2025/12/07
【NEW】Gun History Room 戦前日本で所有された拳銃の機種について 3


敗戦時の武装解除で連合軍に引き渡された日本軍の武器の中で、軍所有の正規拳銃と将校軍装用私物拳銃とが区別して記載された史料がある。これを確認することで、どのような拳銃が将校の私物として所有されていたのか、その一端を垣間見ることができるのだ。その中には意外な拳銃もあり、とても興味深い。
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レポートの性格上、Gun Professionalsで通常使用しております“ブライニング”、“マウザー”の表記ではなく、当時使われていて、現在でも一般的な、“ブローニング”、“モーゼル”と表記させて頂きます。
私物拳銃を調べていくと、敗戦時の武装解除で連合軍に引き渡された兵器について、軍所有のいわゆる制式制定、および準制式制定拳銃とが区別して記載された史料がそれなりの数量あることがわかった。
今回は、こうした史料から戦前日本で所有された拳銃の機種について見てみたい。
その前に、遺品拳銃に関連する新しい史料を発見したので紹介したい。
私物拳銃の部隊一括管理を廃止
本稿では、過去に陸軍将校用拳銃が昭和17(1941)年10月9日の陸普第7562號で「陸軍服装令に依り所持する私物拳銃保管規定」によって私物拳銃の部隊一括管理が義務付けられたことを記述した。
ところが驚いたことにアジア歴史資料センター(アジ歴) レファレンスコードC12120613500「陸普第1452号 昭和20年7月3日 陸軍服装令に依り所持する私物拳銃保管規程外一点廃止の件」によれば、私物拳銃の部隊一括管理を廃止するとしているのだ。
そしてその理由を「本土戦場化するに鑑み個人自衛用兵器の携帯を必要とするを以て」としている。つまり本土決戦をやるので、私物拳銃を持っている現役予備問わず将校同相当官及び准士官は自分の拳銃を携帯して武装せよといっているわけだ。
私物拳銃所有者の内、どの程度が部隊管理から自分の手元に拳銃を戻したのかを示す史料はないのだが、敗戦の直前に、私物拳銃所有者は陸軍の内規上拳銃を手もとに置くことが許されていたわけだ。
後世の我々は、昭和20(1945)年8月15日に戦争が終わることを知っているが、当時を生きた人々は戦争がいつまで続くのかわからぬままに、硫黄島や沖縄が次々陥落するのを目の当たりにして、間もなく本州、北海道、四国、九州が戦場になることを予測できただろう。
軍籍にあるか、かつて軍籍にあった私物拳銃所持者の多くが、この規定によって拳銃を部隊管理から自分の手元に戻したことは想像に難くない。
幸いなことに本土決戦には至らず、戦争は翌月に終わるが、この時点で私物拳銃所持者の拳銃は合法だ。
こうした規定が改正されていたことは、主に予備役軍人に由来する遺品拳銃の数量を多くしたに違いない。
以上は、2025年9月号と10月号でお届けした遺品拳銃に関する記事の補足だ。
将校軍装用私物拳銃の種類
それでは、敗戦時の武装解除に関する史料にある拳銃の機種について見てみよう。
アジ歴リファレンスC15011114900「洛陽/第110師団砲兵隊本部」には、陸軍所有の正規兵器として十四年式拳銃が記載されている。それぞれが小倉と名古屋の造兵廠製であり、次いで大型モーゼル拳銃1挺とあるので、これはモーゼルC96であろう、更に外国製拳銃とあり、先のモーゼルと同様7.6mmと記されているので中国製のモーゼルコピーであろうか。
この他拳銃ではないが、北支十九式小銃やブローニング軽機関銃などが記載されておりこうした史料には想像を掻き立てられるが、この軽機関銃はおそらく米軍のM1919A6あたりではないだろうか。
肝心の私物拳銃では、九四式拳銃と機種不明の外国製拳銃が記載されているのみだ。
アジ歴リファレンスC15011116800「洛陽 憲兵隊 接収各種兵器現有員数表」には、.25口径と.32口径の2挺のブローニング拳銃が記録されている。憲兵隊では私服捜査用だろうか.25口径の小型拳銃が良く見かけられる。
アジ歴リファレンスC15010630800「第110師団病馬廠 私物軍刀移譲者名簿」では獣医大尉がブローニング小型を、伍長がモーゼル型一號を所持している。
モーゼルは一號としているので、これは.25口径のモーゼル モデル1910と考えられ、ブローニング小型はこれも.25口径のブローニング モデル1906であろう。
