2025年5月号

2025/03/27

無可動実銃に見る20世紀の小火器195 BREDA M1930 Light Machinegun

▲第二次大戦におけるイタリア軍の主力ライトマシンガン ブレダM1930
この銃に関して記載している文献で、好意的な内容のものは、ほとんど見た事がない。軍用火器としては確かに問題が多かったのだろう。しかし、面白いメカニズムと操作性を持っており、現代の銃では味わえない独特な魅力を持っている。

 

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Perino Machinegun

 イタリア王国はマキシムマシンガンを最初に導入した国だ。マキシムの完成から3年後の1887年にマキシムを採用し、最終的にかなりの数を購入している。
 しかし、イタリア軍はできれば国内で開発された自国製のマシンガンを採用したいと考えていた。もし戦争が起こり、供給元が戦争当事国となれば、銃の輸入は困難になってしまう。そのような事態を避けるには、武器は自国生産が理想だ。自国開発とすれば、機能や性能についても、自国軍の意向を盛り込むことが容易になる。
 国産マシンガンの開発は、1900年、イタリア陸軍の砲兵技術者(Tecnico dell'Artiglieria)であったジュゼッペ・ペリーノ(Giuseppe Perino)によって始められた。イタリア軍はこのペリーノが開発しようとしているマシンガンに大きな期待を寄せていたらしい。
 ペリーノの試作したマシンガンは空冷式だったが、バレルジャケットには強制的にエアを取り込むためのピストンが付いていて、連続射撃時のバレルの温度上昇を抑える工夫が成されていた。作動方式はショートリコイルオペレーテッドで、銃口部に取りつけられたマズルブースターによってバレルのショートリコイルを補助し、ロッキングを解く。しかし何よりも特徴的なのが、その給弾システムだった。
 独特な構造の20発入り板状ベルトクリップを箱型ホッパーマガジンに5個重ねてセットし(合計100発)、左側から給弾する。重なったクリップは、最下段から銃に取り込まれていくのだが、クリップ右端の弾薬から順に、ボルトの動きによって前方向に弾薬が抜き出され、そのままチェンバーに送り込まれていく。撃発後、空薬莢はエキストラクターによってチェンバーから後方に引き出され、なんと先ほどのクリップの同じ位置に戻る。と同時にクリップは、1発分右方向に動き、ボルトは次弾をクリップからチェンバーに送り込む。これがフルオートで繰り返される。
 ペリーノは射撃後の空薬莢が地面にばら撒かれることを嫌い、この排莢システムを考案したらしい。20発撃つたびにきれいにクリップに戻った空薬莢が20発分まとめて右方向に排出される。なんともお行儀のよいマシンガンだ。また20発の空薬莢が排出されたら、次の20発クリップで同じことが繰り返される。
 箱型ホッパーマガジンにはすでに述べた通り、5個重ねてクリップが入っている。その箱型ホッパーマガジンの最下段にあるクリップから順に使われていくので、このマシンガンの横にいる機関銃手補助要員が、左側の箱型ホッパーマガジンの最上段に20発入りのクリップを補充することで、継続的な射撃が可能となるわけだ
 イタリア軍はこのペリーノマシンガンの存在を海外から隠し、極秘扱いで試作モデルのテストを続けたらしい。

 

▲ペリーノマシンガンのマニュアルに載っている画像。左側の箱型ホッパーマガジンと右側に突き出した板状のクリップが写っている。右側のクリップに収まっているのは射撃後の空薬莢で、20発撃ち尽くすとこのクリップが排出され、地面に落ちる。空薬莢をまき散らさない行儀の良さだ。


 しかし、この銃の開発は遅々として進まず、痺れを切らしたイタリア軍は1908年、マキシムマシンガンとの比較テストを極秘におこなった。
 その結果、イタリア軍はペリーノの採用を諦め、新たなマキシムマシンガンを追加購入した。
 1910年になって、やっとペリーノマシンガンの改良型が完成したものの、結局、ごく少数が納入されただけで終わっている。

 

FIAT Revelli M1914

 第一次大戦が始まり大量のマシンガンが必要となると、イタリアは軍のサービスピストルであるグリセンティM1910を設計した実績があるAbiel Bethel Revelli(アビエル・ベテル・レベリ:1864-1929)大尉が開発したフィアット レベリ(FIAT-Revelli)M1914を採用した。
 フィアットは、1899年に設立され、現在まで続いているイタリアの自動車メーカーFIAT(Fabbrica Italiana Automobili Torino)で、当時はマシンガンの製造供給に意欲的だった。
 このことからも、ペリーノマシンガンは、最終的にイタリア軍が満足する性能には至らなかったことが推測できる。
 フィアット レベリM1914は、ムービングバレルによる独自のディレイドブローバックによって作動するマシンガンだ。そのシステムはグリセンティM1910ピストルでも採用されたスイングウェッジによるものだ。簡単に言ってしまえば、ボルトの動きを遅らせるためにハンマー状のパーツがボルトの後退を阻んでいるに過ぎない(最終的にスイングウェッジは銃の高圧に負けてボルトは解放される)。もちろんその大きさと掛かっているテンションはグリセンティピストルとは全く違うのだが、こんな単純な方法で6.5×52mm弾を使用するヘヴィーマシンガンのボルトの動きをコントロールしているわけだ。
 またこの銃は水冷式だが、一般的な水冷式はSteam Condensing Tube System(蒸気凝縮管システム)を採用しているのに対し、フィアット レベリはWater Circulation System(水循環システム)を採用している。
 この銃のマガジンも独特で、カルカノライフルの5発用クリップを縦に並べた10個のマルチコンパートメントに収めたハーモニカタイプ50連マガジンを側面から装着して使用する。これは1カ所のコンパートメントが空になるとその分だけ横にマガジンが移動し、次のコンパートメントから弾薬を給弾するというもので、マガジン自体が大きく嵩張り、かつ重い。
 この銃を解説する多くの資料には、カートリッジ オイリングシステム(薬莢給油装置)が装備されていたと解説されている。装填排莢をスムーズにおこなうため、少量のオイルをカートリッジに塗るというもので、自分も以前書いた記事ではそう記述した。
 だが、それは事実ではないらしい。現存するフィアット レベリM1914には確かにそのようなオイリングシステムが付いているのだが、それは1930年代に追加されたもので、一次大戦中に使われたM1914には無かった機能だった。
 この銃は第一次大戦を経て、第二次大戦までイタリア軍によって使用され続けた。おそらくM1914を使用する上において、弾薬に少量のオイルを塗布する方が信頼性は高いと判断したのだろう。その理由はブレダM1930の項で解説する。

