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2019/10/31

【試し読み!】二丁目のガンスミス【小説】

二丁目のガンスミス

柊サナカ

 

 


 

第一話 二丁目のガンスミス

 

 売場には、子供の泣き声だけが響きわたっていた。
「黙れクソガキ!」
 髪を掴まれ、ひときわ高く泣き叫ぶ声がする。小学生にもならないくらいの、まだ幼い女の子だ。
「ママ! ママあ!」
 たまらず母親が駆け寄ろうとするその目の前で、男が低く言う。
「ババア動くな」
男が、女の子の傷ひとつない額にごりごりと押しつけているのは――拳銃だ。
「お願いします、私が、代わりをしますから! その子を離してください!」
 母親の声が震えている。
「その子は喘息なんです、人質なら私が代わりになります! どうか」
 それを聞いた男は、女の子の髪を掴んだまま母親を見た。男の腕から力が抜ける。
 さあ、おいでと手を伸ばした母親の目の前で、男は、女の子のやわらかそうな髪の毛を、手に巻き付けるようにして強く掴みなおした。女の子の踵が床から浮いて、悲鳴が上がる。
「好都合だ。はやく外に車と金を準備するように伝えろ。このガキは連れていく」
 さっき撃たれた店員のうめき声が、だんだんと小さくなっていく。床には手作りらしきクマのぬいぐるみが、笑顔のまま落ちていた。

 

 ここは町外れにある百円均一ショップの二階。どこからか、ヘリの音らしきものが遠く響いている。外から警官の説得の声も続いているが、窓は派手なカラーリングがなされており、外の様子はまったく見えない。事態は膠着していた。
 男は、警官の姿が少しでも見え次第、子供を即、殺すと宣言していた。
 古手川京介は、なるべく安くお腹がふくれるものを、と思って、食品売り場でなるべく量の多い小麦粉やパスタなどを選んでいたところだった。階段で誰かが走るような物音がした、と思うと、目の血走った男が階段を駆け上がってくるのが見えた。汗だくになっていて、口の端から泡のような涎を垂らしている。ひと目でわかる異様な雰囲気だった。片手を上着でくるんでいる。
 なんだあれ、と思って見ていると、たまたま通りかかったであろう子連れの母親をいきなり蹴倒した。持っていたかごから、ケーキ作りの型や、ナッツや材料の粉みたいな細々したものが散らばった。京介の足下にも、小さめの泡立て器が転がってきた。
 店員が「ちょっとあんた! 何やってる! 警察を呼ぶぞ!」と、男に駆け寄ろうとしたその直後。軽い音がした。ポップコーンが弾けるような。
 もう次の瞬間には、店員は膝から床に崩れ落ちていた。
 明るい緑色をした制服の背に、血の色の穴が開いていた。脇腹を貫通したらしい。銃声は、テレビや映画などで聞くよりも、もっと乾いた音がした。目の前で広がるこの光景に思考が追いつかない。膝が固まったかのように動かない。
 一人が後ずさり逃げ出そうとして、京介も慌てて続こうとした矢先、また銃声が響いた。
「動くな。動いた奴から撃つ」
 男が銃をこちらに向けている。
 わけもわからないまま一角に固められ、逃げ遅れた客は京介を含めて七人。この建物が窓の少ない作りであり、周りの建物からも距離があること、窓からは一切外が見えないこと、この二階が最上階で、出入口が一カ所しかないという店の造りも、事態を深刻にしていた。
 男は女の子に銃を突きつけたまま、柱を背にしてもたれた。ずっと、何も見えないはずのところをじっと凝視したり、何かぶつぶつ言っている。
 全員膝立ちになって、手を頭の後ろで組め、と命令されていたので、さっきからずっと同じ体勢でいる。腕がしびれて来た。
 男は、ちょっと銃を触って、スライドする部分が堅いのか、何度か前後させようとしている。
「おい、何見てんだてめえ」
 京介は、さっと目をそらした。
「おい、そこの女。ここにいる全員の財布を集めろ」
 男が、こちらに銃を突きつける。
「お前だ。そこの眼鏡の女」
 銃口の先にいるのは、女の人だった。ショックで表情を失ってしまっているのか、まったくの無表情のまま、ゆっくりと立ち上がる。
 女の子のすすり泣きが聞こえる中、女の人はレジ袋を一枚とって、最初に自分の財布を入れると、客、一人一人の前に立った。
 京介は自分の全財産の入った――とは言っても、たったの二千四百円なのだけれど、その財布をおとなしく出すかどうか一瞬迷う。(こんなことをしたところで逃げられませんよ)(建物は包囲されています。これ以上罪を重ねるのは……)などと、男に面と向かって言ってやりたいことが頭の中で渦巻く。結局、無言で財布をレジ袋の中にぽとんと入れた。犯人をこれ以上激高させてしまったら、と思うと動けなかった。もう逃げられぬとヤケになって、ここにいる全員に銃を乱射する恐れもあった。
 ちらっと、レジ袋を持った女の人を見上げる。この黒縁眼鏡の女の人、どこかで、と思った。やっと、記憶の中の顔と一致する。つい最近までバイトしていたコンビニに、たまに来ていた女の人だった。近所に住んでいるのだろう、常に目を合わせないように、黒縁眼鏡の奥の目を伏せて、いつも長い髪をひとつにくくっていた。たいてい、ビスケットやシリアルなどの簡単なものを買って……今日もそうだけれども、いつも体の線を隠すような、長いスカートにだぼっとしたセーターを着ている。やぼったい姿はまるで若い女の人のようではなく、子連れのおばさんみたいだ。近くでまじまじと見て、この人、こんなに若かったんだということに今さら、気づく。
 その女の人が、淡々とレジ袋に全員の財布を集めていく。
「時計もだ」
 男が言うと、女の人は高そうな時計をしているサラリーマンの前に立った。男は「レジ」と言いながらレジを拳銃で指し、二台あるレジも開けさせる。開け方がわからないのではないか、と京介は思ったが、女の人はすんなり開けて、札の束だけを抜き出した。トレー下の、まとめた札も抜き出した。
 そこへ置け、と拳銃で床をさして、その女の人はそのまま従った。かさり、とレジ袋の音が鳴る。
 泣きつかれたのか、女の子の泣き声が小さくなっていった。ひっく、ひっくとしゃっくりみたいな不吉な音が数回したかと思うと、代わりに笛みたいな音がしはじめる。首を手で押さえ、苦しいのだろう、のどをかきむしるみたいにしている。
「マリちゃん! 薬を! おねがいします、薬を!」
 男は無造作に片腕を伸ばした。銃口がまっすぐに母親に向けられている。
「好都合だ。ガキが死ぬぞ! 車と金を急げと下に叫べ! ほら早く叫ばねえとお前の目の前でガキが喉詰まって死んじまうぞ!」
 狂ってる。
 男は、女の子の髪をつかんだまま、笑っていた。
 僕に、何かの能力があれば。京介は思う。いますぐあの男の息の根を止めることができるのに。小さな女の子があんなに苦しんでいるのに。できない。何も。僕には。何ひとつ。
 神様。
「さあ叫べ!」
母親が、側にあった花瓶を窓に投げつけた。
 ガラスが割れて、人ひとり顔が出せるくらいの穴が開く。
「子供が発作を起こして! お願い誰か! 誰か! 早く助けて! 助けてください! この人の指示に従って! お願い!」
 ひゅうひゅう苦しそうに鳴る喉の音。
 男の笑い声がそれに重なった、瞬間――
 京介は、ぱしゅっ、というような、ほんの小さな音を聞いていた。
 何か風を切るような。
 かすかな音。

