2025/04/06
Small Arms of 2nd WW ビッカースマシンガンMk.1 Part 2
Small Arms of 2nd World War 269
イギリス編103
マシンガン18
ビッカースマシンガンMk.1 Part 2
Text by Masami Tokoi 床井雅美
Photos by Terushi Jimbo 神保照史

イギリスのビッカース サンズ&マキシム(Vickers, Sons & Maxim)社で改良されたマキシムマシンガンが、ビッカースマシンガン マーク1(Mk.1)だとPart 1で解説した。
今回のPart 2は、ビッカース サンズ&マキシム社でおこなわれた改良とその改良に携わった人々についての解説となる。
アメリカからヨーロッパに出向き、ヨーロッパで発明家たちがオートマチック作動するマシンガンの開発に熱中していることに接したハイラム・スティーブンス・マキシム(Hiram Stevens Maxim)は、短期間でオートマチック作動するマシンガンの開発に成功した。

完成されたマシンガンは、連射性能で人々を驚かせたが、兵器としてみるとまだまだ未完成のものだった。
第一に指摘されたのは、その大きさと重量だった。マシンガンは、射程の長い火砲のように、前線の後方から前線の兵士を支援する兵器ではなかった。歩兵ライフルと同等の弾薬を使用するマシンガンは、射程が短く、前線に展開させて兵士と共に闘ってこそ有効な兵器だった。
前線に展開させるためには、移動が容易でなくてはならない。大きく重量があることは、移動の範囲やその移動スピードが低下することにつながる。
開発者マキシムとマシンガンの製造契約を結んだビッカースサンズ&マキシム社が最初に取り組んだ改良は、マキシムマシンガンの小型化と軽量化だった。

当時ビッカース サンズ&マキシム社の社長だったアーサー・T・ダウソンは、同社の造兵部門の技術チーフだったジョージ・トーマス・バックハムとこの問題の解決に向けて動き出した。
同じ時期にマキシムマシンガンの製造権を手に入れていたドイツのDWM(ドイッチェ バッフェン ムニチオーン ファブリク)は、いちはやくマキシムマシンガンの小型軽量化に成功し、海外への輸出も始めていた。そのためビッカース サンズ&マキシム社としてもマキシムマシンガンの小型、軽量化を急がなくてはならなかった。
ビッカース サンズ&マキシム社の最初の小型軽量化マキシムマシンガンは、モデル1901ニューパターンと名付けられて製作された。


しかし、モデル1901ニューパターンマキシムマシンガンは、やや小型になったものの、イギリス兵器の伝統を守り、重量のある真鍮を随所に使用し、耐久性を求めて機関部やバレルジャケットなどに不必要なまでの強度を持たせてあった。その結果、ドイツのDWMのマシンガンに比べて、やはり重量のあるものだった。
1906年になって、ビッカースサンズ&マキシム社は、やっとDWM製のマシンガンに対抗できる軽量マシンガンの製作に成功した。
モデル1906ニューライトマキシムマシンガンと名付けられたこの軽量マキシムマシンガンは、レシーバー部分や特にバレルの冷却水を入れるバレルジャケット部分に耐久性を持たせるためのリブをいれ、スチール肉厚を薄くし、全体重量を大きく軽減することに成功した製品だった。

マシンガン本体と共に、扱いにくかった三脚架にも改良が加えられ、軽量化と操作性を向上させた。
これらの改良を加えたモデル1906ニューライト マキシムマシンガンは、対外的にモデル1906 ニューライト ビッカースマシンガンの製品名で知られるようになる。
さらにその2年後、モデル1906ニューライト マキシムマシンガンのバレルジャケットをさらに軽量化させたモデル1908ライトパターン ビッカースマシンガンを完成させた。
重くかさばったマキシムマシンガンは、ビッカース サンズ&マキシム社のアーサー・T・ダウソンと技術チーフのジョージ・トーマス・バックハムの努力で、軽量化され、歩兵用の前線サポート兵器として実用性を持つまでになっていった。






軽量化されたモデル1908ライトパターン ビッカースマシンガンは、イギリス陸軍の注目を引くのにじゅうぶんな性能に達していた。1910年にイギリス陸軍は、ビッカースマシンガンのトライアルを開始した。
モデル1908ライトパターン ビッカースマシンガンは、イギリス歩兵学校で最初にデモンストレーションされた。
続いて、1911年6月、イギリス国防省の小火器委員によってトライアル、テストされることになった。
1911年6月に始められたイギリス国防省小火器委員のトライアルでは、モデル1908ライトパターンビッカースマシンガンの弱点や欠点が洗い出され、ビッカースサンズ&マキシム社によって、それらの弱点や欠点を改善するための様々な小改良が加えられていった。
最終的にイギリス国防省は、異なる兵種の部隊でテストするため、26挺のモデル1908ライトパターンビッカースマシンガンを発注し、試用試験がおこなわれた。
1912年11月26日、モデル1908ライトパターン ビッカースマシンガンは、イギリス陸軍制式兵器として選定され、ガンマシン ビッカース0.303インチマーク1の制式兵器名が与えられた。
ガンマシン ビッカース0.303インチマーク1(以下ビッカースマシンガンMk.1と表記)がイギリス軍制式兵器に制定された1912年は、ヨーロッパの情勢が緊迫の度合いを深めている時期だった。そのわずか2年後の1914年に、第一次世界対戦が勃発する。
緊張の度合いを深めるヨーロッパ情勢を背景に、イギリス政府は、ビッカースサンズ&マキシム社に対し、即急にビッカースマシンガンMk.1の量産に入るように要請した。
しかし、ビッカースサンズ&マキシム社によるビッカースマシンガンMk.1の量産はなかなか軌道に乗らなかった。

