2025/04/03
GUN HISTORY ROOM 117 シン・南部式拳銃2
南部式自動拳銃乙と南部式自動拳銃小型は、東京砲兵工廠と東京瓦斯電気工業で製造された。造兵廠からそれまで銃器製造実績の無い民間企業に製造拠点が変わった理由は何か。併せてこの拳銃の生産終了時期を探ってみたい。
前月までの整理
ここまでを整理すると、南部式自動拳銃は明治35年(1902)年には試作が行なわれていて、明治36(1903)年の第五回内国勧業博覧会に試作品が展示された。その時点では固定弾倉のクリップチャージ式であったが、その年の夏には着脱弾倉式に改良されている。
しかし、その年の内には完成せず、明治37(1904)年前半に生産が開始された模様だ。したがって海外の研究家がModel 1902と呼称するのは、正確とは言い難い。
ドイツが中国市場への武器輸出を停止していた間、南部式自動拳銃は対中国向け輸出が盛んに行われたが、その後にドイツが中国市場に復帰すると、輸出用の南部式拳銃甲型は販売の不振に陥った。
その結果、南部式自動拳銃甲型は廃番となり、トリガーガードなどを改修した乙型がその後継と位置付けられた。また新たに将校用拳銃として南部式拳銃小型が登場したと考えられる。
南部式拳銃乙型の生産を継続すべく、明治43(1910)年3月に陸軍に対して制式制定を上申したものの、寺内正毅陸軍大臣の「経費多端の折柄拳銃改良の如き不要不急の研究を行うは本末転倒」の一喝で不採用となってしまい、制式制定は見送られた。
一方、海軍への導入を意図した打診が、明治41(1908)年中に行われ、明治42(1909)年度から陸式拳銃として東京陸軍砲兵工廠で製造が継続された。
以上がこれまでの経緯だ。
東京瓦斯電気工業製南部式自動拳銃の製造理由とその開始時期
続いて東京瓦斯電気工業株式会社(TGE)製造の南部式拳銃、いわゆるTGE南部式拳銃について解説したい。このTGE南部式拳銃に触れる以上、TGE社でいつから南部式拳銃の製造が始まったかを確定する必要がある。
米国側資料では、Harry L. Derby Ⅲ 、James D. Brown両氏がその著書Japanese Military Cartridge Handguns 1893-1945(1986年刊)で、TGEにおける南部式拳銃の製造開始を1909(明治42)年としている。
これに関して日本側史料は、TGE製造南部式拳銃関連史料、番号5と2を参照いただきたい。
史料番号5でTGEの社長代理田中関史郎が「弊社事 大正八年<大正八年以来製造に罷在候<まかりありそうろう>南部式自働拳銃並三年式機関銃は」と書いており、史料番号2の「製造、改造(2)」では大正8(1919)年2月10日から大正9(1920)年3月末日までに軍用銃2,000挺のTGEによる製造許可を、海軍が代行して警視庁に申請した記録がある。さらに同じ綴りの中で、陸軍に対して南部式拳銃の製造に異存がないかを問い合わせている。
この2つの史料は明確に大正8(1919)年がTGEにおける南部式拳銃の製造開始時期である事を示しているものだ。
従って、TGEでの南部式拳銃の生産は大正8(1919)年から大正末年(後で考察)までの10年に満たない期間となる。
ではなぜTGEで南部式拳銃が製造されるようになったのだろうか。これをそれぞれ東京工廠の事情、TGEの事情、さらに陸軍の思惑から見てみよう。
まず東京工廠は、第一次世界大戦勃発の翌年大正4(1915)年から、露、英、仏よりの膨大な小銃製造依頼が殺到しており、建物や設備を拡張し24時間操業でこの注文に応えている。
第一次世界大戦後半には、主戦国ドイツをはじめ欧米からの兵器輸入が途絶えた中国からも東京工廠に大きな発注がもたらされた。
陸軍ではこの時期の生産状況を「大製造期」という文書にして、その経験を記録にとどめるほどの繁忙ぶりだった。
従って、この大正4(1915)年から大正8(1919)年の期間、東京工廠は、海軍からのとぎれとぎれで数百挺単位の南部式拳銃の発注(この頃、既に南部式拳銃の製造主力は海軍の陸式拳銃であり、この発注は年度の艦艇竣工に応じて備え付け分が逐次発注されたようである)にわざわざ、そのつど小銃のラインを振り分けて対応するのはかなりの手間だったと考えられる。
一方のTGEは主力商品の、琺瑯<ほーろ>鉄器、工業用火薬などの資材や素材の販売は戦時バブルの影響で極めて好調で、その利益による拡大再生産のために比較的製造が容易な製品と考えられた小火器製造へ進出を試みた事が決算報告書からうかがえるが、この動向を海軍用に振り向ける事が画策されたようだ。
しかし、南部式拳銃のTGEでの製造を決定的にしたのは、陸軍が大正7(1918)年1月に「砲兵工廠条例」を改正した事だ。
