。法律が変わったのだ。無いものねだりをしても仕方がない。自分はその1年前、法律の施行と合わせてモデルガンと決別していた。ABSモデルガンはそんな自分を再びモデルガンに向き合わせるキッカケとなった。
一方、同時進行で開発が進められたリボルバーは少し遅れて、その年の年末ごろに発売された。それがMGCハイウェイパトロールマン41だ。
MGCハイウェイパトロールマン41
このモデルガンは、非常に無茶な製品だったといえる。一言でいえば、これはハイウェイパトロールマンではない。よく言えば“創作”、悪く言えば“でっち上げ”だ。しかし、1972年末の段階で、それを指摘できる人はあまりいなかったと思う。半世紀以上前の当時、実銃の情報はかなり限定的にしか入手できなかった。インターネットやSNSは、影も形もない時代だ。当時日本のGun雑誌は旧「Gun」誌(国際出版刊)のみだが、あの頃は海外在住のレポーターなどはおらず、ピストルの記事などはほとんど載っていなかった。なんといっても海外渡航が自由化されてまだ8年しか経っていないという時代だ。最新の情報を知りたければ、洋書を買って読むしかない。しかし洋書屋なんて、銀座や青山などごく限られた場所にしかなかった。だから「これがハイウェイパトロールマンだ」といわれれば、ほとんどの人はそのまま信じたのだ。
初めてのABS樹脂製リボルバーを製品化するにあたり、MGCは少しでも大きいものとすべくNフレームを選んだ。Nフレームは当時のS&Wにおける最大サイズだ。そこからどのモデルを製品化しようかと考える過程で、モデル27の3.5インチに白羽の矢が立ったのだろう。デカいし、格好が良い。
MGCが1968年に発売したコンバットマグナム、その2.5インチモデルは大ヒットした。その格好良さをそのまま大きくしたように見えるのが、モデル27 3.5インチだった。モデル27の存在も当時はほとんど知られていない。
モデル27は.357マグナムだ。しかし、MGCはABS樹脂でリボルバーを造るにあたり、できるだけ迫力を増したいと思うと同時に、少しでも重くしたかった。そこで.41口径に拡大することにした。当時、モデルガンのカートリッジはすべて真鍮製だった。カートリッジを大きくすれば重量が稼げる。現物が手元にないので推測だが、.357を.41にすることで6発合計50g程度の重量アップになったと思われる。
しかし、.41口径のモデル27などもちろん存在しない。.41口径ならモデル57、または58にしなければならない。いっそ.44口径にするという選択肢もあっただろう。しかし、期せずして1972年2月に公開された映画『ダーティハリー』で、.44マグナムは一躍有名になっていた。だからモデル27の恰好のまま、.44マグナムにしちゃうのは、さすがにマズイと思ったのかもしれない。当然、モデル29を製品化するという選択肢もあっただろう。しかし、モデル27の3.5インチバレルの魅力がその時点では優っていたらしい。バレルが短い方がマズルからのファイアリングが楽しめる。せっかく銃腔の開いた製品を出すのだ。6.5インチじゃもったいない。モデル29にも4インチ仕様があったのだが、おそらくMGCは少しでも短いバレルを望んだのだろう。
MGCは商品名の重要性も知っていた。MGCが存在した時代に、S&Wリボルバーは何度も製品化されているが、モデルナンバーを商品名に使ったのは、最後の586、686だけで、あとは個々の製品が持っていた固有名詞を用いている。モデル19というより“コンバットマグナム”、モデル36というより“チーフスペシャル”というわけだ。
同じNフレームのリボルバーにモデル28“ハイウェイパトロールマン”というモデルがあった。モデル27の廉価版だ。商品名としてはこれが選ばれた。ハイウェイパトロールマンの最短バレルは4インチだ。しかし、既に述べた通り、バレルは少しでも短くしたかった。だからモデル27の3.5インチが選ばれた。たかが0.5インチ(12.7mm)、されど0.5インチだ。
すべてにおいて“正解”だったMGCのハイパト
かくしてMGC初の樹脂製モデルガンが誕生した。見た目はモデル27の3.5インチ、口径は大盛り.41マグナム、名前はハイウェイパトロールマン…、こんな実銃は存在しないが、こうした方がカッコイイ! これが当時MGCが下した判断だったのだろう。そしてこれが見事に当たった。MGCハイウェイパトロールマンは発売と同時に売れまくり、大ヒットとなったのだ。