 

 爆発音がした。
 銃が床に落ちている。
 あたりは、しんと静まりかえっていた。

 

 その場にいた誰もが、何が起こったのかわからなかった。男ですらも、何が起きたのかわからなかったろう。
男の指がありえない方向に曲がっている。
 はっとなったサラリーマンが、革鞄を滑らせて拳銃を遠くにはじき飛ばした。
 誰かが割れた窓の穴に叫んだ。
「今です! 今! 入って! 銃が暴発した!」
 サラリーマンが側にあった椅子を振りかざして、男を取り押さえようとするのと、警察がなだれ込んできたのは同時だった。
 母親が女の子を抱き起こす。
 目の前で組み伏せられ、取り押さえられる男を見ながら、京介は思う。
 あのとき、男がよそ見しながら笑った拍子に、少しだけ、押し当てていた銃口が、女の子の額からそれた。
 銃が、こちらを向いた瞬間が確かにあった。
 ほんの小さな音がして。
 ほとんど同時に、銃が落ちた

 

 超能力か。
 いや、そうじゃない。
 誰かが、撃ったんだ。それも、銃だけを狙って。
 誰が。潜入した特殊部隊か。
 京介はゆっくりと後ろを振り返る。
 目があった。
 京介の背後にいたのはただひとり。
 黒縁眼鏡の女の人は、ゆっくりと眼鏡をかけ直す――

 

 警察で事情を聞かれた時も、京介は、突然男の持った銃が爆発して、ということを語った。
 位置関係についても、興奮していてあまり覚えていません、と前置きをして、サラリーマンのことを主に話した。
 よくわかりませんが。僕らの他に、後一人、居たような気がしたんです。と言うと、刑事のふたりとも詳しく聞きたがったけれど、そんな気配がしただけです。と濁した。
「あの。そういえば」と京介は帰りがけに足を止めた。「眼鏡をかけた女の人がいましたよね。あの人が、僕の隣にいてくれて、励ましてくださって、すごく心強かったんです。一言、お礼を言いたくて」と言うと、まだ十七歳と若いのに礼儀正しくて感心感心、というような顔をして、刑事が頷いた。
「ああ、あの二丁目の本屋さん。名前はなんだったかな。確か、お花の名前……そうだ。ひまわりだ。ひまわり堂の店主さんだよ」
 二丁目に本屋。あのあたり、本屋なんてあったっけ、と記憶をたどっていって、本屋というよりは、よくわからない民家みたいなのがあったな、と思い出す。バイト先だったコンビニともまあ近いので、間違いないだろう。扉を閉め切っていて、何を売っているのかわからなかったけれど、あれは本屋だったのか、と思った。
「そういえば、今日は、高……いや、アルバイトは休みかい」
 気のいい刑事は、世間話ついでに高校、と言いかけて、慌てて口をつぐんだようだった。
「ええ。もう新しいところを探そうと思っています」
 見つかれば、だけど。余計なことは言わず、京介は警察署を後にした。

 

