2025/05/29
ちょっとヘンな銃器たち17 Bär Pistole 厚さわずか11mmの手動回転式拳銃
厚さわずか11mmという極端に薄いピストルが20世紀初頭に存在した。2発撃ったらシリンダーに相当するチェンバーブロックを手動で180°回転させればあと2発を撃てる。他のピストルと比べて、この銃のアドバンテージは“薄さ”だけだった。
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*GP Web Editor補足:今回この銃をベールピストルとしてご紹介していますが、一般的にはBär Pistol、またはBear Pistol(ベアーピストル)として知られている場合が多いものです。
ブルカルド・ベール
19世紀末から20世紀初頭に掛けて、ヨーロッパで活躍した銃砲設計者の中には、その経歴や活動が謎に満ちた人々が多い。今回紹介するベールピストルの開発者ブルカルド・ベール(Burkard Behr)もそのような、素性不明の設計者のひとりだ。
この時代の銃砲開発者の多くが、銃砲の開発に留まらず、多くの分野において、新時代の機械や道具の設計者として活動した。ブルカルド・ベールは銃砲の開発を中心に活動した人物だが、他にも弾薬、信号弾、そして火砲の反動吸収砲架、砲兵用の防御装置、さらには救助用のワイヤー射出装置、家畜の屠殺用具など、様々な物を発明・開発して、パテントを取得した。ブルカルド・ベールの取得したパテントは生涯を通じて52件に及ぶ。にも関わらず、その経歴に関しては不明な点が多い。
今回紹介するベールピストル関連のパテントは、最初のものが1897年にドイツで申請されて取得されている。そしてその翌年の1898年には、その改良型ピストルのパテントが、やはりドイツで取得された。この1898年のパテントに記載されているピストルと同型のものが、翌1899年にアメリカでパテントを取得されている。この他ベールピストルに関するパテントは、イギリス、フランス、スイス、ベルギー、ロシアでも取得された。

彼が次々とパテントを取得してくれたおかげで、ほとんど記録が残っていない彼の足跡の一端を辿ることができる。実は最初の1897年のパテントは、ブルカルド・ベール自身の名前ではなく、スイスのチューリッヒに住んでいたバケリー・シャラパル(Vakerie Schlapal)という女性が申請して取得したものだ。それに続く1898年の改良型パテントも、同じ女性によって取得されている。彼女はおそらくブルカルド・ベールときわめて親しかった人物だと思われるが、二人の関係については全くわからない。
1899年に取得されたアメリカパテントで、初めてブルカルド・ベールの名前が現れる。当時のアメリカパテントは、パテントの最初の部分に申請者の名前と国籍、パテント申請時の居住地を記載するのが基本だった。アメリカパテントを取得するのに際して彼は初めて、自身がこのピストルの開発者であり、帝政ロシアの国籍を有することを明らかにしている。
ブルカルド・ベールに関しては謎が多く、その生年月日も明らかでない。そこには、彼の国籍が大きく関係していたと考えられている。そしてパテントに記載されている居住地がスイスのチューリッヒだという事も暗示的だ。帝政ロシア出身で、銃の開発者となったということは、かなりの高等教育を受けていたことを意味する。当時の帝政ロシアで高等教育を受けられるのは、ロシア貴族の子弟か、ひと握りの豪商の子弟だけだった。
帝政ロシアでは、17世紀末ごろから、貴族層の中に自由主義的な思想を持つ者が現れ、これは19世紀初頭のナポレオン戦争を経て、一層盛んになり、遂には1825年のデカプリストの乱に発展する。これはロシア皇帝に対する貴族将校(デカプリスト)の武装蜂起だ。しかし、この反乱はニコライ一世により、わずか1日で鎮圧された。
封建的なロシアの帝政に反旗を翻したデカブリストたちの多くは、大学で学問を学んできた貴族の子弟たちだった。ニコライ一世は反乱の首謀者5名を絞首刑し、多くのデカプリスト達を流刑にしている。そして秘密警察として皇帝直属官房第3部を創設して、反政府活動を弾圧した。これを受けて、帝政に反対するデカブリスト達はヨーロッパ諸国に逃亡し、亡命生活を送るようになった。当時スイスのチューリッヒには、その亡命ロシア人のかなり大きなコミュニティがあったようだ。

