2026/01/25
カラシニコフ ライフルズ ソビエト連邦&ロシア編

リポーターは冷戦期に鉄のカーテンの向こう側にあったAKについての研究をヨーロッパで始め、冷戦終結後もこれを継続してきた。その期間は既に50年以上に及ぶ。そこで、AKがどのようにして生まれ、どう発展してきたのか、その流れをここにまとめてみたいと考えた。これをおこなう以上、様々な国で作られているAKすべてを網羅するつもりだったが、凄い文字数になってしまうので、残念ながら今回は、ソビエト、ロシアだけに留めざるを得ない。
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ミハエル・ティマフェービッチ・カラシニコフ(Mikhail Timofeyevich Kalashnikov:Михаи́л Тимофе́евич Кала́шников:1919-2013)は、第二次大戦初期におけるソビエト軍劣勢の原因のひとつとして、ドイツ軍が多数の自動火器、特に短距離で威力を発揮するサブマシンガンを多数装備していたのに対し、ソビエト軍のサブマシンガンの装備が遅れたことを、生前たびたび述べていた。
彼は1941年10月、第二次世界大戦のブリャンスクの戦いで負傷し、後方のアルマアタの陸軍病院で治療を受けることになった。この治療期間中にサブマシンガンの設計を始めたことが銃器開発者としてのキャリアの始まりとなっている。もともと軍の造兵機関に属していたわけではなかったカラシニコフが、世界中で75年以上に亘って使用され続けているアサルトライフルを開発するまでには、彼自身が持っていた才能と、銃器開発にかける情熱があっただけではなく、いくつもの偶然と幸運に恵まれたからでもあったといえる。
生前カラシニコフは、祖国防衛のためにこのライフルを開発し、完成させたとも言っていた。サブマシンガンの設計を始めた時と同様だ。しかし、現実は残酷なもので、彼の理想とは大きく異なり、このライフルは世界中の紛争地域で使われてきただけでなく、罪のない人々の殺戮にも使われてきた。現在もウクライナでの戦闘にも多数使用されている。ウクライナはかつてソビエトの構成国で、そこに住む人々はかつての同胞だ。カラシニコフがこの事を知ったら、いったいどのように感じるのだろうか。現在進行形でおこなわれているこの現実を知ることなく、約11年前に逝去したのは彼にとってむしろ幸いだったのかもしれない。
リポーターは過去に何回もカラシニコフライフルとそのバリエーションについてリポートしてきた。冷戦期で東側の情報入手が困難だった時代に可能な限りの取材をおこない、このライフルに関する本も執筆したこともある。Gun Pro Webが終了する今回、これまで書いてきたカラシニコフライフルに関する研究結果を統合し、その通史をまとめてみようと思い、このリポートを書き始めた。
かなりの駆け足になるが、ソビエト、ロシアだけでなく、カラシニコフライフルを製造したすべての国についても言及するつもりだったが、それはさすがに無理だった。ここではソビエトとロシアに関することまで、そしてこのライフルが世界中に広がっていくまでについて解説している。その他の国に関しては、また別の機会にまとめてみたい。
1949年頃に撮影されたもの。ちょうどAK-47がソビエト軍に採用された頃だ。
AKの開発
ナチズムのドイツに対抗し、共同戦線を展開したソビエトとアメリカやイギリスだったが、それは同床異夢だった。ソビエトの社会主義とアメリカやイギリスの資本主義は政治的な方向性が大きく異なり、相容れない部分が多い。共同戦線によりドイツに勝利したものの、戦争が終結するとすぐにその対立が顕在化する。
第二次世界大戦後、ソビエトを中心にした社会主義諸国と、アメリカを中心にした資本主義諸国は激しい政治的対立を繰り広げた。両グループの直接的な武力衝突は幸いにも回避されたが、その代わりに両陣営の影響地域拡大に伴い、多くの武力衝突が第三世界と呼ばれた中東、アジア、アフリカ、南アメリカで発生した。これらの武力衝突や戦争は、代理戦争と呼ばれるもので、もっとも代表的なものが朝鮮戦争とベトナム戦争だ。直接の武力対決を避けつつ、一方で小規模の戦争が両陣営の周辺地域でおこなわれる状態が冷戦だった。
ベトナム戦争以降、紛争地域の多くで、大きくカーブした独特なマガジンを装着したライフル、アブトマット カラシニコバ シリーズのライフルが広く使用されるようになった。それらはAK-47, あるいは単にAKと総称され、社会主義を標榜する国、およびグループを象徴するアイコンのような存在となっていく。