 京介は鏡に自分の顔を映す。じっと見ておく。目元は母に似ていると自分でも思う。目尻の黒子なんかも。
 なんとなく、髪を綺麗に整える。
 京介は、あの女の人がいるという、ひまわり堂へ行ってみることにした。バスで二十分ほど揺られて、大通りから入り、数分歩いたところに、その店はあった。
「ひまわり堂」という、手書きの看板だけが新しい。パステルカラーでひとつひとつ文字の色が違う。かわいらしさを頑張って出そうとしているのだろうが、お店自体の古さからは看板だけが浮いていて、妙な感じがした。
 本屋というと、外の台にも雑誌や何かを並べて置いたり、売れ筋の本のポスターやPOPを貼ったりするものなのだろうが、その本屋は、ぼろいアルミサッシの扉を締め切っていて、どうにも入りにくい。よくあるような古本屋なのだろうか、と思えばそうでもないらしい。窓にも、銀色のフィルムみたいなのが貼ってあって、中は見えない。
 息を整えてから、引き扉を開ける。
 家の一角を店舗にあてているのか、四、五人も入ればいっぱいになってしまうくらい、店は狭かった。四畳くらいの空間に、壁に沿って天井までの棚が置かれていて、中にはびっしりと本が並べられている。脚立が隅に畳んで置かれていた。
 眼鏡の女の人はレジの所に座っていて、何か本を読んでいるようだった。長めの前髪を流して耳のところにかけている。黒髪のせいなのか、太い黒縁の眼鏡のせいなのか、肌がほんとうに白く見える。手元の本は、綺麗な色合いと字の少なさから、写真集か何かだろうかと思ったら、写真みたいな緻密さで描かれた絵本のようだった。女の人が、ふっと目を上げる。そのまま気のない態度でこちらに微かに会釈し、また絵本に目を落とした。
 店の棚はカラフルな色彩にあふれていた。どれも背表紙がいやに大きいな、と思ったら、本棚の中はよく見たらぜんぶ絵本なのだった。こんなにもいろんな絵本があるのか、と思う。
 昔好きだった、なつかしい絵本もあった。ねずみが出てきて、力を合わせておいしいものを食べる絵本だ。絵本のことを思い出すと、家族の思い出とともに、心の奥がちりっと痛んで、すぐにその考えを追いやった。
「あの」
 女の人は、こちらを見た。
「僕のこと、覚えてますか」
「いえ……すみません」
 その目は本当に何も覚えていないような目で、京介はここに来たことが自分の妄想にすぎず、すべてが間違いだったかのように思えた。
 でももう、後戻りはできない。
「あの事件の時に、一緒にいた者です」
「はあ」
 女の人は、無表情のままそう言った。事件のことすら記憶にないかのような態度だ。
「あの時、犯人の銃が、突然、爆発? ええと、暴発、しましたよね」
 眼鏡の奥の目が、この子は何を言っているのだろう、というようにまばたきしている。
「おかしいなって思ったんです。だってありえない。あのタイミングで、急に男の持った銃が暴発してしまうなんて。あのとき、誰かが、何かをしたのは明らかです」
 女の人の反応を見るも、特に何の感情も読めなかった。
「みんなの視線が、女の子の母親に集中していたあの時、確かに、何かがあった。その何かは、男がよそ見していて、かつ、こちらにまっすぐに銃が向いた瞬間、ほとんど音もなく銃を弾き飛ばした。それは威力が大きすぎてはいけない。他の人にも、すぐにそれと分かってしまうから。それを可能にするのは――」
 京介は言葉を切って、いったん女の人の反応を見る。
「一つは拳銃。僕は銃には詳しくありません。でも消音器がついた銃が、あの場にあったとしたら。ほとんど音もなく弾を発射できて、消音器が外れると、女物の鞄にも入るくらい小さくなる銃が」
 女の人は、絵本のページをめくった。
「そしてもう一つは、その銃を完璧に扱える人間」
 ここで、名前のわからない、このくらいの年の人にどう呼びかけるか少し迷う。おばさん、では絶対ないし、あなた、でも偉そうな気がする。とりあえず、お姉さん、でいいことにする。
「僕はコンビニでアルバイトをしていましたから、あの位置に監視カメラがあるなら、カメラから死角になる位置はわかります。監視カメラからは死角になる位置。そして僕の後ろにはあのとき、お姉さんひとりしかいなかった」
 ページをゆっくりとめくる手は、止まらない。
「あのとき。銃を撃ったのは、お姉さんですね」
 女の人が、ぱたんと絵本を閉じた。表紙は、きれいな魚の絵だった。
「ごめんなさい。ちょっと何を言っているのか、よく分からなかったんですが」
 ちょっと低くて、いい声だなと思った。
「何かの、思い違いではありませんか」
 そう返されることは、京介にも予想がついていた。
「いいでしょう、お姉さんが認めないのなら。僕は警察に、もう一人の人がいたかもしれないと、わざと嘘の証言をしています。お姉さんの位置も意図的にぼかして伝えてある。いまから、銃を撃ったのはお姉さんだと、ここで一一〇番して警察に証言します。あの場で、本当はもう一挺の拳銃があったことに気づいていたのは僕しかいない。いま、ここで家宅捜索されたら困ることになるのではないですか」
 女の人が、黒縁眼鏡を外した。
「君の望みはなに」
 黒縁眼鏡の印象だけが強いけれど、ほんとうは、まつげもすごく長くて、黒目と白目の境がくっきりしている、切れ長の目だ。その目がはじめて、しっかりと京介を正面から見すえた。
「お姉さんは、殺し屋なんですね」
 答えない。
 京介はそのまま続けた。
「人を、殺してほしいんです」
 女の人は、ゆっくりと瞬きをする。
「殺してください」そのまま、じっとこちらを見つめている。「――僕を」
 その言葉は、女の人にも、ちょっと意外だったらしい。少しだけ目を見開いたのがわかった。
「わたしに、殺されるためにここに来たの」
 うなずいてみせた。
「ここに来れば、楽に死ねるとでも?」
 女の人は、息をついた。
「じゃあ、もしもわたしが殺し屋だとして……」顎に手を当てて、少し考え込む。「たとえばの話。仲間の誰かを呼んで、君を死ぬまで拷問して海に沈めるとか、いろんな薬物の被験者として使うとか、生きたまま内臓を取り出して売ってしまうとか、そういう方面については、ぜんぜん考えてない?」
 弁当のメニューでも言うみたいに、さらっと出てきた例が闇深くて、ひるみそうになる。この人は、自分とはまったく違う世界に生きているということが、ありありとわかった。
 京介は続ける。ここで言葉をひとつでも間違えたなら、たいへんなことになるのを肌でぴりぴりと感じながら。
「たぶんですが。お姉さんはそうしない。そんな手間を僕にかけるより、僕を一人で始末したほうがずっと楽で手間もかからないから。もしもお姉さんにそういう仲間がいたとしても、あの場で発砲して、それを一般人である僕に知られてしまったっていうのは、とりあえず、すごく大きな失敗ですよね。いま僕を始末すれば、この失敗を誰にも知られずにすみます」
 まだ足りないような気がして、付け足した。
「あの。僕が死んでも、探したり、警察に連絡したりする人は、ひとりもいません。その点では大丈夫ですから」
 女の人は立ち上がる。目線が自分より少しだけ低いところにあって、思ったより背が低かったことを知る。花とスパイスが混じったような、いい香りがする。女の人は、本日休業の札を手に取っていた。
「まあ、あんまりお客さん来ないんだけど」
 外に札をかけ、シャッターも閉めて、内側から鍵をかけた。
 レジ奥の、住居部分につながっているであろう扉を開ける。廊下になっていて、本棚が並べて設置してあり、そこにも天井までびっしりと本が置かれていた。絵本の在庫を置いている、バックヤードの棚のようだった。
 一冊の本を二度引いて戻し、もう一冊を奥まで押し込むと、棚ごと手前に開いた。その奥は、鉄製の隠し扉のようだった。暗証番号を押す。
「ついてきて」
 言いながら、女の人がコンクリートの階段を降りていく。人が一人入れるくらいの狭い階段だった。照明が、ふたりの影を妙にゆがめて映す。
 女の人が履いていた、低めのパンプスの、かつん、という足音が響く。階段をどんどん降りていく、体感では二階か三階分くらい降りただろうか。
 突き当たりの鉄扉のセンサーを操作して開けると、がらんとした空間に出た。一歩入ると、嗅いだことのないような妙な臭いが鼻を刺激した。中はまったくの無音だった。明かりが灯ると、何かの空調設備みたいなものも稼働し始めたのか、重低音がする。
 そうだ、この臭い、花火と似ているんだ、と急に思い出す。
 ぱん、と手をたたいてみると、音が溶けるみたいに消えた。壁の材質が特別で、音が吸い込まれているようだった。異様な静けさだった。
 その細長い部屋の突き当たり、奥の壁だけは、ゴムのようになっていて、その前に、映画などで見慣れた物がぶら下がっていた。人の形をした、紙の標的だった。
 天井には鉄製のレーンがあった。操作するボタンと、デジタルの距離計みたいな物もあるところを見ると、紙の標的は、レーンに沿って動かせるのかもしれなかった。重低音の出所は天井のようだ。天井に数カ所、巨大な換気扇のようなものが見える。
 ゴミ箱には、穴の開いた紙の標的が、無造作に捨てられていた。すごい量だった。
 何に使うのか、三脚のような物も置いてある。工場にあるような巨大な機械も。
 壁を見ると、いろんな大きさの銃が並べてかけられている。隅には何をするための物なのか、大きな机があった。薬品類が並び、ヤスリ等の工具の間に、何に使うのかもわからないような工具がびっしりと並んでいる。
 壁を埋め尽くすように、いろいろな銃がかけられている中、ひとつだけ、とても目立つ銃があった。それは机のすぐ前にかけられていて、位置から言っても特別な銃であるようだった。曲線的なラインで構成されている。小ぶりで、グリップは白い。SF映画に出る光線銃のような未来っぽい形でもあり、薄くピンクがかったような銅の色が美しい。こんなに綺麗な銃がこの世にあったなんて。
 じっと見つめていると、声がした。
「わたしの銃。ホイットニー・ウルヴァリン」
 わたしの、という言い回しに、少し、ひっかかりを覚える。こんなに並んでいる銃の中で、わたしの、じゃない銃もあるということだろうか。いったいここは何なのだろう。
「ひとつだけお願いを。撃つ前に、僕に、あのときの銃をよく見せてくれませんか」女の人の背中に言った。「どうせ死ぬなら、銃で撃たれたかったので」
 女の人は、びっしりと壁を埋め尽くすようにかけられた銃の中から、一つを取り出した。銃と言うより、アルファベットのTの字のようでいて、拳銃らしくは見えない。
「あの日、鞄に入れていたのは、この銃。B&T(ブリュッガ―&トーメ) VP9、弾薬は9×19㎜の高速弾。撃てば、音速に近いくらいの速さで弾丸が飛ぶ。まあ、あの時の弾は、空の薬莢にわたしが火薬を詰めなおしたサブソニック弾だったから、もう少し速度は遅めだけれど」
 黒い筒のような、消音器らしき部分を、短い筒の先にセットすると、ようやく銃の形らしくなった。「B&T VP9は、このシリコン樹脂でできた消音器(サプレッサー)をつけたら、音は本当に小さくなるようにできている」
 銃を目の前に掲げる。
「この銃は、グリップを外して、ただの筒のような状態でも撃てるようになっているの。あの日も、こうやって鞄に」
 グリップが外れると、本当に、黒い筒のようになってしまった。これなら鞄の中を誰かに見られても、とても銃だとはわからない。これはスタイリッシュな水筒です。ダイエット器具です、と言っても通じるかもしれない。