この改正で「官庁又は民間より、兵器其の他の物品の製造、又は兵器其の他之に準ずべき物品の試験製造の指導、若は製造の技術に従事する者の養成は、依頼あるときは、第一条の規定に依る業務に妨なき限り、陸軍大臣の認可を受け之に応ずることを得」と言う文言が付け加えられた。
これは、それまで東京工廠において出来うる限り、素材資材から完成品までを一貫して製造する排他的生産体制だったものを、民間に外注できるものは素材資材製品を問わず外注(ライセンス生産)や購入での調達に転換したことを意味する。
これは陸軍が第一次世界大戦参戦国の動向から、今後の戦争が「国家総力戦」になるという現実に直面し、民間工業力の利用を痛感した事によるものだ。
とはいえ欧米の工業基盤に比べ、その実力が劣る日本の民間工業に関しては、まず第一歩として官業からの技術指導や人材養成が必要であり、これに対応するための条例改正であった。
またこの「砲兵工廠条例中改正」が大正7(1918)年1月であることを見ても、TGEでの南部式拳銃製造が、法制上もこれ以前には実現できなかった事を傍証している。
以上を整理すれば、大正7(1918)年中には陸海軍とTGEの間で南部式拳銃の製造が了解され、TGEでの製造が翌大正8(1919)年2月に始まり、海軍への初回ロット2,000挺程度の納品完了が大正9(1920)年3月末日という事になったと考えて良いだろう。
東京瓦斯電気工業製南部式拳銃の特徴
TGEで製造された南部式拳銃の特徴として、そのフレームが上下に2分割して製造された後にピン止めし、さらに溶接で結合して接合部を研磨するという、非常に手間のかかる方法で製造されていた事が挙げられる。
この東京砲兵工廠とは異なるTGEの製造法は、形状が複雑で切削が難しい南部式拳銃のフレームを2分割する事で切削刃具の挿入開口部を増やし、フレーム切削を容易にするためと考えられる。
この事からTGEは、複雑な形状のフレームの一体切削を嫌い、手間はかかるが敢えて2分割のフレームを接合しているようだ。
また、この他にボルトのリセス部も、別部品で製造した後ボルトにカシメ止めするという煩瑣(はんさ)な製造法となっている。
これは明らかに、発射時に大きな力がかかるロッキングラグの受部であるリセスの強度を上げるための部分焼入れに自信が無かったために、別部品に焼入れをした後カシメ止めしたものだ。
拳銃のボルトのような、小さな部品に過不足なく部分焼入れをすることは難しく、焼入れが不足すれば部品は使用中に変形し、多過ぎれば非焼入部との境界から断裂する恐れがある。
最初から技術に自信がないのであれば、個別に焼き入れした部品をカシメ止めするのは、手間ではあるが安全策と言えるかもしれない。
このような製造方法を見る限り、TGEの製造技術はやはり東京砲兵工廠から見れば見劣りのするものだったと言えよう。
これについては、昭和5(1930)年の内閣統計局の史料によれば、東京工廠には、勤続40年以上の工員が100人近くいる事が記録されている。
これは逆算すると明治23(1890)年以前からの勤務となるので、東京砲兵工廠の現場熟練工の層の厚さと、たとえそれが手工芸的であったとしても、技術力の高さを物語っていると言えよう。
それからすれば、銃器部門の創設間もないTGEがこのような稚拙で煩雑な製造方法ながら、それでも南部式拳銃を製造できた事は、むしろ高く評価すべき事だと感じる。
南部式拳銃の終焉
TGEの南部式拳銃製造は、当初は分割しない一体フレームで制作していたが、後に製造の容易な二分割フレームへ南部麒次郎が移行させたのではないかという見解や、その製造も全てがTGEでの一貫生産ではなく、東京砲兵工廠から部品供給を受けていたのではないかという説がある。
この2つの問題を考察すると南部式拳銃の製造終了についての実態が見えてくる。
まず、TGE製造南部式拳銃関連史料をご覧いただきたい。米国圏でのシリアルナンバー調査では明らかに二分割フレームの出現した後、その製造の最終段階で一体フレームが登場するので、TGE製南部式拳銃は二分割フレームで製造が始まり、一体フレームへ移行した事は間違いがない。
TGEにおける南部式拳銃の製造は一貫生産では無く、東京砲兵工廠から部品供給を受けていたのではないかという指摘について考えてみたい。
TGE製造南部式拳銃関連史料の史料番号7にあるように、TGEは既に火器製造の最初期段階の火造部門まで持っていた。また銃器製造を始めて間もなくの大正9(1920)年には史料番号3.4にあるように戦利拳銃を陸軍から借りたり、南部麒次郎を顧問に呼んだりして相当に銃器の研究や製造に熱心に取り組んでいる。
