2025/04/28
U.S. M1D ガランドスナイパーライフル
Text & Photos by Hiro Soga
1943年、アメリカ軍はM1ガランドをベースとしたセミオートスナイパーライフルの開発に着手している。この時に作られたM1C, M1Dは、ベトナム戦争中期にM21SWSが登場するまで、約20年以上にわたって使用され続けた。
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1936年、スプリングフィールド造兵廠の技師、ジョン・C・ガランド(John Garand:1888-1974)がデザインしたセミオートライフルが、“U.S. Rifle, Caliber .30 M1(通称M1 Garand)”として、U.S.アーミーのサービスライフルとして採用された。
アメリカが第2次大戦に参戦する1941年12月にはほぼその配備は行き渡っており、米軍の主力歩兵銃として運用されている。当時、米軍にはスナイパーライフルは存在せず、1943年になって暫定モデルとしてボルトアクションのM1903A4“U.S. Rifle, Caliber .30 M1903A4, Snipers”が採用された。1944年になるとようやくM1 Garandのスナイパーバージョン“M1C”が採用されているが、終戦までにごく少数のみが実戦投入されたに過ぎない。今回はM1Cのサブバージョンともいえる“M1D”を中心に、これらM1ガランドスナイパーを掘り下げてみたい。


The M1C and M1D スナイパーライフル
USアーミー史上初のセミオートサービスライフルとなる“M1ガランド”の採用が決まったのは1932年の事であった。その後も引き続き各部に改良が加えられ、最終的に軍への納入が始まるのは1936年に入ってからだ。当初の生産ラインでは、その工作の難しさや職人の経験不足から、1日に完成できるユニット数は10挺ほどでしかなく、米軍の全将兵に行き渡るには程遠いスピードでしかなかった。それでもアメリカが第2次大戦に参入する1941年には、600挺/1日の生産が可能になり、歩兵への配備がほぼ完了している。
但し、新銃の常としてM1ガランドの評判は当初あまり芳しいものではなく、古参兵からは、ボルトアクションに比べて精度が悪い、弾薬の装填が難しい、セミオートによる弾薬の浪費等が指摘されている。
特にM1ガランド独自の機構であるスプリング鋼製の“エンブロッククリップ”(En Bloc clip : 8発の.30-06スプリングフィールド弾をまとめて装填することができた)による固定弾倉への装填方法は慣れが必要であり、また8発目の発射の後、このクリップが排出される“チィーン”という音が、対戦相手にこちらのライフルがエンプティであると知らせてしまうとされた。
もっともこれらの不満はやや根拠に欠けており、フルプロダクションに入ってからのM1ガランドは、500ヤードまでなら標準のアイアンサイトで撃っても必要十分の精度を有しており、クリップの排出音に至っては、.30-06スプリングフィールド弾を8連射できるという大きなアドバンテージの前には、補って余りある欠点だといえよう。
こうしてM1ガランドの信頼性が向上してくると、前線からはスコープを装着したスナイパーライフルの要望が頻繁に挙がるようになり、U.S.ミリタリーでもスタンダードライフルであるM1ガランドのスナイパーライフル開発が始まった。
しかしエンブロッククリップ装填の構造上、スコープをレシーバーの真上に装着するのは不可能で、またスコープマウントの固定方法も可動部分が多いセミオートライフルにとっては難しい問題であった。
こうして苦肉の策として、1943年にはM1ガランド採用までサービスライフルとして使用していたボルトアクションのM1903A3に、スコープを装着したM1903A4(U.S. Rifle, Caliber .30 M1903A4, Snipers)が、とりあえずのスナイパーライフルとして採用されている。
但し、このM1903A4の前線における評判は好評というには程遠く、採用されていたウィーバー(Weaver)社製スコープ(市販の2.75倍 Model330C)はバトルフィールドにおける強度に問題があり、湿度の高い環境ではレンズ内に曇りが出てしまう傾向があった。それに何よりもベースとなったM1903A3は量産型サービスライフルであり、4-500ヤードまでの精度なら問題はなかったものの、スナイパーライフルと呼ぶには、やや実力不足の感は否めない。
M1ガランドスナイパーのプロジェクトは頓挫したわけではく、“M1E7”と“M1E8”という2挺のプロトタイプを開発するなど、完成に向けて継続されていた。
まずM1E7ではスコープマウントとして“Griffin & Howe(グリフィン&ホーベ:G&H)”社製が、その堅牢さから選ばれた。レシーバーへの装着方法は、レシーバーの左サイドに3つのねじ穴と2つの穴を開け、マウント側から3本のスクリューと2本のテーパーピンで固定する仕様であった。スコープはエジェクションポート上部を完全にクリアするよう左側にオフセットして固定され、エンブロッククリップの装填やケースの排莢には全く支障がないようデザインされている。
スコープそのものはLyman(ライマン)社の“Alaskan”モデルがM73として選定されたが、ライマン社の生産体制が整うのに時間がかかり、1944年12月の時点でごく少量(約350本)の対物レンズ側に伸縮式のサンシェードが付加されたM81(クロスヘアモデル)が納品されたに留まっている。後年U.S.アーミーが本来オーダーしていたテーパードポストレティクルモデルが、M82として納入が始まった。
1944年6月になるとこのM1E7は“M1C”として正式に認定され、“U.S. Rifle, Cal..30, M1C, Snipers”の生産に入り、終戦までに7,971挺が生産された。そして終戦間際のパシフィックシアター(太平洋戦線)にごく少数が投入されたというレコードが残っている。