 


「このスイス製の銃は、獣医さん用に作られたそう」
「獣医、ですか」
 ここで、獣医という言葉が出てきたことを意外に思う。
「街の中に手負いの鹿なんかの野生動物が紛れ込んで、早く楽にしてあげなければならない。でも、街の子供たちなんかが見ている前で、大きな銃を出してとどめを刺したら、それはそれはショックでしょう。だから銃に見えないような銃、静かに撃てる銃、でも確実に動物を仕留められる銃が必要だった」
 京介は、なるほど、心優しい獣医さんが、動物を楽にしてあげるために使う銃なのか、と納得した。
 女の人が、じっとこちらを見た。「信じたの?」
「え」
「あくまでそれはメーカー側が、表向きに打ち出した建前。これの真の用途は、野生動物よりももっと賢く、やっかいで業が深く、弱いようで強い、ある動物を撃つことを目的に使われています」
 人間だ――と思う。
 あの時も音がほとんどしなかった。側に人がたくさんいるあんな状況でも、誰にも気づかれずに撃てた。言い換えれば、要人暗殺にも使えるということだ。
 ぞっとした。
 たてこもり事件の時も、この銃をどこかで使ってきた後だったのかもしれない。
「あの。そこに立たないで、こっちに立ってくれる」
 女の人が、銃に元のようにグリップを付けながら、淡々と言う。
 見れば落ち着いた柄の敷物があった。血とかそういう、いろいろなものが出て汚れたら困るのだろうな、と思った。今から行われることが、ようやく実感を持って感じられて、ぶるっと一回だけ体が震えた。「すみません」
 京介は、その銃をじっと眺めた。自分の命を刈り取る物の形を、よく覚えておこうと思った。それにしても、つや消しの銃の黒は、とても美しく見える。
「銃創学(ウーンド・バリスティック)というのは、柔らかいもの、たとえば身体への弾の影響を研究する学問なのだけれど。よく知らない人は、弾が――弾丸(ブレッド)が、ドリルみたいに体内を進んでいくと思っている。でも本当は、弾丸は潰れて、ちぎれながら肉を貫通していくの」
 そう言って、長い指で心臓のあたりをとんとん叩かれた。触られたところがそこだけじんじんするみたいになる。こんな時なのに、頬が赤くなっていませんように、と思う。
「体の中、弾丸の通ったあとに、瞬間的に空洞ができる。弾の直径よりももっと大きな空洞が、体の中の組織を破壊しながら進んでいく。人間が撃たれたとき、弾丸が当たったところより離れたところにある内臓なんかも、かなりのダメージを受けることがあるのはこの空洞のせい。湖に石を落としたとき、波紋ができるみたいな感じで、弾丸のエネルギーがダメージとして伝わっていく。そうやって弾丸は、一瞬で、君の身体を破壊していく」
 胸に当てられたひとさし指が力を増す。
「わたしは撃つ。君の肉体は損なわれる。もう二度と戻ることはない」
 指が離れて、京介は、ふうっと息をついた。
「じゃあ、わたしもひとつ質問を。なぜ君が、自分自身を壊したくなったか話してくれる」
 京介は迷ったけれども、話すことにした。自分自身の話なんて、誰にも話したことはなかったけれど、人生の終わる今、誰かに話しておきたい気持ちもあった。死んで残すものが、こんな話しかないというのは、我ながら情けないような気もするけれど。
「僕、一人暮らしをしているんですが、もう住んでるアパートの契約も切れるんです。中学卒業してから、すぐにコンビニで働き始めました。でももう、そこもクビになっちゃいました。またすぐに職を見つけて、次の部屋もすぐに見つけないといけないんですけど、保証人もいないし、どこも僕みたいなのを採用してくれるところはなくって」
 女の人が口を開いた。「失礼だけど、親御さんは」
「いました。今は居ません」
 どうしてこうなってしまったんだろう、と思う。本当に普通の家庭だった。父親と離婚した母親が、夜の仕事を始めて。だんだんと帰りが遅くなって。
「母親は僕が中学のころから、つき合ってる奴の家に入りびたりだったから。義務教育済んだんだから、あとはもう自分でやりなさいって。アパートに入居するときのお金は出してくれたんですけど、仕送りも、とうの昔にとぎれてしまって、どこにいるのか、もう連絡だってつかないんです」
「そう」
 女の人は、それだけ言うと、黙った。
「生きて行くにもやっとみたいな生活がこの先、死ぬまで続くんだと思うと、もういいかなって。コンビニだって、ほかのバイトの人のお金が、財布から抜かれたっていうことがあったんですが、そのとき同じシフトだった大学生じゃなくて、僕のせいにされました。おまえみたいな育ちの奴が、って誰もに薄々思われてて、周りのそういう目にも気づいてて、もう疲れました。どうしてこんなに、なにもかもうまく行かないんだろうって」
 京介は、B&T VP9をじっと見つめた。
「その美しい銃で、一瞬でなにもかも終わりになるのだったら、いいなって思いました。あんなふうに、銃だけを狙って撃てる人です。お姉さんなら絶対に外さないから。すぐに天国へいける」
 言ってから自分でちょっと不安になった。「行き先は地獄かもしれないけど。ここじゃないどこかなら、それでいいです」
 女の人は、「わかりました」とだけ、静かに言った。
 京介を細長い部屋の真ん中に立たせる。
 女の人は、五歩ばかり離れて、京介の真正面に立った。
「後悔はしないの」
「ええ、お願いします」
 怖くないと言えば嘘になる。
 でもこれですべてが終わるのだ、金の不安、仕事の不安、住むところの不安、将来の不安からも、すべて解き放たれ、完全な自由になれる。
 銃といえば、照準を定めて、じっくり狙う、みたいな予備動作があるものと思っていた。でも、女の人はすっと両腕をあげて。
 そのまま撃った。
 京介は膝をつく。
 床に、何かが落ちる硬質な音がした。
 荒く息をつきながら、自分を抱きしめるみたいに身体を丸めた。即死だから、痛みさえ感じないのか。このまま意識が薄れていき、もうすぐ、自分は完全な無になる。
 そのままべたりと崩れたまま目をつぶり、京介は、荒い息を繰り返していた。動けなかった。
「君は、今、死んだ」
 声がして、スパイスと花が混じったようないい匂いもして、うっすらと目を開けた。
 床についた手のすぐそばに、女の人が立っていた。
 綺麗な艶をたたえるパンプスのつま先から、黒いストッキングに包まれた細い足首、ロングスカートをそのまま上にたどって、ぶかっとしたセーターの裾から、中のほっそりしたウエストがのぞいて見えた。女の人は銃を握ったままでいた。
 そのまま、すっと両腕を上げて、無造作に撃った。