ブルカルド・ベールが生きたのは、それより半世紀も後の時代だ。しかし、ロシア帝国では1880年にアレクサンドル二世暗殺未遂事件が発生、これを受けて皇帝直属官房第3部が廃止され、新たに内務省警察部警備局(オフラーナ)が創設されている。オブラーナはロシア帝国に対する反政府活動を厳しく弾圧した。
断片的にわかる事実を積み重ねると、ブルカルド・ベールはデカブリスト的思想を引き継いだ者達の一員だった可能性が高い、という推測にたどり着く。これはあくまでもリポーターの推測だ。そう考えると初期のパテントが彼の名前でなく、おそらくスイス人であろう女性の名前で申請されて取得されていたことも符合する。ロシアから離れたスイスにあっても、ロシア国籍のブルカルド・ベールは秘密警察オフラーナに対する警戒を緩めることはなく、自らの名を世に出したくなかったのではないだろうか。
ブルカルド・ベールが発明したピストルは、このベールピストルだけで、その後の時代に主流となるセミオートマチックピストルの開発をおこなったことは確認されていない。ベールピストルの開発後、ブルカルド・ベールの関心はもっぱら水平二連のハンティングライフルの開発に向かったようだ。実際に水平二連のハイパワーライフル改良型がいくつも製作され、多くのパテントを取得している。
1903年に取得されたパテントからは、彼が新たに居住地をスイスのチューリッヒからドイツのブレーメンに移し、そこで銃砲製造会社ベールズ インダストリー(Behrs Industrie GmbH)を興したことが読み取れた。
翌1904年に取得されたアメリカパテントからは、居住地がドイツのハンブルグに移り、帝政ロシアの国籍を捨て、新たにドイツ国籍を取得したことがわかる。
1907年までにブルカルド・ベールはドイツの銃砲生産の中心地ズールに移り、そこでベールズ バッフェンベルグ(Behrs Waffen-Werke GmbH)を創設した。この頃になると彼の工房で生産される中折れ水平二連ライフルを扱う代理店は、デュッセルドルフ、ライプチヒ、マグデブルグ、ストラスブルグなどに広がった。
その後もブルカルド・ベールはズールに居住し続け、それ以上移転することがなかったようだが、その没年は記録されていない。

ベールピストルの販売
話をベールピストルに戻す。このピストルが開発されると、ブルカルド・ベールはその製造権をドイツの銃砲製造メーカーである、J.P.ザウアー&ゾーン(J.P. Sauer & Sohn)に譲渡する。そこでベールピストルは量産されてドイツを中心に販売された。ピストルの構造については後で詳しく解説する。
薄く携帯しやすいベールピストルを、J.P.ザウアー&ゾーンは19世紀末から20世紀初頭にヨーロッパで大流行した自転車に乗るサイクリスト達に向けて生産供給した。ベールピストルは、サイクリストの対野犬自衛用ピストル(べロドックピストル)に最適というわけだ。同時にこのベールピストルは、J.P.ザウァー&ゾーンにとって初めてのピストルとなった。当時のサイクリストと自衛用ピストルの関係は2025年1月号で解説しているので、そちらを参照して頂きたい。
J.P.ザウアー&ゾーンはこのピストルをBär Pistolとし、バレル上面に製品名として“BÄR-PISTOL.”と刻印した。このBÄRの発音は“ベア”で、ドイツ語としての意味は“熊”だ。また“Bear Pistol”と英語で書かれたドイツ語の広告もある。
なぜ熊なのだろうか。開発者であるBurkard Behrはロシア人だ。本来の名前はキリル文字で表記する。スイスで暮らした彼の回りでその名前を正しく発音できる人はおらず、比較的近い発音がBÄR、ベアで、おそらく彼はそう呼ばれていたのではないだろうか。そのため、J.P.ザウアー&ゾーンは製品名として、そのBÄRの文字をバレルに刻んだのだと推測する。