 

▲左側はマニュアルに載ったフィアット レベリM1914の画像。箱型ハーモニカマガジンが装着されている。右はパテント図に載っているマガジンのイラストだ。カルカノライフルの5発クリップを縦に並べている。これが横に動いて給弾する。パテント図なので、クリップを20個、合計100発が収まるようになっているが、実際に量産されたマガジンは5×10で装弾数は50発だった。


 第一次大戦時、フィアットはイタリア軍の要求に従ってフィアット レベリM1914の製造と供給を続けたが、イタリアはさらに多くのマシンガンを必要としていた。そこで不足分を補う意味で、SIA(Societa Italiana Ansaldo)製のM1918が登場している。
 ジュゼッペ・アグネリ(Giuseppe Agnelli)が設計したこの銃は、ロータリーボルトロックで、ボックスマガジンがトップマウントされている。本体重量は約11kgとなっており、約17kgもあったフィアット・レベリM1914よりも大幅に軽くなっている。
 しかし、M1918が配備される前に第一次大戦は終結し、戦後になって約2,000挺がイタリア軍に納入されただけで終わった。
 またイタリアは戦争賠償として、オーストリアからシュワルツローゼ マシンガンを大量に受け取った。しかし、その使用弾薬はオーストリアの8mmリムドのままであり、イタリア軍の制式弾薬である6.5mm×52(M91)とは異なっていた。そのため、第二次大戦が始まるまでの間、シュワルツローゼは使われることなく保管された。

 

FIAT-SAFAT M1926

 これらのマシンガンは、いずれもヘビーマシンガンにカテゴライズされるものだ。ベビーマシンガンはトライポッド等で支える必要があることから、拠点防衛兵器としては有効であるが、兵士と共に移動することが難しく、攻撃用兵器としての効果は限定的だ。そこで第一次大戦ではライトマシンガンの有効性に注目が集まった。しかし、イタリアはライトマシンガンと呼べるものは持っていなかった。
 フィアットはM1914をベースにその大幅改良という形で軽量化を目指した。そしてそれをおこなう別会社SAFAT(Societa Anonima Fabbrica Armi Torino)を設立し、M1924を経て、改良モデルFIAT-SAFAT M1926を完成させた。これはM1914の改良版ではあるが、その本体重量は約半分の8.2kgで、これならライトマシンガンといえる。
 M1914はクローズボルトであったが、M1926はオープンボルトファイアリングに改められ、空冷式とし、クイックデタッチャブルバレルを実現している。また問題のハーモニカマガジンはボックスマガジンに改められた。但し、弾薬の装填は、マガジンを銃に装着したまま、右側のエジェクションポートから、20発入りのクリップで送り込む形であった。
 M1926は約2,000挺がイタリア軍に納入された。この後SAFATは12.7mmの対空機関銃を開発に動くのだが、親会社のフィアットは銃器生産に対する興味を急速に失い、その製造設備をブレダに売却してしまう。これによって、M1926の製造は終了した。

 

BREDA M1930

 Società Italiana Ernesto Breda per Costruzioni Meccaniche(ソチェタ・イタリアーナ・エルネスト・ブレダ・ペル・コストゥルツィオーニ・メッカニケ)はErnesto Bredaによって1886年に設立された、蒸気機関車や鉄道機器の製造会社を母体とする国営会社だ。やがてこの会社で軍用機器の製造がおこなわれ、1917年には軍用航空機の製造を開始、武器製造部門として、ブレダ・メッカニカ・ブレシャーナ(Breda Meccanica Bresciana)が分離独立した。これが銃器メーカーブレダの始まりだ。
 その後にブレダは製造設備をフィアットから譲り受け、その工場体制を整えていく。そしてライトマシンガンM1930を完成させた。
 イタリアは第一次大戦の戦勝国であったが、戦争はイタリア経済に多大な負担を強いるものであった。そのため、戦後、深刻な不況に見舞われた。その状況がムッソリーニ率いるファシスト党の躍進、その後の独裁政権の誕生に繋がった。しかし、経済的に疲弊したイタリアでは、軍備刷新はままならず、第一次大戦時の兵器やその後に雑多に入ってきた兵器を使用していた。そのような状況を打開すべく、兵器統一化が計画され、新たなライトマシンガンとして、このブレダM1930が採用された。
 ブレダM1930は極めて個性的なマシンガンとして完成されている。わずかに動くショートリコイルバレルと、センターナットによって作動するリコイルオペレーテッドマシンガンで、この銃の作動方式をディレイドブローバックと表記する場合もあるが、実際はそれよりだいぶ複雑だ。

 

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