2025/07/22
コルト モデル1877 ライトニングリボルバー Part 2 設計者ウィリアム・メイスン
Text by Masami Tokoi 床井雅美
Photos by Terushi Jimbo 神保照史
2023年2月号掲載
コルト モデル1877ライトニングリボルバーついて詳しく分析したリポート、その2回目はこのリボルバーの設計者であるウィリアム・メイスンについて解説したい。彼は、コルトシングルアクションアーミー(SAA)の開発でも中心的な役割を果たした人物でもある。
William Mason
ウィリアム・メイソンは、コルト ライトニングリボルバーの開発者だ。彼は、当時のアメリカを代表する大手銃砲メーカーであるレミントン、コルト、ウィンチェスターの3社で働いた。そしてこれらのメーカーに在職中、銃砲、および銃砲を製造する機械、さらには、蒸気ポンプの開発、自動織機の開発などをおこない、その生涯にU.S.パテントを125件取得したとされている。そしてアメリカ機械学会の創設メンバーでもあった。

ウィリアム・メイソンは、1837年1月30日にニューヨーク州オスウェーゴ(Oswego)で生まれた。彼の家族の生業や家族の履歴は明らかでない。また少年期にどのような教育を受けたのかもわかっていない。若くして彼はレミントンに見習い職人として入社し、ここで銃砲に関する知識や銃砲開発の基礎を習得した。
レミントンで働いていた時、彼はいくつかのライフルを発案し、パテントを取得している。さらにリボルバーの発展にとって重要な発明をおこない、1865年11月21日、U.S.パテント61,117を取得した。まだ28歳の時だ。
これは、金属薬莢式に改造されたレミントン ニューモデルアーミーに組み込まれたスイングアウトシリンダーと、シリンダーセンターピンをエジェクターとして利用することに関するものだった。形こそ違うものの、ソリッドフレームの現代リボルバーのほとんどに組み込んでいるスイングアウトシリンダーメカニズムの原理パテントに相当する。
残念ながらこのスイングアウトシリンダーを組み込んだリボルバーは、レミントンで製造されることはなく、試作のみに終わった。従来この試作品は現存していないとされていたが、実は少なくとも1挺がアメリカ ワシントンDCにあるスミソニアン博物館に現存している。リポーターは若い頃、ここで研究を許されていたが、その保管庫で現物を確認し、撮影した。

アメリカ スミソニアン博物館所蔵

U.S.パテント51,117(1865年11月21日)
メイソンは、1869年にレミントンからコルトに移籍した。この時期はS&Wが保有していた貫通式シリンダーのリボルバーパテントが失効し、各ピストルメーカーがいっせいに金属薬莢を使用する近代リボルバーの開発をおこなっているときだった。コルトは従来生産していた各口径のパーカッションリボルバーを金属薬莢仕様に改造する作業を急いだ。移籍したメイソンはまずこのプロジェクトに参加し、改造計画の中で発案したエジェクターでU.S.パテントを取得する。
コルトはパーカッションリボルバーの改造と改良を進める一方、新たに金属薬莢仕様の新型リボルバーの開発を進めた。このプロジェクトでもメイソンは開発の中心におり、この時に完成したのが、シングルアクションアーミー(SAA)だ。この開発でもメイソンはU.S.パテントを取得している。
メイソンはこの他にもニューライン、ライトニング、フロンティア ダブルアクションなどの開発をおこなっている。
コルトでメイソンが最後に手がけていたプロジェクトが、モデル1878フロンティア ダブルアクションをさらに近代化させた新型のダブルアクションリボルバーの開発だ。
しかし彼はその完成を見ることなく、1882年にコルトを辞めてウィンチェスターに移籍している。このコルトの新型プロジェクトはFrank B. Felton(フランク・B・フェルトン)に受け継がれ、コルトの現代リボルバーにつながるモデル1889ネービー ダブルアクションリボルバーとなった。


1882年にメイソンがコルトを辞め、ウィンチェスターに移籍した裏にはかなり生臭い話がある。もともとコルトはリボルバーを生産し、ウィンチェスターはレバーアクションライフルを供給するという暗黙の了解のようなものがあった。またそこには両社のライフルとリボルバーは、同じ弾薬を使用することを認めるということも含まれていたらしい。
事実、同じ1873年に生産を開始したコルトシングルアクションアーミーとウィンチェスター モデル1873レバーアクションライフルは、相互に同じ弾薬を使用できる製品が多数製作された。
まだ流通網が整っていなかったアメリカ西部では、それぞれ別個の弾薬を入手するより、同じ弾薬をリボルバーとライフルで使用できるほうが便利だった。そしてその通り両社の製品は棲み分けがおこなわれていた。
しかし、1883年にコルトがリボルバーで使用する弾薬を転用できるコルトバージェス レバーアクションライフルの発売に踏み切ったことで、この均衡が破られた。コルトバージェス レバーアクションライフルは、その外見や連発作動がウィンチェスター レバーアクションライフルにそっくりだった。
これを営業上の脅威と見たウィンチェスターは、対抗処置として、シングルアクションアーミーに対抗し得る大口径リボルバーを自社開発する姿勢を見せた。しかしライフルやショットガンを主力としていたウィンチェスターには、リボルバーを専門に開発する技術者がいなかった。そこで、ウィンチェスターは後に有名なボーチャードピストルを開発したHugo Borchardt(ヒューゴ・ボーチャード)を招聘し、いくつかの大型リボルバーを開発し試作させた。
このウィンチェスターの姿勢に対し、コルトは従来どおりの均衡に戻し、棲み分けすることで決着を付けたと伝えられている。コルトは、わずか2年間バージェス レバーアクションライフルを生産しただけで生産を停止した。
その後コルトは、リボルバーの弾薬を転用できるものの、連発作動方式が異なるコルトライトニング スライドアクションライフルの生産に切り替えて1884年から供給を始めた。
どうやらウィンチェスターは1回起こったことはまた起こると考えていたらしい。ウィリアム・メイソンの移籍の裏には、コルトとウィンチェスターの販売シェアの奪い合いと技術者の囲い込みが影を落としていた。ウィリアム・メイソンはウィンチェスターによってヘッドハンティングされたようだ。彼の移籍名目はショットガンやライフルの開発のためとされたが、現実は彼がコルトの有力なリボルバー開発者だったことが大きな理由で、コルトのリボルバーに対抗し得る製品を開発できる陣容を整え、コルトに対するにらみを利かせることが目的だった。
実際にメイソンは、モデル1878フロンティア ダブルアクションリボルバーによく似たリボルバーで、スィングアウトシリンダーが組み込まれた試作品をウィンチェスターのために製作している。しかし、ウィンチェスターがリボルバーを生産し、製品化させることはなかった。そのため、ウィリアム・メイソンのウィンチェスターリボルバーは、ボーチャードのリボルバーと同様に幻のリボルバーに終わった。
ウィンチェスターでウィリアム・メイソンは、公式の移籍理由の通り、ライフルやショットガンの考案や改良に従事した。とくにブラウニングが考案する試作品を、ウィンチェスターが製品化する際の改良で多くの特筆されるべき働きをしたとされている。彼の働きはウィンチェスターでも評価され、1885年にウィンチェスターのマスターメカニックに任命された。ウィンチェスターの勤務を続けたウィリアム・メイソンは、1917年7月17日に終生現場を貫いてマサチューセッツ州ウースターで永眠した。
次回 “Part 3 ライトニングのシリンダーストップ” に続く
Text by Masami Tokoi 床井雅美
Photos by Terushi Jimbo 神保照史
Gun Professionals 2023年2月号に掲載
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