ならばこの銃はベアピストルと表記すべきかもしれない。しかし、この設計者は自ら開発した銃のパテントをアメリカで取得する際、名前をアルファベットでBurkard Behrとした。あくまでも当て字であり、本来の名前ではないのだが。それでも自らこの文字を選んだことから、リポーターとしては、この銃の名前をBehr Pistolベールピストルと表記することにした。
ちなみにブルカルド・ベールがその後、ドイツに移住し、中折れ水平二連ライフルを製造したころ、イギリス向けに輸出する銃に“BEAR”と打刻し、シベリア熊をモチーフにしたトレードマークを打刻したこともあったようだ。
販売を開始してみると、このピストルは思ったほど売れなかった。リボルバーに比べて操作が煩雑で、装弾数もすくない。半分手動式のベールピストルは、セミオートマチックピストルが一般化すると、さらに販売が落ち込み、やがて1910年代に入ると生産停止に追い込まれている。
しかし、サイクリスト向けといわれるほど薄く携帯しやすく、またその射撃操作が単純明快なところから、1914年に勃発した第一次世界大戦に召集されたドイツの兵士の中には、このベールピストルを私物として携帯し、戦地に赴いた者もいた。ベールピストルは、ドイツ軍の軍服の前面下の裏側に設けられた救急セットを入れるポケットに収まり、目立たずに持ち運ぶことができたのだ。
戦場で捕虜となり武装解除されても、軍服の前面下の内側ポケットに収められたベールピストルは、敵兵が見落とすことが多く、捕虜として移送される際にいきなり取り出して発砲し、逃走するために使用されることもあった。そのためイギリス軍部は、第一次世界大戦中に捕虜にしたドイツ軍を武装解除する際、敵側兵士の軍服の前面下の裏側の救急セットポケットのチェックを徹底するようにわざわざ注意喚起するほどだった。

ベールピストルの構造と操作
1897年に取得されたドイツパテントには、のちにベールピストルの原型となった二機種の試作パテントモデルが記載されている。
一つは2連発のもので、単身バレルが装備されている。そしてもう一つは上下に2本のバレルを装備した4連発だ。どちらのピストルも後のベールピストルと同じコンセプトで製作されている。
そのコンセプトとは、リボルバーのようなシンプルな操作性を備えているものの、リボルバーの欠点とされる左右に大きく張り出してしまうシリンダーを組み込んでおらず、全体が薄型で携帯性に優れているというものだ。ピストルを薄くするため、ベールピストルには円筒形のシリンダーが装備されていない。シリンダーの代わりにベールピストルにはフレームと同じ幅の回転式のチェンバーブロックが組み込まれている。このチェンバーブロックは、1発あるいは2発の弾薬を射撃後に、マニュアル(手動)操作で180°回転させて、次の射撃の準備をおこなうというものだ。これは半分手動の連発方式というべきものだろう。
これら試作パテントモデルが後の生産型と大きく異なっているのは、2機種とも露出式のハンマーを装備していることだった。とくに4連発のものは、構造を単純化させるためか、上下2つのチェンバーそれぞれに、2つのハンマーが装備されていた。
改良型である1898年のパテントでは、単身バレルのモデルはなくなり、上下二連バレルのものだけが残った。単身バレルで2連発は、ここまで複雑な構造にせず、もっと単純な構造のピストルで十分と判断されたためだったと考えられる。上下二連バレルの4連発なら、通常型リボルバーの6連発と比べて、約66%の装弾数が確保できるところから、その後の開発をこの1機種に絞ったものと思われる。
1898年の改良型で大きく異なったのは撃発メカニズムだ。撃発方式は先行したモデルと同じくハンマー方式ながら、携帯性の良いフレーム内蔵式となり、ダブルアクションのトリガーが装備された。内蔵されたハンマーは一つで上下のチェンバーを撃ち分ける。内蔵ハンマーの上部には、回転して位置を変えるファイアリングピンが装備された。トリガーを一回引くごとに上下のチェンバーに適合した位置にファイアリングピンが突き出す。このファイアリングピンの形式は、アメリカのレミントンダブルバレルデリンジャーやシャープスのペッパーボックスピストルに用いられたファイアリングピンの構造によく似ている。
弾薬の再装填は、フレーム後端の上部に装備されたチェンバーロックレバーを押してロックを解き、チェンバーブロックを水平にして左右両側面から排莢、弾薬の再装填をおこなう。
