2025/04/04
Small Arms of 2nd WW ビッカースマシンガンMk.1 Part 1
Small Arms of 2nd World War 268
イギリス編 102
マシンガン 17
ビッカースマシンガンMk.1 Part 1
Text by Masami Tokoi 床井雅美
Photos by Terushi Jimbo 神保照史

イギリスのビッカース サンズ&マキシム(Vickers, Sons & Maxim)社で製作された陸軍歩兵用汎用マシンガンが、ビッカースマシンガン マーク1(Mk.1)だ。
ビッカースマシンガンMk.1は、その製造メーカーの名前をとってビッカースマシンガンと呼ばれているが、この銃はアメリカ人銃器開発者ハイラム・スティーブンス・マキシムが考案開発したマキシムマシンガンを原型としている。
ビッカースマシンガンMk.1は、射撃の際に生じる反動を利用して作動させるリコイルオペレーテッド(反動利用)方式のマシンガンだ。イギリス軍は、数次にわたってビッカースマシンガンをテストした上で、1912年に採用を決定、ガンマシン ビッカース0.303インチ マーク1(以下ビッカースマシンガンMk.1と表記)の制式名を与えて陸軍の制式マシンガンとした。
以来、イギリス陸軍は、このビッカースマシンガンMk.1を、イギリス陸軍歩兵の重要な汎用マシンガンとして位置づけ、第一次世界大戦、第二次世界大戦で使用し続けた。

ビッカースマシンガンMk.1は、作動が良好で故障が少なく、その重量が重いことを除けば、兵士たちにも信頼されるマシンガンだった。その作動の信頼性が高いこともあり、イギリス陸軍で長期間使用され続け、最後のビッカースマシンガンMk.1がイギリス陸軍から姿を消して完全に現役を退いたのは1970年代に入ってからだった。
.303口径のビッカースマシンガンMk.1がイギリス軍に採用されて制式となったのは1912年のことだった。しかし、それ以前にもイギリス軍によってビッカース社の製作するビッカースマシンガン(マキシムマシンガン)が使用されたことがあった。
それは、イギリスと南アフリカ植民者の間で闘われた第二次ボーア戦争(1899-1902)においてだった。この時イギリス陸軍は、.45口径のビッカースマシンガン(マキシムマシンガン)を南アフリカに持ち込んで使用した。
第二次ボーア戦争は、正規軍がマシンガンを戦闘に投入した最初の戦争となった。
しかし、イギリス軍は、ボーア戦争でビッカースマシンガンを使用したものの、イギリス陸軍の制式兵器に加えることがなかった。ビッカースマシンガンは、植民地における戦闘に緊急避難的に投入されただけに終わった。ビッカースマシンガンをイギリス陸軍の制式兵器に選定採用することは、ヨーロッパでの戦争を激化するだけだと考え、制式兵器への選定に政治的な躊躇があったためだという。


最終的にボーア戦争から10数年経過した1912年、イギリス陸軍は、ビッカースマシンガンを制式兵器に加えた。この頃になると、ヨーロッパ各国の陸軍が相次いで制式マシンガンを制定して装備するようになり、イギリス陸軍もその流れの中でビッカースマシンガンの制定を決定した。
ここで、ビッカースマシンガンの原型となったマキシムマシンガンとその開発者だったHiram Stevens Maxim(ハイラム・スティーブンス・マキシム)について調べてみよう。

Hiram Stevens Maxim
マキシムマシンガンを開発したハイラム・スティーブンス・マキシムは、フランスからイギリスへ、そして最終的にアメリカに移住したマキシム家の息子としてアメリカで生まれた。彼が生まれた1840年2月5日、マキシム家はアメリカメイン州のサンガースビルに住んでいた。
マキシムが6歳になった頃、彼の父親は農場経営をあきらめ、同じサンガースビルで製材所の経営に乗り出した。彼は地元の学校で教育を受け始めたが、もともと発明家としての素質に恵まれていたせいか、わずか12歳の頃、クロノメーターを購入する資金がなかったため自作して周囲を驚かせた。
彼は同時に、多くの鹿を仕留める年の若いハンターとして、地元で知られた存在だった。彼の銃砲に対する興味が早くから芽生えていたことを示すエピソードだ。さらに上級学校への進学資金は、罠で動物を獲り、その毛皮を売ることで捻出したという。
学校卒業後、マキシムは、様々な地元の職を経験し、マサチューセッツ州のボストンに出て、ノベルティ鉄工所に勤務するようになり、ここで金属加工技術を習得した。この会社からニューヨーク支社への出向を命じられた彼は、しばらくこの会社のニューヨーク支社で勤務する。
やがてマキシムは、ニューヨークで、ガス灯を製造する自分のマキシムガスマシン会社を創設した。彼の事業は成功を収めたが、やがてガス灯が電灯に置き換えられていくようになった。彼はこれを見て、ガス灯製作から電灯製作への転身を図った。
1881年、マキシムは、電気に関して先進地域だったヨーロッパに向けて旅立つ。ヨーロッパの電気事情を見るためだった。


