2025/09/26
HUDSON AK-47 ASSAULT RIFLE【ビンテージモデルガンコレクション21】

Text & Photos by くろがね ゆう
Gun Professionals 2013年12月号に掲載
1980年当時、共産圏のアサルトライフルであるAK-47は、その存在は既によく知られていたが、細かい部分までの情報はほとんどなかった。そんな時代にハドソンからAK-47のモデルガンが登場、立体物として見ることができるとあって、大いに話題になった。


右:初期のカートリッジはいわゆるオープンタイプ。パテントの関係で前撃針が細いので、BLKには多めの火薬を必要とした。
諸元
メーカー:ハドソン産業
名称:AK-47アサルトライフル
主材質:亜鉛合金
発火方式:前撃針ブローバック(のちにピストンファイア方式、さらにCP方式)
撃発機構:セミ/フルオート、ハンマー
使用火薬:平玉紙火薬(のちにキャップ火薬)
カートリッジ:オープンカートリッジ(のちにピストンファイアカートリッジ、さらにCPカートリッジ)
全長:870mm
重量:3,900g
口径:7.62mm
装弾数:30発
発売年:1980(昭和55)年
発売当時価格: ¥43,000、カートリッジ10発・スリング付き
※ フォールディテング・ストック・タイプ(AK-47S)は¥40,000で1981年末に発売。
※ smG規格(1977年)以前の模擬銃器(金属製モデルガン)は売買禁止。違反すると1年以下の懲役または30万円以下の罰金に処せられます。(2025年現在)
※ 1971年の第一次モデルガン法規制(改正銃刀法)以降に販売されためっきモデルガンであっても、経年変化等によって金色が大幅に取れたものは銀色と判断されて規制の対象となることがあります。その場合はクリアー・イエロー等を吹きつけるなどの処置が必要です。
※ 全長や重量のデータはメーカー発表によるもので、実測値ではではありません。また価格は発売当時のものです。
ハドソンがAK47を発売した1980年当時、過去に六研がオープンボルト方式のAKカスタムを発売したのみで、ほとんどの人がAK47について具体的なことは何も知らなかった。もちろんそれは一般にはということで、自衛隊などは早くから把握していたはず。たしか過去に自衛隊でM16やAK、トンプソンなどを撃ち比べた記事がGun誌に載ったことがあったと思う。
それでもAKの詳しい記事は専門誌に載らず、アメリカの銃雑誌でもリポートされることはほとんどなかったようだ(ボクが知らなかっただけかもしれないが)。名前やシルエットはわかっても、具体的なことは何もわからないベールに包まれた銃。
だいたい当時のAKのイメージは、ベトコンが使用していた銃で、主に共産圏で制式採用されているアサルトライフル。ソ連でカラシニコフという人が設計し、1947年に開発された。そして100mで5cmの円に4発撃って3発は命中し、セミフルの切り替え射撃が可能。というような程度だった(「世界の殺人兵器」小橋良夫/青春出版社)。
1974年に出版された「世界兵器図鑑〈共産国編〉」(野崎龍介/国際出版)ではAKMまで解説され、分解写真やロータリー式のボルトの写真も載っていたが、いかんせん写真が不鮮明でフラストレーションが募るものだった。
唯一、詳しそうな記事はコンバットマガジン1980年6月号の創刊号に載った「テキサス州のど真ん中にソ連軍がいた! AK-47突撃銃」というもの。これにはマニュアルの一部や、歴史的な背景まで触れられていたが、アップカットがなく、やはり写真もあまり鮮明ではなかった。
それが突然モデルガンで発売された。しかもメーカーはハドソン。多くの人が驚いた。
それまでハドソンは十四年式拳銃やコルトポケット32、M3A1グリースガン、コルトM1917など、ちょっと主流からは外れるが、比較的よく知られた人気モデルを作ってきた。まったく予想もできない新製品を出してくることはなかった。それがいきなりAKとは。
設計を手掛けたのは、ミニチュアバイクなどでも知られるトイガンデザイナーの御子柴一郎さん。御子柴さんは、ハドソンとは六研の六人部登さんが原型製作したルガーベアキャットの製作を途中で引き継いでから関わるようになり、トンプソンM1A1を設計したあと、AKを手掛け、そしてスコーピオンVz61、マドセンM1950、PPSh41など、マイナーな銃を次々とモデルガン化していった。