手動セイフティは装備されておらず、フォールディング(折りたたみ式)トリガーを前方に格納することで安全を確保する。
J.P.ザウァー&ゾーンで生産された市販モデルは、基本的に1898年のパテントに記載されたものとその操作や構造がほとんど同じだ。しかし、改良が加えられた点もある。
大きな改良が使用する弾薬だった。リポーターは市販型のベールピストルを確認しているものの、その原型となった1897オリジナル型や1898改良型の現物には巡り合っていない。しかし、パテントの図版から判断すると、これらの試作ピストルは明らかに全長の長いベロドック弾薬を使用するように設計されていた。それに対し、J.P.ザウアー&ゾーン社で製造された量産型は、それより全長が短い7mm×15.5Rリムファイア弾を使用するものとなっている。この弾薬は、ゲオルグロス社で生産供給されたが、ベールピストル専用の弾薬で、これでは消耗品である弾薬の購入補給に大きな制約があり、不便だっただろう。
1906年にベルギーのFN社がブラウニング設計の.25ACP弾(6.35mm×16SR)を使用する小型のセミオートマチックピストル、モデル1906の生産を始める。この小型ピストルは大ヒット商品となり、コピー製品も数多く生産されることになった。同時にこれらの小型ピストルで使用される.25ACP弾も急速に普及していく。
その結果、J.P.ザウアー&ゾーンは、弾薬の寸法が似て入手が容易になりつつあった.25ACP弾に着目した。都合の良いことに.25ACP弾は、リボルバーでも使用できるセミリムド弾だった。そこでJ.P.ザゥアー&ゾーン社はベールピストルを.25ACP弾を使用できるように再設計し、バリエーションモデルとして販売した。そのため、ベールピストルには専用の7mm×15.5リムファイア弾を使用する製品と.25ACPセンターファイア弾を使用する製品の2機種が存在する。いうまでもなくそれぞれのピストルで弾薬の互換性はない。
量産型ピストルの外見上での大きな改良が、グリップ部分のデザインの変更だ。携帯性と、ポケットの中で引っ掛かりにくいようにグリップ部分が丸みを帯びたバーズヘッドグリップに変更された。
パテントモデルはオリジナル型、改良型共にチェンバーブロックをフレームから取り外すには、このブロックを貫通している回転軸を抜き出す必要があった。それに対し、量産モデルは回転軸が短くされていて、チェンバーブロックと一体化されている。チェンバーブロックから突き出した短い回転軸は、上下が削り取られており、チェンバーブロックを水平方向にするとピストルのフレームから簡単に取り外せるようになった。
この改良により、チェンバーブロックの回転軸を紛失する恐れがなくなっている。またチェンバーブロックが簡単にフレームから取り外せるようになったため、より素早い弾薬装填や、装填済みのチェンバーブロックと交換することで素早い再装填も可能になった。
ベールピストルは極めて薄いピストルだ。厚さは約11mmで、同時期に盛んに作られたFNブラウニングモデル1906などと比べても圧倒的に薄い。しかし、いくら薄いといっても、2発撃ったらチェンバーブロックを手動回転させる必要があり、4発撃つと再装填しなければならない。ブラウニングの小型セミオートマチックピストルやそのコピーモデルと比較した場合、ベールピストルを選択する人がたくさんいるということはまず考えられない。そのため1914年頃には生産終了となった。総生産数は約6,000挺だといわれている。

ベールピストル スペック
口径:7mm×15.5R、6.35mm×16
全長:155mm
全高:110mm
全幅:11mm(フレーム部), 18.2mm(グリップ部)
銃身長:62mm
重量:345g
装填数:4発
撃発方式:ダブルアクション, ハンマー
安全装置:フォールディングトリガー
Text by Masami Tokoi 床井雅美
Photos by Terushi Jimbo 神保照史
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