ビッカースマシンガンMk.1に限らず、新型兵器の量産移行は容易でない。とくにマシンガンという複雑なメカニズムを備えた銃器の量産は、ビッカースサンズ&マキシム社も初めての経験だった。制定翌年の1913年中にビッカースサンズ&マキシム社が製造できたビッカースマシンガンMk.1は、わずか45挺に過ぎなかった。
翌1914年の8月までにビッカースサンズ&マキシム社が製造したビッカースマシンガンMk.1はわずか35挺。生産は、スローペースのままで進められていた。
しかし、戦争は待ってくれなかった。1914年8月に第一次世界大戦が勃発した。ビッカースサンズ&マキシム社は、イギリス政府から大増産の指令を受ける。
今や敵国となったドイツは、DWMというマキシムマシンガンの大きな生産能力を持つ工場を抱え、ドイツ軍が大量のマシンガンを前線に投入してくることが確実だったから、大増産指令は当然ことだった。



戦争勃発当初イギリス陸軍は、不足するマシンガンの供給を、同じ同盟国のフランスや、開戦時に中立を保ったアメリカに求めなければならなかった。
ビッカースサンズ&マキシム社は、生産体制を再構築し、戦時生産に切り替えた。その結果、1914年8月の戦争勃発以降、1914年中に339挺のビッカースマシンガンMk.1が製作された。
翌1915年にビッカースサンズ&マキシム社は、2,433挺のビッカースマシンガンMk.1を製作した。
1916年のビッカースマシンガンMk.1の生産台数はさらに向上し、7,468挺となった。
1917年に増産体制が整う。これによりビッカースマシンガンMk.1の生産台数は一桁上がって21,751挺となった。
戦争が終結した1918年は、それまでのピークとなる41,699挺のビッカースマシンガンMk.1が製造された。

戦勝国となったイギリスのビッカースサンズ&マキシム社は、終戦後もビッカースマシンガンMk.1の製造を継続し、第一次世界大戦中に製作されていた部品を組み立てることで、1,443挺のビッカースマシンガンMk.1を完成させた。
最終的に第一次世界大戦が勃発した1914年から、終戦になった1918年までの間に、73,728挺のビッカースマシンガンMk.1がビッカースサンズ&マキシム社によって製作されてイギリス軍やイギリス連邦軍、そして連合国に加わった国の軍隊に届けられて戦場で使用された。
ビッカースマシンガンMk.1の生産だけではないものの、この戦時大増産に対応するためビッカースサンズ&マキシム社(すでにビッカースLtd社と改名)は、終戦時に120,000名を超える戦時従業員をかかえる大製造メーカーとなっていた。
従来の戦争とは異なる大戦争となった第一次世界大戦は、社会を大きく変えた。第一次世界大戦中に多く男性が、兵士として徴兵された。そのため戦時増産体制で男性従業員の増員が難しくなった。戦争後半過ぎの1917年から1918年にかけて、とくにこの傾向が顕著になっていった。
そのため、ビッカースサンズ&マキシム社は、従来は男性従業員の職場だったビッカースマシンガンMk.1の製造ラインに女性従業員を投入するようになった。
戦争の後半過ぎにビッカースサンズ&マキシム社の製造ラインで働いていた従業員は、約107,000名。この従業員のうち女性労働者の占める割合は、約32,500名にのぼり、全労働者のほぼ1/3に迫る比率となっていた。
言い換えると、第一次世界大戦後半にビッカースサンズ&マキシム社で製作されたビッカースマシンガンMk.1の1/3は、女性労働者によって完成されたことになる。
ビッカースサンズ&マキシム社によって製作されたビッカースマシンガンMk.1は、イギリス政府によって買い上げられて軍に支給された。第一次世界大戦が勃発した当初の1914年秋に段階で、1挺のビッカースマシンガンMk.1に対し、イギリス政府から162ポンドから167ポンドがビッカースサンズ&マキシム社に支払われた。
ビッカースマシンガンMk.1に対するイギリス政府からの支払い価格は一定ではなく、大増産が達成されるにつれ、1挺のビッカースマシンガンMk.1に対する支払い価格は低くなっていった。
1915年には、1挺に対し、125ポンドが支払われ、1916年になると1挺100ポンドとされた。生産台数が5桁となった1917年になると1挺に付き80ポンドとなり、最後には1挺につき50ポンドを超えないこととなった。
どの価格が適正なのか、リポーターは判断する基準を持たないが、大増産によりビッカースマシンガンMk.1の単価は1/2以下となってしまったことだけは事実だ。
Text by Masami Tokoi 床井雅美
Photos by Terushi Jimbo 神保照史
Gun Pro Web 2013年5月号
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