2025/04/27
【NEW】無可動実銃に見る20世紀の小火器196 Heckler & Koch SL8-1
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無可動実銃に見る20世紀の小火器196
Heckler & Koch SL8-1
Satoishi Matsuo
1998年、H&KはG36をベースにしてその外観を大幅に変えたセミオートライフルを製品化した。当時、アメリカで施行されていたアサルトウエポン規制の適用を回避するためだ。この銃が登場するバックグラウンドを、1968年のGCA68までさかのぼって解説したい。

G36民間市場向けセミオートモデルの代わりに生み出されたSL8-1は、1994年のアサルトウエポン規制を回避すべく、その外観からアサルトライフルっぽさを消している。
GCA68
Gun Control Act of 1968(GCA68)は、1968年10月22日に法制化されたアメリカ合衆国の連邦法だ。それまでのNational Firearms Act of 1934(国家銃器法1934:NFA34)と、Federal Firearms Act of 1938(連邦銃器法1938:FFA38)を更新し、新たな規制項目を追加している。
この銃規制が施行されたのは、1963年11月22日に発生したジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件がきっかけだ。元海兵隊員のリー・ハーヴェイ・オズワルドがテキサス州ダラスでパレード中の大統領をCarcano Model 1938(カルカノM1938ライフル)6.5×22mmで狙撃し、死に至らしめたという事件だが、現在に至るまで多くの謎が残り、様々な陰謀説が取り沙汰されている。
犯行に及んだとされているオズワルドは、偽名を使い通信販売でカルカノM1938を購入したことから、州をまたいで通信販売による銃器購入を規制する法案が同年の内に提出された。しかしこれは議会の激しい反対で可決成立することはなかった。
3年後の1966年8月1日にテキサス大学オースチン校で、無差別乱射事件が発生した。現在までアメリカで繰り返し発生している無差別乱射事件のもっとも古い事例と言われているもので、“University of Texas Tower Shooting”(テキサスタワー乱射事件)として知られている。
この犯行に使用された銃は、レミントン700ボルトアクションライフル、レミントン740ポンプアクションライフル, ユニバーサルM1カービンクローン、ソウドオフ12GAセミオートショットガン、S&Wモデル19、ルガーP08, ガレーシー25口径ピストルというものだった。
また1968年4月4日、公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスで、レミントン760 .30-06口径によって暗殺され、さらに6月5日、ロバート・F・ケネディ上院議員がカリフォルニア州ロサンゼルスで、アイバージョンソン カデット55-A .22LRリボルバーで暗殺されるなど、銃を使った重大事件の続発を受け、銃規制強化の動きが活性化し、1968年にこの銃規制法案が可決した。
GCA68は銃器を購入することができない人物の定義を明確に定めると共に、銃器の販売に関する免許制度を導入している。これがいわゆるFFL(Federal Firearms License:連邦銃器免許)で、FFLを保有する銃器販売業者は、以下に該当する人物に銃器を販売することが禁じられた。
・州外居住者
・未成年者
・重犯罪者、および重罪で起訴されている人物
・逃亡者
・銃器の購入を制限されている人物
さらにFFL保有業者は、シリアルナンバーを含むすべての販売記録を保存することを義務付けられた。
そしてもう一つ、GCA68は、“スポーツ目的”ではない外国製銃器の輸入を禁止している。ここでいう“スポーツ”の定義について、後にGCAを施行管理するアルコール・タバコ・火器取締局 (ATF)は、“一般的な狩猟と伝統的な射撃競技”と述べたらしいが、現実的にはこの法規制が外国製銃器の輸入に大きく影響したわけでは無さそうだ。但し、筆者が知る限り、1つだけ明確に輸入禁止となったカテゴリーの銃がある。それが、外国製小型ピストルだ。
このGCA68によってワルサーPPKがアメリカに輸入できなくなり、代わりにPPのフレームとPPKのスライド、バレルを組み合わせたPPK/Sが作られたことは広く知られている。PPKが輸入できなくなったのは、この銃の全長と全高を合計したところ、10インチに満たなかったからだ。具体的には2mm足らなかった。小型ピストルの定義として、この10インチという値がどのように定められたのかはよくわからない。