イギリスロンドンに事務所を開いたマキシムは、ヨーロッパの発明家たちが電灯もさることながら、外力を使用しないで自動的に連射できるマシンガンの開発レースを繰り広げていることを知った。
少年の頃から銃砲に親しんで、銃砲の持つ性質を知り尽くしていたマキシムは、すぐにライフルを発射したとき肩にくる射撃反動のことを思い出した。これを連続射撃するための動力として使えないものだろうか。
もともと発明家気質だった彼は、ただちにこのアイディアを試してみる。土台となったのはウィンチェスター1873レバーアクションライフルだった。
最初の試作品は、ウィンチェスター1873のレバーを、トリガーガード先端部分で切り落とし、ここにトリガーガードを兼ねたロッドをつけ、このロッドとスプリングで浮かせたバットプレートを連結させたものだった。
ライフルを射撃すると、射撃リコイルでバットプレートのスプリングが圧縮される。するとロッドが前進し、切り取ったレバーの基部に装着されたロッドが、ちょうどレバーを引き下げたときと同じようにボルトを後退させる。リコイルが収まると、バットプレートは、スプリングの圧力で元に戻る。このバットプレートが元に戻る動きが、最初と逆の働きをして、ボルトを前進させ、次の弾薬が撃発される。ファイアリングピンにうまくハンマーが打撃を与えられず、連発が中断することもあったが。この作動の繰り返しで自動的に連射できることがわかった。
この連発ライフルで彼は、アメリカパテント#297278を1884年4月22日に取得した。パテントは1884年だが、彼がこのアイディアを試したのはそれよりかなり前だ。
もともと電気関係のパテントや新製品の買い付けでヨーロッパに渡ったマキシムだったが、思いもかけないところから、ヨーロッパでのマシンガン開発レースに参加していくことになった。

すっかりマシンガンの開発に熱中したマキシムは、イギリスの銃砲生産中心地だったバーミンガムに小さな製作工場を開設する。
マキシムがマシンガン開発に夢中になっていることを聞きつけたヘンリーライフルバレル社の社主パービスは、マキシムのことを心配し、過去に何千人もの発明家がチャレンジしてできなかったマシンガン開発など諦めるほうがいいと忠告した。だが、マキシムは聞く耳を持たなかった。
発明家というのはおもしろいものだ。最初に発想した発明原案のインスピレーションが、その後の改良型にも大きく影響を残す。
いくつかの改良型が作られた後、1884年の春に外力をまったく使用しないで作動するマキシムマシンガンが完成されて試作品が製作された。リポーターは、現在もイギリスに現存しているマキシムマシンガンの試作品を見たことがある。
完成したといっても、このマキシムマシンガンは、試作品の域を出たとはいえない、大きくかさばり、重量のあるものだった。
しかし、マシンガンの開発を初めてわずか数年で試作品を完成させたのは驚きだ。その陰には、彼自身が鉄工所に勤務した経験を持ち、自らも金属加工をおこなえたことが大きく作用したのだろう。


