2025/12/06
【NEW】ドイツ製ステンマシンピストル ゲレートポツダム&ゲレートノイミュンスター

第二次大戦終結直前にマウザーで生産されたドイツ製ステン サブマシンガン ゲレートポツダムと、本土防衛のために生産計画が実行された究極簡易型ステンコピー ゲレートノイミュンスターについて分析する。
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ステン サブマシンガン
第二次世界大戦が始まってから約8ヵ月後の1940年5月10日、ドイツはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻、続いてフランスへも侵攻を開始した。これを阻止すべく、ヨーロッパ大陸に進出駐留していたイギリス軍だったが、ドイツ軍の攻撃は激しく、またその侵攻スピードは速かった。そのため、イギリスの派遣軍はフランス軍と共にフランス本土最北端の港湾都市ダンケルクに追い詰められてしまう。
これを受けてイギリス政府は、第一線部隊を温存させるため、フランスへ派遣したイギリス軍兵士とフランス軍兵士約35万人をイギリス本土に撤収させる決断をした。
しかし、ダンケルクの海岸地帯の多くが遠浅のいわゆる海浜で、海軍の大型船を利用して多数の兵士を短時間で撤収させることは困難だった。そこでイギリス政府は小型の沿岸漁船や個人所有のボートやヨットに動員をかけ、これに兵士を乗せて脱出させることを実行する。
小型船舶は、兵士を乗船させることが精一杯で、兵器は放棄する以外に方法がなかった。これは大型火砲や戦車、車両だけの話ではない。ひとりでも多くの兵士を脱出させるには、マシンガンやライフルも同様だ。撤収する際、武器の破壊と廃棄命令が出され、多くの兵器、武器がダンケルク地域に遺棄されることになった。
このダンケルクからの撤退がおこなわれたのが1940年5月26日から6月4日で、これはダイナモ作戦(Operation Dynamo)と呼ばれている。そして6月14日、ドイツ軍はパリに無血入城し、同月にフランスは主権国家の体裁を維持しつつも事実上、ドイツに占領された。ナチスドイツの傀儡であるヴィシー政権の誕生だ。
多数のイギリス軍第一線部隊の救出に成功したイギリス軍部にとって、次の課題となったのが帰還したイギリス軍兵士の再武装だった。ダンケルクからの撤収で、フランスに持ち込んだ武器のほとんどを失っており、戦争を継続するためには、それらを可能な限り速やかに補充しなければならない。
イギリスの軍需産業は生産を急拡大させたが、そんなすぐに武器が揃うはずはない。そのためアメリカから大量の武器貸与を受けた。
小火器の分野でも、多くの小銃、機関銃を失ったため、これの再生産が急がれた。同時にイギリス軍はそれまでほとんど装備していなかったサブマシンガンの選定、採用に動き出した。ドイツが大量のサブマシンガンで武装し、これが戦闘で大きな成果を挙げていることを目の当たりにしていたからだ。
この当時、イギリス政府はドイツ軍によるイギリス本土への侵攻計画 “ゼーレーヴェ作戦”(Unternehmen Seelöwe)が発動されることを真剣に憂慮していた。これに対抗、本土を防衛するためには、大量生産できて急速にイギリス軍の火力不足を補えるサブマシンガンが必要だ。この時点でイギリス軍はほとんどサブマシンガンを装備していなかった。“誇り高きイギリス軍兵士は、サブマシンガンという映画の悪役が使うような武器を使ったりはしない”という考え方であったが、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなったわけだ。
この新型サブマシンガン開発の要望に応えたのが、イギリスのエンフィールドロックにあったローヤル・スモールアームズ・ファクトリー(Royal Small Arms Factory:RSAF:エンフィールド造兵廠)と、そ兵器技術者のレジナルド・V・シェパード(Reginald V. Shepherd)とハロルド・J・ターピン(Harold J. Turpin)だった。
彼らは生産効率を最重視し、入手しやすい原材料を用いて、加工しやすさを限界まで追求したサブマシンガンを設計した。これがステン(STEN)サブマシンガンで、その名称は、開発者であるシェパードのS、ターピンのT、そしてエンフィールド造兵廠のENを組み合わせて命名された。
ステンサブマシンガンは円筒状のレシーバーに円筒状のボルトを組み込んだサブマシンで、多くの構成部品はプレス加工と溶接加工で製作され、きわめて生産効率の高い武器だった。もっとも初期のステン Mk 1(マークワン)はまだ従来の武器が持つ伝統を残して、木製部品が組み込まれていたが、改良されたMk II(マークトゥー)は木製部品を省き、まさに照準して射撃するだけのシンプルなサブマシンガンとなった。
Mk Iの量産開始は1941年の初めで、改良型Mk IIは同年の夏に始まっている。
当時ドイツ軍が使用していたサブマシンガンであるMP40と比較すると、ステンはその外見や仕上げなどが大幅に見劣りし、これを支給されたイギリス軍の兵士は“ステンチガン”(Stench Gun:悪臭銃)や”ウールワースガン”(Woolworth Gun:当時イギリスで展開されていた低価格ショップ ウールワースで売られるような安物の銃という意味、当時のウールワースは現在の日本における100均ショップのようなものだったらしい)などの決して好意的ではないニッネームで呼ぶほどだった。
粗末ともいえる出来栄えのステンだったが、使用する弾薬はドイツのMP40と同じ9mm×19であり、銃としての威力に遜色はない。そして特筆すべきは何よりその生産効率の良さだった。
オートマチック火器の不足にあえぐイギリス軍に向けて生産され始めたステンは、1942年になると大量生産に余力ができ、ドイツ占領地域で活動するレジスタンスやパルチザンに空中投下で供給するまでになる。