 女の人の視線を追う。背後の的の、ど真ん中に穴が開いている。二回撃ったはずなのに、穴は少しもずれることなく、一つだ。
「わたしは殺し屋じゃない。――ガンスミス。整備屋」
 言いながら、ゆっくりと銃を下ろした。
「何よりも優先されるべきは、わたしのこの仕事。妨げるものは、何であろうと、どんな手を使おうとも排除します。すべて」
 まだ膝に力が入らない。
「あの。すみませんが、ガンスミス?の人って、銃、撃てるものなんですか」
 何かしゃべっていないと、はりつめた空気の中、沈黙が怖い。いきなり気が変わって真正面から撃たれるかもしれないのだ。死ぬなら死ぬで、心の準備が欲しい。いきなりは嫌だ。
「最高の仕事ができているかどうかは、試射してみるまではわからないから」
 女の人が、淡々と言う。
「でも、なんというか、射撃の時って、じーっと構えて照準を合わせなくても、あんなに正確に撃てるものなんですね」
 少しの間があった。
「だって、そんな風にしていたら、暗闇とか夜中はどうするの」
「どうするって……」
 普通に聞き返されて、この人はいったい、今までどういうふうな人生を送ってきたのだろうと思う。
「練習するの。まず的を見るでしょう。目と、的の間に、一本の線ができる。そこの上に、照準器(サイト)を重ねる」
 京介も的を見た。的と、自分の目との間の、目には見えない一本の線を想像してみる。
「毎日毎日、何千回何万回とそれを繰り返すと、その線の上に自然と銃が構えられるようになる。身体で、覚えるの」
 見よう見まねでやってみる。簡単に言うけれど、たぶん〇・一ミリでもずれたら、なにもかもずれてしまうのだろう。でも、そのくらいの経験がなければ、逸れた弾が女の子に当たってしまうようなあの状況では、とても撃てない。
「普通の人にはできないですね……」
「でも、初弾を必ず当てないと、反撃されたり、逃げられてしまうから。毎日練習すれば、一秒以下で照準を合わせられるようになる」
 京介は、ようやく立ち上がった。まだふらつくような気がする。
「とにかく」
 女の人はこちらをまっすぐに見据える。
「君に見られたなら、このまま家に帰すわけにはいかない。君がいつ、わたしの情報を誰かに売るかもしれないし、情報がどこかから漏れるかもしれないから」
「僕は、お姉さんを売ったりしません」
「寒さと飢えは、たやすく人の判断力を鈍らせる」
 こつん、とひとつだけヒールの音が鳴って、静かになった。
「秘密を守るためには、わたしは手段を選びません。ほとぼりがさめるまで、君をわたしの監視下に。今後、すべての自由はないと思ってください」
「監視下……って」
 監視下というと、思い浮かぶのは監禁の二文字だ。どこかに監禁されるのだろうか、たとえばこの音もせず、光もない地下室の一角に、鉄の鎖につながれて何十年も、などと不安になる。急に息苦しくなってきた。
 そんなふうに監禁するならば、いっそ今、殺してくれればいいのに。
「ほとぼりがさめるまでって、いつまでですか」
「さあ」
 女の人は首をかしげた。
「トイレと風呂は共同になるけれど。部屋は余ってるから」
「え」
 銃をしまうと、女の人は、扉を開けた。
「行きましょう」
「あの、行きましょうって、どこへ」
「部屋の契約を終わらせるのと、荷物をまとめに」
「荷物って」
「君の荷物」
 ああ。そうか、と一瞬思って、荷物? と頭の中が混乱する。監禁は監禁なのだろうけれど、荷物をまとめて来いっていうのは何だろう。
 でも。もしもいまから、何かを少しでも間違えてしまえば、即座に撃たれるのだろう。
 バランスを崩せば真っ二つに体が切れる、刃の上を歩くような状況でありながら、どこかわくわくしている自分に気づく。
 何かが動き出そうとしている。
 女の人からは表情がまったく読めず、沈黙がなんだか怖いのもあって、この際、階段を上がりながら、気になっていたことを聞いてみる。
「あの事件の時、銃を持っていた、あの男は殺し屋だったんですか」
「いえ。違います」
 女の人は断言した。
「あれはただの、薬でおかしくなってる下っ端のチンピラ。おおかた、表に出ない金でもくすねて、逃げるところだったのでしょう」
「でも、ああやって、店員さんを撃って……銃って、素人にはとても撃てないものかと」
「あの銃――日本に入ってくるトカレフは、中国産とかの粗悪な模造品も多いのだけれど。あれは純正のトカレフでした。でも、途中からは弾丸が出なくなっていたの。あの二発以上は撃てない状況だった」
「撃てなかったって、どういうことですか」
 そんなことが、どうしてわかるんだろう。
「銃に安全装置(セイフティ)がかかっていたから。ところで、撃鉄(ハンマー)ってわかる?」
 撃鉄。聞いたことがあるけれど、はっきりとは知らない。
「銃っていうのは、簡単に言うと、撃鉄が、中の撃針っていう太い針みたいな部分を叩くと、そのショックが弾薬に伝わって、弾丸が飛んでいく仕組みになっているんです」
 なるほど、と思う。
「トカレフは通常、セィフティのない銃だと一般的には知られています。でも実は、撃鉄を少しだけ起こした状態だと、スライドがロックされるという隠し機能みたいな機能があって。大戦中、急降下のGでスライドが動いて暴発事件が起きたことから、その機構ができたらしいです」
「だから、あの男は途中、ちょっと慌てたみたいになっていたんですね。なんだこれ、動かないぞって」
 あの状況で、そんな些細な撃鉄の位置すらも見逃していなかったなんて、と思う。でも、よくよく考えてみると、この女の人には、あの時点で、すべてわかっていたことになる。銃の扱いから判断して、男が考えなしの素人であること、安全装置がかかっていたことも。
 ではなぜ、男の銃からは弾丸が出ないと知っていながら、あんな行動に出たのだろう。
 階段を上りきると、元の、本がびっしりと置いてある通路に出た。すごい冊数だ。どれも、絵本ばかり。
「あの……お姉さんは、子供が、好きなんですか」
「別に」
「でも、こうなったのは、あの女の子を助けたかったからですよね。弾丸が出ないと知っていたなら、警官が突入するまで、待っていたらよかったのに」
 僕に、拳銃の秘密がばれることもなかったのに、と京介は思う。
「子供の泣く声は好きじゃない。それだけ」
 女の人は、机に置いていた黒縁眼鏡をかけた。玄関の扉を開けると、もう外は見事な夕暮れが広がっていた。
「名前は」 
「古手川京介です」
 きょうすけくん、と、ちょっと練習するみたいにつぶやいた。
「わたしは、美夜。白藤美夜(しらふじみや)」
 こうして、ふたりの奇妙な共同生活が始まったのだった。