最初にインスピレーションを受けたのが射撃リコイルだっただけあり、試作マキシムマシンガンは、射撃の反動を利用するリコイルオペレーテッド方式で作動するものだった。ショートリコイルするバレルによってロックを解き、ボルトが後退する。
そのロッキングメカニズムに関しても興味深いことがある。既に述べた通り、彼が最初にオートマチックライフルへ改造したのは、ウィンチェスター1873だった。このライフルは、ボルトのロッキングシステムとして、トグルリンクロックが用いられている。
完成された試作マキシムマシンガンも、まったく同型式のトグルリンクロックをロッキングメカニズムとして用いていた。
弾薬は布ベルトで製作された弾薬帯に装着されて使用される。弾薬は、この布ベルトの弾薬帯からいったん後方に引き抜かれてからバレルのチャンバーに送り込まれるようになっていた。リボルバーピストルのシリンダーのように回転する星型の部品によって弾薬帯が送り出され、次々弾薬を補給するメカニズムが組み込まれていた。
試作マキシムマシンガンには、弾薬を連射するスピードを調節するメカニズムも組み込まれていた。しかし、このメカニズムは、それほど有効に作動しなかった。
試作マキシムマシンガンは、大きくかさばり、重量のあるものだった。だが、実際に射撃すると、最初にコッキングレバーを引いてブリーチボルトを後退させれば、後はトリガーを引くだけで、まったく外力を加えず次々と弾薬を連射できた。
試作マキシムマシンガンは、デモンストレーションで200,000発の弾薬を射撃して人々に大きなインパクトを与えた。しかし、一部の保守的な陸軍首脳部の人々は、当初このマキシムマシンガンに冷淡だった。彼らには、マキシムマシンガンが、単に弾薬を無駄遣いする兵器としか映らなかった。
最初、マキシムマシンガンは、多銃身の手動式マシンガンを製造していたノーデンフェルド アソシエーション社で製作が始められた。しかし、このマシンガンに可能性を見いだしたイギルス ケントにあったイギリス大手の兵器メーカーのアルベルト ビッカース リミテッド社が興味を示し、マキシムマシンガンの製造に乗り出すことになった。
後にアルベルト ビッカース リミテッド社は、マキシムと契約を交わし、1888年にビッカースサンズ&マキシム リミテッド(Vickers, Sons & Maxim)社となり、マキシムマシンガンの本格的な生産が始められた。
アルベルトビッカースリミテッド社は、その射撃性能で人々に大きなインパクトを与えながら、大きくかさばり重量があり過ぎると指摘されるマキシムマシンガンの改良に取りかかる。
すでにマキシムマシンガンは、イギリスだけでなく、多くのヨーロッパの国々の軍隊に対するデモンストレーションがおこなわれており、各国ともマキシムマシンガンに大きな興味を示していた。ただし、常に指摘されるのは、その大きさと重量だった。
アルベルト ビッカース リミテッド社は、マキシムマシンガンの重量軽減と小型化を目標に改良に努めた。その結果、最初の大きくかさばる試作マキシムマシンガンの1/3程度まで重量が軽減された小型軽量化モデルが完成された。
イギリスの最初のトライアルは、1887年におこなわれた。これに続き1887年頃になると各国の軍隊でのマキシムマシンガンのトライアルが始められる。
オーストリアハンガリー帝国は、1887年から1888年にトライアルをおこなった。1887年には、ドイツ、イタリア、ロシア、スイスが相次いでマキシムマシンガンのトライアルをおこなった。翌1888年には、アメリカもマキシムマシンガンをトライアルする。
これらの国々の全てが、マキシムマシンガンを制式マシンガンに制定したわけではないが、ドイツやロシアは、制定に踏切り、後に大量のマキシムマシンガンを国産した。
言うまでもなく、これら以外の多くの国々でもマキシムマシンガンがトライアルされ、制式マシンガンに採用した国も多かった。
この時点でイギリスは、制定に踏み切らなかったが、ボーア戦争の際に、南アフリカに送り、その破壊力を認識することになった。
そして1912年、歩兵用制式ライフルの弾薬と同一口径のビッカースマシンガン(実体はマキシムマシンガン)を採用し、陸軍の制式兵器に加えたのは既に述べた通りだ。
アルベルトビッカースリミテッド社、ビッカースサンズ&マキシムリミテッド社と名前を変えた製造会社は、最後にビッカースリミテッド社と社名変更されたが、ビッカースマシンガンを製作し続けた。
Text by Masami Tokoi 床井雅美
Photos by Terushi Jimbo 神保照史
Gun Pro Web 2013年4月号
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