また簡単に東京工廠から一体フレームの供給を受けられるなら、先に見たような稚拙で煩雑な製造方法を駆使してまで南部式拳銃を製造する必要はないので、筆者はTGEで南部式拳銃を一貫生産していたと考えている。
TGE製南部式拳銃の製造背景を考察すると、以下のようになるのではないだろうか。
まずTGEで製造された南部式拳銃のフレームは、全て二分割フレームであったと筆者は考える。
一方でTGEの刻印があるものの、一体の南部式拳銃のフレームは、実は東京砲兵工廠の製造であろう。
この推測は、米国圏におけるシリアルナンバー調査を見ればある程度の想像がつく。
東京砲兵工廠製造の南部式大型拳銃乙のシリアルナンバーは7,000番台初めで終わった。同じく、東京砲兵工廠製造の南部式小型拳銃のシリアルナンバーは5,700番台で終わった。
一方TGE製造の南部式大型拳銃乙は独自のシリアルナンバーで製造を開始し、5,000番台でいったん途切れた。その後に、その後に東京砲兵工廠のシリアルナンバーを引き継いで8,000番台へ移行する。
同じように南部式小型拳銃は、それまでTGEで製造されていなかったものが、突然シリアル№6,000番台で登場する。これも東京砲兵工廠のシリアルナンバーを引き継ぐ形であった。
また、重要な事は、TGE製造の南部式小型拳銃は一体フレームである事だ。
これらに、大正12(1923)年9月の関東大震災で東京砲兵工廠、わけても小銃製造所では輪削と組立工場が倒壊延焼し、その機能の大半が被災焼失するという壊滅的打撃を受け、ついに完全復旧することなく小倉へ移転したことを考え合わせたい。
独自のシリアルナンバーで製造されていたTGEの南部式自動拳銃乙型が、突如として東京砲兵工廠のシリアルナンバーを引き継いた事、及びTGE製の南部式小型拳銃が登場するのは、震災で製造余力がなくなった東京砲兵工廠から、それぞれの銃の仕掛部品などをTGEに運び込んで、最終組み立てをして製品化されたからだと考えられる。
東京砲兵工廠は、南部式自動拳銃の製造をTGEに移管したものの、いずれまた製造再開を想定していたのだろう。そのために仕掛り部品はずっと残していたのだと思う。しかし、大震災が起こり、それどころではなくなった。
震災後の東京砲兵工廠では、制式兵器の十年式信号拳銃が作られていた記録があるので、東京砲兵工廠は被災後も応急処置で一応復旧はした。しかし、その製造能力は1/10に激減しており、そこでは制式である十年式信号拳銃の生産が優先され、制式が制定されていない南部式拳銃の生産再開は断念、将来のために残しておいた南部式拳銃の仕掛り部品をTGEに送り、そこで最終生産が行なわれたと考えるのが合理的だからだ。同じことは、震災前まで製造が続いていた南部式小型拳銃にもいえる。
そのような経緯でなければ、大型乙のフレームすら一体で製造できなかったTGEが、より小さな小型拳銃のフレームをいきなり一体で製造できるはずがない。
またシリアルナンバー8,000番台の南部式拳銃乙型にも二分割フレームのものがあり、これは東京砲兵工廠から持ち込まれた仕掛品であった一体フレームの在庫が枯渇したので、TGEで再び二分割フレームを製造して必要数に充当したと考えないと説明がつかない。
震災後のTGEでの製造数は大型小型合わせても千数百挺程度でしかないので、その生産終了は、大正の14(1925)年頃までと考えられる。
おそらく昭和初期の銃砲店カタログに掲載されていた事を根拠に、昭和3(1928)年頃まで製造されたといわれる南部式拳銃だが、それは在庫が記載されたもので生産終了はそれより数年早かったはずだ。
南部式大型拳銃開発の動機
ここでなぜ南部式拳銃が作られたかという事を的確に示す資料を今一つ上げて、既述の史料とのつながりを見ておきたい。
これについての史料は、偕行社記事、明治34(1901)年1月下旬282号P.9~P.11に掲載された「小銃談」の記事で、南部麒次郎が、三十年式歩兵銃の初期不良を改修のため全国を飛び回った話の結びに、工廠熟練工の継続雇用のために兵器売込みを「追々東洋 諸邦ニ手ヲ延ス考ヘナリ」と明確に自身の言葉で語っている。
そしてその翌々年の既述の偕行社記事には、明治36(1903)年8月下旬320号P.80~P.81「内事」に記された「新拳銃」という記事の、第五回内国勧業博覧会(明治36年3月1日~7月31日)に出品するために最初の試作品が完成したという事実が記されている。
以上の事に、その後の南部式拳銃の輸出状況を考え合わせると、日露戦争後の東京砲兵工廠の事業継続の為の輸出用モデルというのが南部式拳銃開発の動機である事がより明確にわかる。
6月号に続く
Text by 杉浦久也
Gun Pro Web 2025年5月号
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