 

 美夜の車は紺色で、美夜のイメージとは違い、意外に大きい。ルノーのカングーという車らしい。助手席に、ちょっと緊張しながら乗り込んだ。
「次を、右です。それから道なりで」などと言いながら道案内すると、ようやく見慣れた古アパートの屋根が見えてきた。近くのパーキングで車を停めて歩く。
 美夜が、離れの大家さんの家をノックした。「はあいどなた」と、だるそうな声がして大家さんが出てきた。チリチリのパーマをあてて、頭痛でもするのか、こめかみに膏薬の絆創膏みたいなものを貼っている。
「わたくし、京介の姉のキョウコでごさいます。弟が大変お世話になりまして。お忙しい時間にすみません」
 美夜は、そつなく言いながら会釈した。なんという説得力なのだろう。京介も、斜め後ろでぺこりと頭を下げる。
「あ、ああ。お姉ちゃんいたのね、知らなかったわあ」
 ははは、とわざとらしく笑った。
「ええ。イギリス留学から帰りまして。弟とは二年ぶりです」
「留学……へえそうなの」
 ここ更地にするから、今すぐ出て行ってね、と言い渡されたのが二ヶ月前だ。
「わたしがこのタイミングで帰国していることもありまして、今日、部屋を引き払うことにしました。契約などを確認させていただきたいのですが」
「ああ、そう。それね。じゃあサインを……」
「敷金と礼金のことなのですが、もちろん返ってきますよね。あと、そちら都合の引っ越しと言うことで、引っ越しにかかる費用も今日いただいて帰りたいのですが」
「ええ」あきらかに不満そうだった。この大家のおばさん、ケチで有名なのだ。
「あら?」美夜が首をかしげる。「どういうことなの、京介。まさか何もいただいてないの」
「え。あ。姉ちゃん、ええと……」
 無表情でじっとこちらを見ている。この間が怖い。
「いただいていないのね」
 美夜が大家に向き直った。
「一般的に立ち退き等の告知は、六ヶ月前から引っ越し等の準備期間として先に伝えることが慣例とされていますが。そのあたりはいかがですか。京介、そのことを聞いたのは、いつ」
「ええと。八月だから、二ヶ月前」
「なるほど」
 美夜は腕を組んだ。右手の人差し指が拍子を取るみたいにとんとんと動いている。
「では期間が六ヶ月に満たないと言うことで、こちらも部屋の明け渡しを延期します」
「え? いや、でもそれは困るのよ」
 大家さんが慌て出す。
「でも現に、弟には引っ越し費用も準備できていないようですし」
「あなた出せないの、姉でしょ」
「姉弟といえども生計は別です。知恵は出しますが」
 大家が黙る。
「このアパートは、すぐに倒壊するほどの老朽化が進んでいるわけでもないので、立ち退きの正当事由を満たしていません。この場合、弟が立ち退きに関する料金をいただくのは正当な権利かと」
「でもねえ……」
渋る大家さんに追い打ちをかける。
「引っ越し料は、だいたい十万円が相場です」
 十万、と聞いて、大家の眉間に深く皺が寄る。
「ですが弟は単身で荷物も少ないので、まあ五万円というところでしょうか」
 大家は、ここで渋ってあとで面倒なことになるリスクと、敷金礼金に加えて、五万を払い目の前のふたりを追い払うのと、どちらがいいか天秤にかけたらしい。腕を組んで、しばらく考えていた。
「わかった。振り込むから」
「ではここにその旨を文書に。サインと判も捺していただければ」
 美夜の鞄からさっとバインダーとペンが出てきた。
 苦虫をかみつぶす顔っていうのは、きっとこういう顔なのだろうな、と思えるような表情で、大家さんが家から判を持ってきて、サインをした。
「期日までにお支払いがないようでしたら――」と言いかける美夜を遮って、「わかってるわかってる振り込むから!」と、怒っているように言って、大家は、判を乱雑な手つきでついた。
 ふたりで階段を上ると、カンカンという軽い音が鳴る。
 京介は鍵を開けた。
「あ、あの。ちょっと手早く片付ける、ので、少しだけ扉の外で待っててくれませんか」
 扉を閉めて、ふうっと長く息をついた。緊張が解ける。
 電気をつけ、急いで、部屋の中で、見られたらだめなものがないか探し回る。とりあえず見られたくないものは鞄の中に詰めた。そういえば、この部屋に女の人が来るのは初めてなのだった。
「お待たせしました」
 ドアを開ける。今から監禁されようという、こんな時に何なのだけれど、このシチュエーションにちょっと照れるような、妙な気分になる。
「おじゃまします」と静かに言い、美夜が脱いだパンプスを揃えた。
 ワンルームの部屋の中を見回して、ちょっと驚いたようだった。確かに、がらんとしている。
「荷物はこれだけなの」
「はい」
「とりあえずまとめましょう」
 一見物がないように見えても、住んでいると意外に荷物はあるもので、フローリングに出した荷物が山になっていく。
「捨てる物はこちらへ。持って行く物はこちらへ」と、美夜が指を指した。
 ごとり、と一抱えあるホウロウの容器を、持って行く物コーナーへ置くと、美夜は興味を示したようだった。
「それは何」
「これ、ぬか床です。僕、ぬか漬け好きで」
「ヌカドコ」
 美夜は、ぬかはどこ、みたいなおかしなアクセントで繰り返した。
「どんな漬け物屋より、僕のぬか床が一等おいしくできるので」
 干し野菜や、一夜干しも取り込む。
「あ、こういうの、持って行ったらだめですか。すみませんが、冷蔵庫の中にもまだいろいろあって。ここでゴミにするよりは、当面の僕の食料にもなると思いますし」
 別にいい、と美夜が頷く。冷蔵庫の中から、塩麹と甘酒と、豚肉の味噌漬けと塩漬け豚、一夜干し、鶏のがらで作った白湯と二年ものの梅干、缶詰各種、野菜のスープストックを持って行くことにする。
どうやら、もう少し生きることになりそうだった。
 生きるとなれば、毎日ご飯を食べる。
 毎日ご飯を食べるなら、まずいより、おいしい物がぜったいにいい。それは京介のゆるがない信条だった。

