2023/07/22
日露戦争で活躍した連合艦隊旗艦「三笠」記念艦レポート
先日行なわれた撮影会の舞台となった記念艦「三笠」。この艦は日露戦争において連合艦隊旗艦となり、日本海海戦などにおいて華々しい功績を残したことから大正15年、記念艦として現在の三笠公園の地に据えられ、今に至るまで日本を見守り続けている。今回はその記念館「三笠」の魅力をご紹介していく。
三笠の軌跡
三笠の製造が始まったのは明治32年(1899年)のこと。日清戦争に勝利した日本だったが、露独仏による三国干渉により遼東半島を返還。強大な軍事力を背景とした列強の干渉に対し、国力の劣る日本はなすすべもなかった。そこで日本政府は戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする「六六艦隊整備計画」を推進。イギリスのヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦が「三笠」となった。三笠は1902年3月1日に竣工し、日本へと回航。そして1903年12月26日には、連合艦隊に編入され旗艦となり、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将の座乗艦となった。翌年開戦となった日露戦争では、旅順口外海戦、黄海海戦、そして日本海海戦と主要な海戦に参戦。特に1905年5月27日の日本海海戦においては、バルチック艦隊(ロシア帝国海軍太平洋第二・第三艦隊)の激しい砲火を浴びつつも、勝利に貢献することとなった。
その後も三笠は日本海軍の艦隊として活動を続けていたが、大正11年(1922年)、ワシントン海軍軍縮条約の締結に伴い、日・米・英・仏・伊の主力艦保有数を制限。艦齢の古い三笠も解体が内定したものの、三笠を残すべきだという声が内外から高まり、条約調印各国の同意を得た上で閣議において記念艦として保存することが決定。大正14年(1925年)10月、満潮を利用して現在の場所に引き入れられ、固定。大正15年(1926年)11月12日に保存記念式典が行なわれ、以来、三笠は記念艦として現代に至るまで横須賀の地に存在し続けている。
記念館「三笠」
第二次世界大戦後、三笠は上甲板構造物が撤去され、その跡に遊興施設が設けられるなど、かつての威風堂々とした姿が失われようとしていた。その惨状を目にしたイギリスの貿易商、ルービン氏は英字紙「ジャパンタイムズ」に投書。それが内外から大きな反響を呼び、同じ思いを抱いていた人々が立ち上がり、昭和33年11月、三笠保存会が再興された。内外の募金1億6千万円、国の予算9千8百万円(米海軍の2千4百万円を含む)の資金を元に復旧工事が行なわれ、記念艦「三笠」は往時の姿に復元された。現在の三笠の姿は様々な人たちの尽力があって復元されたものである。
他にもバルチック艦隊の降伏文書の署名が行なわれた司令長官公室や、日本海海戦で東郷司令長官が指揮を執った最上甲板など見所は盛りだくさんで、歴史好き、ミリタリー好きの方々は楽しめるはずだ。横須賀にお越しの際はぜひ、三笠にも立ち寄ってみてはいかがだろうか?
※参考文献:記念艦三笠:https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html、及び艦内展示
TEXT&PHOTO:珈琲
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