そして小型過ぎる外国製ピストルの輸入ができなくなったのは、このタイプのピストルが “スポーツ目的”の銃だと見做されなかったからだ。確かにこんな小型のピストルを使ったスポーツは無いのだが、だからといって、このような小型ピストルを輸入禁止にすることに意味があるとは思えないし、銃器を使った犯罪発生を未然に防ぐ効果は全く無い。同じ大きさのピストルをアメリカ国内で生産すれば、全く問題なく購入所持ができるからだ。
事実、当時ワルサー製品を輸入販売していたインターアームズはPPKのアメリカ国内生産を計画、実行に移した。その結果、アメリカ製PPKが誕生したことはよく知られている。
このGCA68により、小型ピストル以外にも輸入禁止となったカテゴリーの銃があるのかもしれないが、少なくとも筆者は聞いたことがない。一説には、“スポーツ目的テスト”なる判断基準が定められ、輸入して良いかどうかの判断がなされたとも聞くが、もう56年以上前の話であり、今となってはよくわからない。
そもそもこのGCA68の外国製銃器の輸入制限は、当時、ヨーロッパから第二次大戦で使われた中古銃器がサープラス品として大量に輸入されることを阻止する目的があったらしい。それがいつの間にか小型ピストルの輸入禁止という全く違うものに変化してしまった。
いずれにしても銃規制推進派は、このGCA68を皮切りにアメリカにおける銃器類の規制をどんどん進めていこうと考えていたようだ。確かにGCA68はFFA38以来の銃規制であり、規制推進派にとっては大きな前進だといえるだろう。但し、その思惑通りにはならなかった。
一方、銃規制反対派としては、この程度の規制に留めることができて、一安心と捉えていたらしい。当時はまだNRAも強力なロビー活動をしておらず、NRA会長もこの程度の規制は仕方がないと捉えていたようだ。
GCA68により、輸入ができなくなったのは、実質的に小型ピストルだけだったのだが、それから20年後、再び外国からの輸入銃器を規制する動きが活発化した。
外国製セミオートライフルの輸入規制
この約20年間、アメリカのライフル市場は大きく変化していた。1968年の段階では、アサルトライフルベースのセミオートモデルは、国産のAR-15と、輸入品のセトメライフルぐらいしかなかったのだが、1985年には、FN FAL& FNC, ガリル308、HK-91、 93、94、SIG-AMT 308、PE-57(StG-51)、SAR-48(FAL)、ベレッタAR-70 & BM-59、AUG、バルメM76 & M82, 大宇MAX-1 & MAX-2, エジプト製AKMなど、様々なアサルトライフルベースのセミオートライフルが輸入されていた。もはやGCA68で掲げられた“スポーツ目的ではない外国製銃器の輸入禁止”といったルールは形骸化していたように思える。
だが現実には、銃規制推進派と銃規制反対派との間では様々なせめぎ合いがあったようだ。それは1986年5月19日に施行されたFirearm Owners' Protection Act (銃器所有者保護法:FOPA) of 1986などにも垣間見ることができる。
この法律は、これ以降に製造されたフルオート火器の民間での所有を禁止したものとして知られているが、法律自体は、その名の通り、銃器所有者やFFLディーラーが不当に処罰されることがないよう、GCA68で定めた規制を部分的に修正するといった内容が含まれている。
そして1988年になると、何らかの事から、アサルトライフルベースのセミオートライフルが民間市場で自由に販売されていることが槍玉にあがったようだ。平たく言えば、スポーツ目的とは思えないセミオートライフルが、何の制約もない状態で輸入されているは問題だ、といった話だ。
GCA68の内容に従えば、アサルトライフルベースのセミオートライフルは本来は輸入できない種類の銃と見做されても仕方がない。
1988年はアメリカ大統領選挙の年だった。選挙期間中、NRAの終身会員であり、ハンターでもあるジョージ・H・W・ブッシュ大統領候補は、このアサルトライフルベースのセミオートライフルの輸入規制に反対立場をとっていた。しかし、選挙に勝利し、第41代アメリカ合衆国大統領となった後、一転して、輸入禁止を推進するようになった。
そのきっかけは、大統領就任式の3日前である1989年1月17日に、カリフォルニア州ストックトンの小学校で発生した銃乱射事件だ。児童5名が死亡し、32名が負傷したこの事件には、中国製AKが使用された。この悲劇により、世論は一気に銃規制推進が主流となり、ブッシュ政権もその世論に圧され、3月に海外製アサルトライフルベースのセミオートライフルの輸入を差し止め、4月にはこれを恒久的に禁止している。