 

 どんどん部屋の荷物を二カ所に積んでいく。
 美夜は、捨てる物コーナーにある本の束を手に取って、ぱらぱらめくっていた。なんとなく恥ずかしくなる。
 ゴミ捨て場から拾ってきた高校の教科書と、高校受験の参考書だった。まだそんなものに未練があったのか、と思う。さっさと捨てておくのだった。そうすれば美夜にも見られることはなかったのに。
「あ、それはもう、いらないです」
 美夜が、無言でその参考書の山を、持って行く物コーナーに積み直した。
「本当にいらないので。もう必要ないし」
「必要です」
「でも」
「あの大家は、京介くんが知らないであろうことを見越していて、搾取しようとしました。すべての知識は、生きていくための鎧です」
 部屋にあるすべてのものをいる物、いらない物に分け直したら、いる物は本当に少なくなった。
 美夜が、近くのコインパーキングに停めていた紺色の車をアパートにつける。大きな車だったので、荷物は楽に積み込めた。
「大家さんに、もう一回挨拶してきます」
「また来たのかって、いやな顔されると思います」
「それでも」
 京介がノックすると、げっ、まだ他に何かあるのか、という表情を隠さずに大家が出てきた。
「いままでお世話になりました。これ、よかったら一夜干しどうぞ」
 あらまあ、と大家が態度を一変させる。
「立ち退き、急に言って悪かったね。ちゃんと振り込むからね。これから頑張るんだよ」
 急に大家が態度を改めて、謝ってきたので驚いた。
 助手席に乗り込むと、美夜がゆっくりと滑らせるように車を進めた。美夜の横顔の向こうに、見慣れた景色が流れて行く。行き先は近くの町なのだけれど、冒険の始まりみたいに新鮮に見えた。

 

 ひまわり堂の横の小さな扉を開ける。そこが住居部分の玄関のようだった。女の人にしてはシンプルな雰囲気で、飾りのような物はひとつも置かれていなかった。全体的に古いけれど、落ち着いた佇まいだ。
「どうぞ。持ってきたものはひとまず廊下に」
「……おじゃまします」
 言って、両肩にさげていた鞄を玄関に置いた。ふたりで車まで何往復かすると、すぐに荷物は運び終わってしまった。
「玄関でちょっと待ってて。車、置いてくるから」
 ちょっと待ってて、って。美夜は、いま逃げ出したりしたらどうしようとか、思わないのかな、などと京介は思う。
 玄関の隅を見上げると、隅に監視カメラがあった。
 扉を開けると、壁のところにも、小さな監視カメラが仕掛けてあるのがわかった。
 靴箱には女物のパンプスとかハイヒールとかが少しだけあって、空いたところに、自分の一足のみの靴を置くと、なにかこう、いろいろなことを考えてしまう。
 わあ、同棲っぽい……監禁なんだけど、これ、もう実質、同棲って言ってもいいかも、と、ほんのり表情がゆるんでしまう。まあ、不手際があったら、その場でタアン! と眉間を撃たれてしまうのかもしれないけれど、でもこれは実質、ほとんど同棲だよな、と思う。
 しばらくして扉が開いて、すぐに表情を戻した。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
 言ってしまってから、「おかえりなさい」って、何だかいいな、と京介は思った。
「風呂とお手洗い、キッチンとリビングは一階、書斎と寝室は二階、個室の鍵は中から閉まるようになってるから。共同スペースは風呂とキッチン。私物は自分の部屋へ。キッチンと冷蔵庫は自由に使って。二階の京介くんの部屋は、物置みたいに使ってたから荷物はあるけど、そのうち運び出すようにします」
 ちらりとキッチンとリビングを見た。玄関と同じく、シンプルな部屋だと思った。
 階段を上がる。二階には三つの扉があった。
「ここが私の寝室。京介くんの部屋はここ。あと、書斎には入らないでね」
 寝室、隣なんだ……と思う。
 扉を開けると、がらんとしたフローリングの部屋があった。今までのぼろのワンルームより、ずっと綺麗で落ち着いている。隅には段ボールが積まれていたり、いろんな荷物があるようだったけれど、気にならない程度だった。
 部屋に荷物を置いた。布団袋も運ぶ。
「食材は冷蔵庫に入れておいたから」
「ありがとうございます」
 そうこうしているうちに、腹がくうぅ、という悲しげな声で泣いた。ずっと何も食べていなかったのにもかかわらず、あまりにいろんなことがあったせいか、空腹も忘れていた。
「そろそろ夕食にしましょう」
 美夜が言う。美夜はいかにもエプロンが似合いそうだった。ありあわせのものだけれど、ごめんね、などと言って、ぱぱっと何か作ってくれそうな雰囲気がする。たとえば親子丼とか。
 あ、僕も手伝います、みたいに、ふたり、隣で並んでご飯を作ったりするのかもしれない。ねえ京介くん、ちょっとこれ味見して。どうかな。おいしい? みたいに……
 どうするのかな、と思ってとりあえず見ていると、美夜はジャガイモを三個水で洗った。
そのままラップに包んでレンジにかける。
 チン、という音がすると、そのままジャガイモを鍋つかみで取り出して皿にあけた。塩をふたつまみくらい、皿の隅に置いた。
 さて、ここから何を作るのだろう。ポテトサラダかな、コロッケかな。
「あ。済んだから自由にキッチン使って」
「済んだって何がですか」
「いや。夕飯、できたので」
 京介は自分の立場もすっかり忘れて、嘘だろ、と言ってしまっていた。
「え、ちょっと待ってくださいよ。それで終わり? ご飯、それで終わりなんですか。何かの訓練とか、トレーニングのためにそうしてるとか?」
「いや。だいたいいつもこんな感じ」
「ダメですよ!」京介は前のめりになっていた。「栄養素は? ビタミンは? ミネラルとかもいろいろ足りないのでは、そもそも主食は?」
 美夜が、棚の薬瓶を取って、ちゃりんちゃりん、と鳴らした。
「サプリとかダメですって、ちゃんと食べないと、体、壊れますよ」
「でも、たまにゆで卵とかも、食べてるし……シリアルとかも、ほら、ビタミンとかが含まれているから」と、美夜が若干小さな声になって言う。
 無言で冷蔵庫を開けてみると、牛乳と炭酸水と水があるほかは、見事に自分の持ってきた食材しかない。ほとんど空だ。使われた様子もない。そういえば、コンビニでも、シリアルとか、菓子パンとかしか買っていなかったはずだ。
 奥に何かがある、と思ったら何かの火薬か電池のようだった。
 はああ……と聞こえないようにため息をつく。
 よく、どう見てもギャルみたいな子が、煮物とかが抜群に上手かったら、もうそれだけで株が上がるというものだけれど、いかにも料理上手そうな女の人が、まったくできないとわかったら、それはそれで、反対にものすごくがっかりするものなのだな、と思った。
「そういえば、美夜さん、コンビニでもシリアルばっかり買ってましたよね」
 美夜は、表情も薄いながら、決まり悪げになった。
「シリアルは、牛乳をかければできる完全食なので」
「あの、僕、作ってもいいですか」言ってから、頭を振った。「いや、頑張って作ります。お願いします、少しだけ時間をください。すぐできます。そのジャガイモもください」
 調理器具もないので、自分の持ってきた包丁やお玉を台所にセットした。よく使い込んだ鉄のフライパンや鍋、小さな土鍋も持ってきてある。米も余っていたのを持ってきていた。
 二合、米を研いでしっかり吸水させる。その間に、まな板に二本、長ネギをのせると、端からリズミカルにみじん切りにしていく。
「フライパンに、サバ缶を」言いながら、サバ缶を二缶開けた。サバ缶は安くておいしいので重宝していたのだった。水を入れ、山ほどの長ネギを入れる。愛用の土鍋に米を移して、火加減を調整した。
「僕はカレーのネギは甘く煮えたのが好きなので、長めに鍋に入れます。それからここに、カレールーを入れて」カレールーを割って溶かすと、いい香りがしてきた。
 ジャガイモは潰して、デザートとして片栗粉と混ぜていも餅にした。醤油と砂糖で焼いて、甘辛く味をつける。すると米もいい具合に炊けてきたようだった。
 少し蒸らしてから土鍋のふたを開けると、米粒がぴかぴかに立っていて、おいしく炊けたことがわかる。とりあえずのお皿にもりつけて、サバ缶カレーを回しかけた。「はい。できあがりです」
 所要時間は四十五分。最短でおいしい物ができたことに満足する。
 いただきます、と言って、美夜がスプーンでひとくち目を食べるのを、じっと見ていた。「……おいしい」
「良かった」
 すぐ調理ができるサバ缶があってほっとした。ほっとすると同時に、昔のことが不意に脳裏によみがえる。
 ――母さんおかえり、疲れた?――
 ――疲れたよ。ご飯はなに――
 ――今日はハンバーグだよ――
 ――京介の作ったハンバーグは、世界一おいしいね――
 小学生のころから、おいしい物をいっぱい作ろうと心に決めていた。
 ――おかえり母さん、今日はミネストローネにして、おいしくできたよ。ねえ、酔っ払ってるの、大丈夫――
 ――うるさい! さわるな!――
 ――ラップかけとくね。温めて食べてね――
 だんだんと、ラップをかけたそのままの皿が朝、冷たくなったままで置いてあることが多くなっていた。もっと頑張ろう、もっとおいしい物を、っていつも考えていて。
「どうしたの。食べないの」
 はっと思考が現実に戻ってきた。
「このカレー。本当においしい」
 美夜が淡々と言っている。
 グラスの炭酸水の泡が、無音で上がっていく。
 もう気づいていたのだけれど。表情に乏しい美夜は、まだ自分の前で、一度も笑顔を、というか、笑顔の気配すら見せることはなかった。
 でも、もしいつか、自分の作ったご飯で、笑顔にすることができるなら――
 捨てたような命だけれど。
 一つ目標ができた。
「でしょう。僕、作りますから。安くて、おいしくて栄養があるものを」
 そして、あなたを笑顔にできるようなものを。
 京介は勢いよくサバ缶カレーをかきこんだ。