第二次世界大戦のさなか、突如ソビエトに侵攻したドイツ軍は、大戦後半にMkb42(H)をはじめとする短小弾薬を使用するアサルトライフルを戦場に投入し始め、戦争終盤にかけてその供給量が増大、対するソビエト軍はその威力に苦しめられた。AK、アブトマット カラシニコバ シリーズのライフルは、ドイツのアサルトライフルに対応できるオートマチックライフルの開発と生産が計画されたことに始まる。
この開発計画は、1943年7月におこなわれた短小弾薬を使用するオートマチックライフルを検討するソビエトの人民防衛委員会から、公式の開発が始まった。この委員会ではドイツ軍から鹵獲されたMKb42(H)(ドイツのHaenelが開発したアサルトライフルのパイロットモデル)と、アメリカから供与されていたM2カービンが、アサルトライフルのサンプルとして示されたという。
どちらも制式ライフル弾薬より小さく、ピストル弾薬より強力ないわゆる短小弾薬を使用する歩兵用の小火器で、共に短く、軽量で扱いやすかった。これらサンプルは、セミオートマチック射撃だけでなく、フルオートマチック射撃もでき、小型弾薬を使用するため、フルオートマチック射撃を容易にコントロールできる特性も備えていた。また従来の歩兵用ライフルの弾薬に比べれば短小弾薬の射程は短いものの、近距離戦闘では、大きな制圧火力(面的な制圧力)を発揮し、これはピストル弾薬を使用するサブマシンガンに勝っている。
このときまでにソビエト軍部は、近距離戦闘でのサブマシンガンの優位性、とくに制圧火力の重要性を強く認識しており、短小弾薬はサブマシンガンより強力な効果を示すことが期待された。
ソビエトの研究機関OKB-44は会議からわずか1ヵ月後に、ソビエト版の短小弾薬の試作品を完成させている。弾薬の開発はN.M.エリザロフ(N.M. Elizarov:Н.М. Елизаров)とP・V・リャザノフ(P.V. Ryazanov:П.В. Рязанов)、B・V・セミン(B.V. Semin:Б.В. Семинн)、I・T・メルニコフ(I.T. Melnikov:И.Т. Мельников)が担当した。弾薬はドイツのGECO(Gustav Genschow & Co)が研究開発していたものをコピーしたといわれるが,いまだにロシアはその開発の経緯を明らかにしていない。しかし、この驚異的に短い期間で新型弾薬を完成させたことから、事前にドイツの研究資料を入手していたことはほぼ間違いないと考えられる。
ソビエト版の短小弾薬は、実用射程を当時のソビエト制式ライフル弾薬の7.62mm×54R(モシンナガン弾薬)より短い距離に設定し、フルオートマチック射撃のコントロールしやすさを優先させて小型に設計された。最初42mmの長さの薬莢を装備した7.62mm×42弾薬が試作され、さらに短い39mmの薬莢を装備した7.62mm×39弾薬に改良されていく。そしてこれが1943年中にソビエト軍の仮制式弾薬に制定され、その後にソビエト軍の制式弾薬となった。
この短小弾薬を使用する武器として、アサルトライフルだけでなく、セミオートマチックライフル、分隊支援火器(ソビエトでは歩兵機関銃と呼ばれていたLMG)が想定され、加えて将来の弾薬の統合を考慮し、ボルトアクションの手動連発ライフルの開発と試作が計画された。
これらの将来の制式小火器の開発と試作品の試験のため、試験ロットの短小弾薬の生産が直ちに開始され、製造された弾薬がソビエトの各開発研究機関と武器製造メーカーに送られた。
歩兵部隊の多くのカテゴリーの小火器が想定されたため、アサルトライフル(アブトマット)だけでなく、セミオートマチックカービン、ボルトアクションライフル、分隊支援火器など、それぞれのカテゴリーの小火器で複数のトライアルが実施されている。
これは戦時下での開発とトライアルのため、結果が急がれた。アサルトライフルの分野では、PPS-42/43サブマシンガンの開発者のアレクセイ・イワノビッチ・スダエフ(Alexey Ivanovich Sudayev:Алексей Иванович Судаев)が1944年に完成させたAS-44(仮称アブトマット・スダエフ44)試作アサルトライフルが最有力モデルとして選択された。
1945年5月、連合国はドイツを敗退させ、第二次世界大戦は終結する。しかし、ソビエトのアサルトライフルの開発は戦争終結と関係なく進められていく。
もっとも優秀だとされたAS-44アサルトライフルは、試験的に生産され、、部隊による実用試験が始められた。しかし、不幸にしてトライアル進行中の1946年8月17日にA・I・スダエフが病気で急逝した。トライアルで全体重量の軽減などが改良点として指摘されていたが、開発者が不在となったため、改良を伴う発展的な開発が困難になってしまう。