その辺のことを御子柴さんに伺ってみた。すると、AKは御子柴さんからハドソンの社長に提案したそうだ。
当時は日本モデルガン製造協同組合ができたあとで、各社協力して法規制に反対して行こう、安全なモデルガンを作ろうということでまとまっていた。しかし、良い意味でのライバル心が各社に芽生え、水面下で牽制しあうような面もあったという。より良いモデルガン、より売れるモデルガンを作ろうと、競っていたのだ。
そのため、たとえば次期製作のニューモデルを極秘にして情報を漏らさないようにしたり、逆にあえてリークしたり、スパイ映画さながらの情報戦が展開されていたらしい。
あえてリークするというのは「こういうモデルを作っているから、真似すんなよ」というプレッシャーを暗黙の内に掛けるやり方。御子柴さんがハドソンのトンプソンM1A1の設計を手掛けたときも、六人部さんはCMCではトンプソンはやらないとおっしゃっていたらしい。しかしハドソンがM1A1を発売すると、まもなくCMCもM1のトンプソンを発売した。
AKもいろいろな裏情報が乱れ飛んでいたらしい。たとえば過去にAKのカスタムを作ったことがある六人部さんがCMCから発売するとか、MGCもAKを作る計画があり、すでに図面が完成している、といった類いのもの。御子柴さんは、他社はやるとしてもそれほど企画は進んでいないと読み、ハドソンに提案した。今やればどこもやっておらず一番早く出せると。
提案は受け入れられ、トンプソンの発売から2カ月ほどですぐに発表された。それも単なる牽制ではなく、もうこんなに進んでるぞとアピールするため展開図(分解図)まで掲載した。翌月にはテストショット(試作のようなもの)の写真を掲載し、さらに3ヵ月目には完成品の写真を載せた。実際の発売と連動していたかどうかはわからない。昔はモデルガンの発売が広告の表記より遅れることは良くあった。仮に遅れたとしても、1〜3ヵ月以内に発売されたのではないだろうか。驚きのスピード設計&発売だ。
御子柴さんの手元には、実銃の木製ストックとハンドガード、グリップがあったという。それ以外は洋書を参考に推定値で設計を進め、最終的に自衛隊の土浦武器学校へ取材に行って、フレームの幅など要所要所の寸法を採寸してきたという。それらはほぼ推定どおりで合っており、設計が正しかったと自信を深めたそうだ。
当時は撃って遊ぶ人が多かったため、最初からブローバックモデルとして設計された。御子柴さんはマルシンのPFC方式が調子が良いから採用してはどうかとハドソンの社長に勧めたそうだが、やはりライバル心があり、受け入れてもらえなかったという。それでMGCのデトネーター方式と、通常のスタンダードな前撃針との中間の形で、多めの火薬を詰めて作動させる方式にしたという。そのため、確実に発火させる必要から強いハンマースプリングを入れた。つまり最初からブローバック作動には大きなハンデがあったのだ。それは結局のちに発売されるキャップ対応のピストンファイア方式でも解決できず、正式なライセンスを得たCP方式でも解決できなかった。
また実銃にある、フルオート時ボルトが閉鎖してからハンマーを落とすオートシアは、モデルガンではボルトの勢いを削ぎ閉鎖不良を招くということで削除された。モデルガンの場合フルオート時は基本的に暴発させればいいのだ。
御子柴さんはロータリーボルトを再現したいと申し出たそうだが、単価が2倍になるということで却下された。やっていればモデルガン初のロータリーボルトになるところだった。これが実現されるのはCMCのMini 14(1982年)まで待たねばならなかった。
当時は年少者のファンが多かったことから、既存のパーツを流用して、いかに安く作るかに苦心した。ブローバックで苦戦したAKだったが、御子柴さんとしてはマガジンの出来は満足しているという。テーパーを付けたカートリッジを採用することで、ほぼ実銃どおりの形状が再現できたそうだ。
御子柴さんはインタビューの最後にぽつりと「本当はSKSシモノフを作りたかったんだよねえ」と言われた。ハドソンに提案はされたそうだが、さすがにそれは却下されたという。やっぱり御子柴さんはスクラッチビルドプロジェクトのように、ストレートじゃないちょっと曲がった銃がお好きのようだ。
Text & Photos by くろがね ゆう
協力:御子柴一郎
撮影協力:ます兄、くま
Gun Professionals 2013年12月号に掲載
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