2025/08/09
【NEW】ボーチャード C93 ピストル コレクターグレード
世界初の量産セミオートマティックピストルとして知られているのが、1893年にヒューゴ・ボーチャードによって完成された“ボーチャードC93”だ。 “自動拳銃の先駆け”ともいえるマスターピース、そのコレクターグレード フルセットをご紹介したい。
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オリジナルフィニッシュが99%残っている極上コンディション
全長:355mm
銃身長:195mm
重量:1,160g
使用弾:7.65×25mm (7.65mm Borchardt)
マガジン装弾数:8発
撃発方式:ストライカーファイアード
作動方式:ブリーチロック ショートリコイルオペレーション
世界初の量産型セミオートマティックピストル
ボーチャードピストルは、1893年にドイツ系アメリカ人であったヒューゴ・ボーチャード(Hugo Borchardt: 1844-1924)によって完成された世界初のブリーチロック ショートリコイルオペレーション セミオートマティックピストルで、トグルリンクアクションという珍しいシステムを採用していた。
GP Web Editor補足:ドイツ語読みをすれば、フーゴー・ボルヒャルドとなるでしょう。また世界最初のセミオートマチックピストルは、Otto Brauwetterのパテントに基づき、1892年に試作されたBergmann Pistol Proto Type、そしてそれをLouis Schmeisserが改良したBergmann-Schmeisser 1893ではないかと思います。しかし、こちらはディレイドブローバックの5発クリップ装填で、作動性能もあまり芳しくなく、量産もされていません。

トグルアクションそのものは彼の発明ではなく、1884年にハイラム・マキシム(Hiram Maxim:1840-1916)によって開発された“マキシムマシンガン”で導入されており、年代的にボーチャードがこのシステムを参考にしたのは想像に難くない。口径は専用に開発された7.65×25mm Borchardtカートリッジで、85grの弾頭を1,300fpsで飛ばすという、当時としては高威力高性能を誇るまさにエポックメイキングな存在であった。

またこの木製ケースをマガジン部分にインサートすると、トグルをホールドオープンの状態にキープさせることができる。ボーチャードピストルには、ホールドオープン機能がないため、メンテナンスのためにこのようなキットが付属する。
この1890年代後半というのは、ヨーロッパにおいてセミオートピストルが注目を浴びている時期でもあり、他にもマンリカ(Mannlicher:マンリヒャー)1894やバーグマン(Bergmann:ベルグマン)1894/1896/1897,マウザー(Mauser)C96等の有名なモデルだけでなく、たくさんのプロトタイプやミリタリー用テストモデルが存在していた。
ただ、ボーチャードピストルが他に先駆けていたのは、
* 8連ボックスマガジンを採用していた。
* 専用の7.65×25m Borchardtという高威力弾を使用していた。
* 安定したロックドブリーチショートリコイル機構を確立していた。
* 1894年の時点で、工業的大量生産体制ができており、1902年までの間に約3千挺ほどが生産されている。
といった点であった。7.65mmボーチャード弾は、後年ほぼそのままのサイズで7.63×25m Mauser弾(30 Mauserとも呼ばれている)としてMauser C96の専用弾となった。バリスティックデータ(パフォーマンス)は7.63mm Mauserの方が10-20%強力で、ボーチャードピストルにこの7.63mm Mauser弾の装填は可能だが、発射は危険とされている。
また1930年になると、当時のソヴィエト連邦がこれまたほぼ同じディメンションの7.62×25mm Tokarev弾を、トカレフ拳銃やPPD-40サブマシンガン用として赤軍(クラースナヤ・アールミヤ)が採用しており、このカートリッジはさらに威力が強力なので注意が必要だ。
ヒストリー&デザイン
ヒューゴ・ボーチャードは、1844年にプロセイン王国マクデブルグで生まれている。若かりし頃の経歴は残っていないが、1860年に移民として両親と共にアメリカに入国した。その後どのような教育を受け、初めて就いた仕事がどのようなものであったのかといった記録は残っていない。しかし、1872年にはニュージャージー州トレントンにあった“パイオニア ブリーチローディン アームズ(Pioneer Breech-Loading Arms Co.)”に技術者として入社し、銃砲開発の仕事に就いた以降の職歴はわかっている。
同社は1874年に“シンガーソーイングマシン(Singer Sawing Machine Co.)”に吸収され、ボーチャードも現場マネージャーとして移籍した。ガンメーカーから縫製ミシン会社への転身は奇異に映るかもしれないが、当時ミシンメーカーは高品質な工業製品の製作会社として認知されていた。それを裏付けることとして、シンガーは1939年に1911A1の製造を開始しているし、航空機用精密機器の製造にも関わったことが挙げられる。
とはいえ、ボーチャードはシンガーに長く留まらず、同年には“コルト パテント ファイアアームズ マニュファクチャリング(Colt’s Patent Firearms Manufacturing Co.)”へ、そしてさほど間を置かず“ウィンチェスター リピーティングアームズ(Winchester Repeating Arms Co.)”へと転職する。
この辺り、やや複雑な推移があったようで、当時金属薬莢を使用するレバーアクションライフルで急速に成功を収めつつあったウィンチェスターでは、同口径を使用するリボルバー開発に乗り出していた。この開発陣は豪華で、コルトSAAの開発にかかわったウィリアム・メイソン(William Mason)やスイングアウト方式の特許を保有していたウェットモア・ウッド(Wetmore Wood)等に交じってヒューゴ・ボーチャードの名前もそこに入っていた。
しかしこの“ウィンチェスターリボルバープロジェクト”は、開発がかなり進んでいたにもかかわらず、コルト/ウィンチェスターの経営陣による紳士協定により、競合を避ける方向で話し合いがまとまってしまった。つまりコルトはレバーアクションライフルの開発を取りやめ、ウィンチェスターは大口径リボルバーの製造をせず、レバーアクションライフルに専念する、という協定であった。開発陣の落胆は如何ばかりであったか、想像に難くない。


そう呼ばれるのに相応しい存在感と機能美を持ち合わせている。