 

 

 鑑識部屋に呼ばれた根元は、面倒だなあと思いながらドアを開けた。
 鑑識の唐崎はガンマニアで、銃の蘊蓄話が長いことにうんざりしていたからだ。うまく会話の隙をついて、じゃあ私はまだ書き物がありますので、とうまく抜け出そうと目論んでいた。銃の事件が少ないこの日本では、他にやることが山積みになっているというのに。
 そんな、薬物中毒のチンピラが銃を暴発させたというだけの話に、これ以上の話をひろげる余地がどこにあるというのか。
 唐崎は、分解したトカレフを前に、腕組みをしていた。しかしその目には光があった。何かを見つけた目だ。
 一つ、ピンセットでつまんだものを、トレーに落とした。カランと言う音が響く。
「トカレフの口径はいくつだ」
 こんな風に、いちいち謎かけをしてくるのも嫌だった。結論から先に言って欲しいものだ。
「7・62㎜。トカレフ弾を使います」
「そしてこれは、なあんだ?」
 トレーにのったものを示す。金属が、へしゃげている。
「不思議だねえ。弾丸が、一つ多い」
「多いってことはないでしょう。何かの間違いではありませんか」
「でもなあ。明らかに一発多いんだわ」
「多い……」
 これが何を意味するのか。
「あの時な、全員が言っていたろう。突然、銃が暴発したってな。突然、銃が暴発する? なにも犯人が動作していない時に? それも、気の毒な女の子が喘息の発作を起こしたという、ばっちりのタイミングでよ。そんなはずがあるかってんだ」
 唐崎は、その金属の塊を静かに見つめた。
「あの場に、誰か居たのは確かだ」
「そんなはずありませんよ。もし銃なんて撃てば銃声が鳴り響いて、その場の全員が気づくでしょうし」
「世の中には、特殊な銃がいっぱいあるのを知らねえな? それを自分の手みたいに完璧に使いこなしながら、そいつは撃った。男に当てたり、他に弾丸が逸れれば、たちまちばれちまうのを承知で。木を隠すなら森だ。一瞬のタイミングで、そいつは撃ったんだ。犯人の銃の、銃口の奥を狙って。それも、銃口が水平になった瞬間にな」
「まさか」
 根元は、拳銃訓練を思い出していた。銃なんて、動いていない的ならまだしも、そうそう当たるものではない。正直、動く的なら五メートル離れた相手にも当てられる気はしない。自分にそんな発砲の機会が来なくて本当によかったと思っている。
「定年前に、とんでもねえものを見つけちまったなあ……」
 唐崎は、ピンセットでその金属の塊を持ち上げて、しげしげと眺めた。
「間違いねえ、こいつを撃ったのはバケモノだ」

 

 

 

第二話 式とドレスとマシンピストル

 

 真っ白なウェディングドレスを着ている美夜は、どうにかなりそうなほどに綺麗だ。
 今日は眼鏡をかけていない。正面に立って目を伏せている。いつもはすっと伸びている長いまつげも、メイクさんの手によってカールをかけられており、つけまつげもしているのか、いつもよりももっと目が大きく見える。すっぴんでも白い肌は、念入りな化粧によって毛穴一つ無い陶器のような肌に仕上げられていた。なんだか目の前にいると、息をするのもためらわれるくらいに緊張してしまう。
 こうやって美夜とふたりで式を挙げられるなんて夢のようだと思う。でもこれは夢じゃない。
 今からふたりだけの結婚式が始まる。
 なんて、にやけている場合じゃない、この結婚式が始まって終わるまでの間で、ふたりでどうにかしてやり遂げなくてはいけないミッションがある――

 


 

京介と美夜の運命は一体…!?

気になる続きは本日発売の「二丁目のガンスミス」をチェック

 

銃器監修:櫻井朋成
イラスト:SAA

 


 

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