全長:1,105mm
銃身長:24“
重量: 4.65kg
作動:ガスオペレーション クローズド ロテイティングボルト
口径: .30-06 スプリングフィールド
装填システム:8連エンブロッククリップインターナルマガジン
トリガー:ミリタリー2ステージ
仕上げ:パーカーライズド
もう一つのM1E8は、基本的にスコープのマウンティングデザイン(これはジョン・ガランドが自らデザインしたもの)が違うだけだ、M1Cがオリジナルのレシーバーに加工が必要なのに対して、M1E8は別加工のマウンティングブロックをM1ガランドのバレル後部に溶接して組み上げれば、スコープマウント側の大型ダイヤルを締め込むだけでスコープの装着が可能という仕様であった。
このM1E8は1944年9月にM1Dとして正式に認定されたが、当初のプリプロダクションモデル(本生産前の試作品)で、熱処理時にマウンティングブロック部分のバレルに歪みが発生するという問題が発覚、スプリングフィールド工廠ではその対策に追われた。これによりM1Dは“Substitute Standard(準標準)”という扱いになっている。
これら初期モデルには、ローライト(夕方等の薄明り状態)時のマズルフラッシュ(発射炎)からスナイパーのポジションを発見されてしまうのを防ぐ目的で、1945年1月に採用されたM2フラッシュハイダー(正式名称: Hider, Flash,M2)が装着されていた。これは円錐型のシートメタル部品をマズルとバヨネットラグに固定するデザインだったが、前線の兵士たちからは「精度が落ちる」として取り外されることが多かった。



またストックには防黴(ぼうばい:カビの発生を防ぐ)処理を施された皮革製のT4レザーチークパッドが装着されていたが、これは頬部分の高さ調整が目的ではなく、左側にオフセットされたスコープを覗き込みやすいよう、右目の位置を左に寄せるためのものであった。
初期モデルには前述したLyman社製M81、もしくはM82スコープが装備されたが、Lyman社ではミリタリーオーダーを満たすのに時間がかかっていた。そこで1945年4月、Libby-Owens-Ford(リビーオーエンスフォード:LOF)社製の新しい2.2倍スコープM84が採用される。この新スコープは、銃器研究家で数々の書籍を遺したPeter R. Senich(1938-2004)氏の著書によると、USミリタリー用として4万本以上が数社によって製作されたとなっており、M1C,M1D,M1903A4用のスコープとしては最もポピュラーなモデルとなった。
M84 Scope
メーカー: Libby-Owens-Ford
フォーカス:ユニバーサル(固定フォーカス)
倍率:2.2倍
視野(Field of view): 27フィート at 100ヤード
チューブ径: 0.87インチ(22mm)
レティクル:水平クロスワイヤー付きポスト
全長:13.2インチ(ラバーアイピース後端からサンシェードを伸ばした前端まで)
エレベーション&ウインデージ: 1MOA/1クリック ノブ1周で40MOAムーブメント