この事件で使われた銃が、AKというそれまでこの種の事件ではほとんど使用されたことが無い銃であり、世間一般はこんな危険な銃が容易に購入できることを改めて認識した。これによって規制推進の機運が一気に高まったらしい。それがこの規制を成立させる大きな原動力になったと思われる。
もっとも、この法規制は銃犯罪や乱射事件の抑制にほとんど効果は無かった。外国製品の輸入を禁止しただけで、既存に輸入されたものが市場に数多く出回っており、さらにはアメリカ製アサルトライフルベースのセミオートライフルには何の制約もないため、外国製にこだわらなければ、いくらでも入手できた。それ以前の問題として、このような乱射事件が発生する原因を、銃が存在するからだと単純化し、その銃を規制したところで、問題の解決にはならない。本当の原因は、もっと別のところにあるはずだからだ。

外観は大きく異なっているが、グリップやトリガー、マガジンハウジング、ハンドガード、セレクターなどの位置、そしてサイトシステムの装着位置等が限りなく似ている。メカニズムもある程度の互換性があって、基本的には同じ銃だといえる。
G36画像 Photo by Masami Tokoi/Terushi Jimbo
アサルトウエポン規制
しかし、銃規制推進の流れはこの輸入禁止にとどまらず、それから5年後にViolent Crime Control and Law Enforcement Act of 1994、通称“Federal Assault Weapons Ban”(アサルトウエポンズバン:AWB)に発展する。これはアサルトウエポンに定義されたセミオートライフルとハイキャパシティマガジンの民間向けの製造を禁止したもので、1989年の輸入禁止から大きく踏み込み、国内での製造も禁止した。
この銃規制により、アサルトウエポンと称される、アサルトライフルをセミオート化したライフルは市場から消えていき、それらを使った銃犯罪や乱射事件も無くなっていくはずだ…少なくとも銃規制推進派はそのように考えていた。
しかし結果は違った。それから10年後、AWBは犯罪抑制にほとんど効果がないと判断された(これについては諸説ある)。そしてAWB失効し、アサルトライフルベースのセミオートモデル、およびハイキャパシティマガジンが2004年に民間市場に戻ってきた。そして現在に至っている。
長い前段となったが、今回採り上げたヘッケラー&コッホ製SL8-1は、そのようなアサルトライフルベースのセミオートライフルが規制されていた時代にデザインされたスポーツライフルなので、それに至る経緯を詳しく解説した。
ヘッケラー&コッホのスポーツライフルについては、本連載2024年3月号の”H&K SL6”でその歴史を詳しく解説している。ヘッケラー&コッホがスポーツライフルに対し、どのような経緯で製造をおこなってきたかのかは、そちらを参照にして頂きたい。今回は重複を避けるためにSL8に絞って解説する。
1994年のAWBでは、それまで曖昧であったアサルトウエポンの定義について議論された。
もともとアサルトウエポンなる言葉は、1984年に銃規制推進派が、軍用銃に近い形状の銃器を相称する形で作り出した造語で、その時点では何をもってアサルトウエポンと見做すかは全く重要視されていなかった。単に危なそうな銃というイメージを広めることが目的だったと思われる。しかし、それでは法的な規制はできない。
そのため、この1994年にアサルトウエポンの明確な定義が決められ、ライフルタイプについては以下のように決まった。
セミオートマチックで、11発以上の装弾数を持つ着脱式マガジンを有し、下記の項目に2つ以上該当するもの
・フォールディング、もしくはテレスコピックタイプストックを有するもの
・独立型ピストルグリップを有するもの
・着剣装置を有するもの
・フラッシュハイダー、もしくはそれを装着できるようスレッド付きバレルを有するもの
・グレネードランチャーを装着したもの
この法律が可決する可能性が現実味を帯びた1994年初めから、これに該当するライフルを製造していたメーカーは急遽増産に踏み切った。いわゆる駆け込み需要に対応するためだ。1989年から1993年まで、このカテゴリーに属する銃の年間平均製造数は91,317挺だったが、1994年は9月12日までに203,578挺が製造されたというデータもある。また大容量マガジンも大増産された。この日までに製造された銃やマガジンなら、それがアサルトウエポンであっても所持ができたからだ。