MGCのハイパトは、そのすべてにおいて“正解”だった。
1970年代はポリスアクションの時代だ。60年代にもポリスアクション映画は存在したが、映画史に残るような作品は1968年の『ブリット』しかない。60年代は『007』、『ナポレオン・ソロ』に代表されるスパイアクションの時代で、スパイとカテゴライズされたヒーローが大活躍する映画やテレビドラマが大量に作られた。『ミッション・インポッシブル』シリーズの原形である『スパイ大作戦』もこの時代のテレビシリーズだ。スパイが手にする銃はオートマティック、これがお約束で、リボルバーを持つヒーローはほとんどいない。しかし、70年代になると『フレンチ・コネクション』、『ダーティハリー』が公開され、一気にポリスアクションの時代に突入する。ポリスが手にする銃はリボルバー、今度はこれがお約束だ。ポリスといっても、主役のほとんどが制服警官ではなく、私服の刑事だ。刑事のリボルバーは一部の例外を除けば、バレルが短い。4インチじゃ長く、3.5インチはギリギリセーフだ。だからMGCのハイパトは“正解”なのだ。
1970年代はマグナムの時代でもある。きっかけはもちろん、『ダーティハリー』だ。アメリカも日本も、派手目のヒーローは、み~んなマグナムリボルバーを手にした。但し、それが本格化したのは、『ダーティハリー2』以降だ。1作目の『ダーティハリー』が公開された時点で、S&Wモデル29という銃を正しく認識していた日本人はあまりいなかった。MGCが44マグナム 6.5インチを製品化したのは1974年だ(この時もMGCはモデル29ではなく、“ヘヴィーデューティ44マグナム”としている)。『ダーティハリー2』の日本での公開も1974年。この頃になってやっと.44口径マグナムに注目が集まった。だから1972年末の時点において、MGCのハイパトは“正解”なのだ。
実銃とは違う.41口径マグナムとしたのも良い選択だったと思う。亜鉛合金からABS樹脂になり、迫力が低下した分を本体の大型化で補ったのだが、デカいNフレームのシリンダーに.357口径はアンバランスなほど小さく見える。そこで.41口径化という禁じ手を使った。大きく重いカートリッジにした方が、重量も稼げるし、迫力も増す。モデルガンの意義は、“実銃を可能な限りリアルに再現した模型”ということだけではない。“イメージで遊ぶ道具”という側面も持っている。実銃とは大きく異なる創作モデルガンはその後者に位置付けられる。実銃のハイウェイパトロールマンに.41口径は存在しなくても、手にしたモデルガンに迫力があれば、ユーザーはハッピーだった。その意味でもMGCのハイパトは“正解”だった。
1960年代にモデルガンが誕生し、人気を集め出すと、東京御徒町のアメ横にあるショップにそれを買い求めようと多くの人達が押し掛けた。MGCサービス部にも、中田商店にもお客様が溢れていたという。会計の際、店員さんはレジに現金を入れる余裕もなく、足元の段ボール箱にお札を放り込み、それがどんどん溜まっていったので、足で踏んで押し込んだという話を聞いたことがある。にわかには信じられない話だし、多少は誇張されているとは思う。自分はその時代のことは知らない。
しかし、ハイパトが発売された後のことは自分の目で見てきた。休みの日にはたくさんの中高生がアメ横のMGCサービス部にやってきて、大きく長いL字型のカウンターはごった返していた。自分もその中の一人だった。本来ならば、1971年の規制でモデルガンは消滅する運命だった。銃腔を閉塞され、金色に塗られたモデルガンに嫌気が差してたくさんのファンが離れていったからだ。しかし、MGCのハイパトは彼らの一部を呼び戻すことに成功した。これがきっかけで金色になった金属製モデルガンも売れるようにもなったと感じている。
MGCハイウェイパトロールマンは消えかかっていた “日本のトイガン文化”の灯を、再び力強く、明るくともしたのだ。
タナカのM27は、S&W モデル27を可能な限り、正確に再現したモデルガンだ。その完成度は非常に高い。半世紀前のMGCが作った架空のモデルとは全く違う。しかし、あの時MGCは大きなチャレンジをし、それに成功したのだ。あのハイウェイパトロールマンがあったからこそ、現在も日本でトイガンが作られ続けている。自分はそう思うのだ。
TEXT:Satoshi Matsuo(Gun Professionals副編集長)
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