ジェルジンスキー砲兵アカデミーを卒業、戦時中にソビエト軍のサブマシンガンPPS42、及びその改良型PPS43を開発した。彼が胃潰瘍により33歳の若さで急逝しなかったら、カラシニコフライフルは誕生しなかっただろう。
そこで新たなアサルトライフルのトライアルが急遽始められることになった。このトライアルに参加したのがミハエル・カラシニコフだった。彼はソビエト版の短小弾薬を使用するセミオートマチックカービンの開発を進め、セルゲイ・シモノフ(Sergei Gavrilovich Simonov:Сергей Гаврилович Симонов)案のカービン(後のSKSカービンの試作)と競って注目されていたが、急遽おこなわれることになったアサルトライフルのトライアルにも参加することになった。
リポーターがカラシニコフ本人から直接聞いた話だが、開発の際にもっともインスピレーションを得たのは、アメリカのM1ライフルが持つ回転ロック方式のボルト、ハンマー、シアの構造を中心にした撃発メカニズムだったという。これに、ソビエトのセミオートマチックライフルが伝統的に採用していたバレル上部にガスシリンダーとガスピストンを設定する構造を取り入れた。
カラシニコフがアサルトライフルの設計に携わった段階で、使用する弾薬の開発は完了しており、後にカラシニコフライフル(AK)のシルエットの最大の特徴となるバナナ形マガジンの開発もほぼ終わっていた。そのため、マガジンはカラシニコフが直接設計したものではないという話も、本人から直接聞いている。
1946年11月、カラシニコフの設計したアサルトライフルは、マシンガンの製作を担当していたコブロフの第2造兵廠(現ディグチャレブ工場)で、試作ライフルの製作許可が出た。
ここで1946年12月に最初のAK試作品が完成している。試作ライフルは、後のAKと概ね同じシルエットを持っているものの、構造的にかなり異なっていた。全体構造はドイツのアサルトライフルのように上部レシーバーと下部レシーバーの2体構造で設計されている。上部レシーバーにバレルやガスピストン類が組み込まれ、ガスピストンとボルトキャリアは分離式になっていた。下部レシーバーにはマガジンハウジングと撃発メカニズムが組み込まれ、後端部分にショルダーストックが装着されていた。右手でグリップを握ったままでボルトをコックできるように、コッキングハンドルはレシーバーの右側面でなく左側面にある。
トライアルに提出された試作AKは、テストの結果、改良すべき箇所や変更すべき箇所が指摘され、それらを反映させた試作2号機と試作3号機が製作された。これらの試作AKにはAK46の試作名が付けられた。

試作3号機はさらに大幅に改良されており、後のAKに大きく近づいている。基本構造として、バレル、マガジンハウジンング、ショルダーストックはすべてレシーバーに組みつけられ、レシーバーデッキでレシーバー上部をカバーする方式となった。分離式だったガスピストンとボルトキャリアは一体化され、携帯性を考慮してコッキングハンドルは、レシーバー左側面から右側面に移動している。
1947年末におこなわれた最終トライアルで、試作AKは、トゥーラ造兵廠から提出されたブルキン試作ライフルやデメントヤブ試作ライフルなどと比べ、作動の信頼性で大きく上回った。とくに耐久射撃テストでは、わずか9回の装填不良を起こしただけで15,000発の弾薬を撃ち切っている。このトライアルでは他の候補がいずれも多くの作動不良を発生させ、部品の破損事故まで起こし規定の弾薬数に達することのできなかったため、試作AKの評価は多いに高まっていった。
しかし、試作AKも完璧とは言い難かった。それは命中精度があまりよくないという指摘だ。アサルトライフルが面的制圧を目的に使用されることを考え合わせると、この欠点は戦闘兵器として決定的な弱点とはならない。それはその後に多くの戦争に投入されて証明されることとなる。
それでもこのAKの命中精度が低いという欠点を克服するための改良が重ねられている。最終的に命中精度が大きく向上したのは、小口径高速弾である5.45mm×39を使用するAK74が採用されることになってからだった。
トライアルで耐久性において、最良の結果を出したカラシニコフ設計のアサルトライフルは、軍の部隊で実際に使用してテストするため、1,500挺を限定量産することが決定した。製造は軍事都市のイジェフスクでおこなわれることになり、カラシニコフは1948年の初頭にコブロフからイジェフスクに移り、AKの生産体制の整備に携わっている。