松尾Web Editorが2025年のラスベガス アンティークアームズショーで撮影したもの。戦時中に鹵獲されたか、あるいは戦後の武装解除で接収され、アメリカに渡ったものかは不明だが、旧日本軍関係の銃を並べたテーブルに置かれていたということだ。
アジ歴リファレンスC15010627500「移譲兵器数量表 受領書/1.野戦病院移譲兵器集計表」では正規兵器として十四年式拳銃14挺、九四式拳銃5挺、二十六年式拳銃6挺、ロイヤル中型3挺、モーゼル大型1挺、モーゼル二号1挺、コルト型3挺、コロニアル型3挺と記載がある。
陸軍の制式準制式が制定されている十四年式拳銃、九四式拳銃、二十六年式拳銃モーゼル大型、モーゼル二号は当然としても、兵器台帳に正規にロイヤル中型やコロニアルなどのスペイン製拳銃が列記されている。
これらは国防献納運動や在郷軍人からの買取りなどで陸軍の正規兵器となった物であり、それらがどのようなものだったかを具体的に見ることができる史料といえる。
私物拳銃としてはステール拳銃(シュタイヤーであろう)、ブローニング型、ローヤル型、モーゼル中型拳銃各1挺が記載されている。
面白いのは、筆跡から同一人物が書き込んだと思われる書類に、ロイヤル中型とローヤル型と表記に揺らぎがあることだ、もしかすると同一の拳銃であるとの認識がなかったのかもしれない。
アジ歴リファレンスC15010371100 「台南兵事部連絡分部 私物軍刀拳銃引渡目録」は、台湾の台南地区の徴兵関係事務を扱う部署で、ここの大佐が南部式拳銃1挺を所有していたことがわかる史料で、大型か小型かの区別はつかないが南部式拳銃は製造時期の関係で高級将校が所持する傾向が高いことが特徴といえる。
アジ歴リファレンスC15010631000「電信第十連隊隊私物軍刀移譲者名簿」にはブローニング二號型を中尉が所持していることが記載されているが、この一號型、二號型、三號型の呼称はモーゼルC96を一號、.32口径のモデル1914を二號、.25口径のモデル1910を三號とした陸軍内の俗称が定着したもののようだ。
一方で、一號型を.25口径のモデル1910とし、三號型をC96拳銃とする説もあり、昭和18(1943)年に、モ式拳銃実包を準制式制定した際には、.25口径をモ式小型実包、.32口径をモ式中型実包、7.63mm×25口径のものをモ式大型実包としている。
しかし、その後も敗戦まで俗称は使い続けられたため、このブローニング拳銃は.32口径のもので、おそらくこの時期であるのでモデル1900ではなくモデル1910であろう。
アジ歴リファレンスC15010630300「歩兵第163連隊残留隊 私物移譲兵器連名簿綴」では九四式拳銃1挺が電信隊の少佐によって所持されていたことが記述されている。
少佐が九四式を所持しているのは不自然に思えるかもしれないが、終戦時に少佐という階級にある場合は、幹部候補生出身の予備役将校ではなく、昭和のごく初期に少佐の階級で予備役編入された古参の予備役将校でもない(こういった将校は、敗戦時は中佐か大佐に進級している)。おそらく昭和8から9年(1933~34)ごろに少尉任官した、陸士45期から46期の現役将校であると考えられる。この時期の正規将校は少尉任官直後から戦争続きで進級が早く、まだ軍歴11~12年の30代前半であるので九四式拳銃を所持していても不思議はない。
アジ歴リファレンスC15011073600「移譲兵器数量表 鄭州の分/接収兵器集計表(銃器) 鄭州の分 昭和20年10月18日」では、正規拳銃として一四拳銃4挺、二六拳銃2挺、モーゼル拳銃2挺、外国製中型拳銃2挺、コルト拳銃1挺、ブローニング拳銃3挺に続いて、私物拳銃として外国製中型拳銃1挺、北支工廠製中型拳銃1挺が記載されている。
正規拳銃の国産や外国製拳銃は、おなじみのラインナップといえるが、私物拳銃に北支工廠製中型拳銃1挺が記載されている部分が特徴的だ。
この拳銃は一般的に杉浦式拳銃として知られ、支那派遣軍が主導して設立された北支工廠で製造され、基本的に親日的な中国地方政府の軍隊に供給されたものだ。
また一部の杉浦式拳銃が陸軍部隊に兵器台帳に載った正規兵器として使用された史料はこれまでもあったが、私物として将校に個人所有されていた例は興味深い。
杉浦式拳銃は、従来杉浦工廠で製造されていたが、製造途中から北支工廠と名称を改め、その際刻印も杉浦式から☆の中に北工の漢字が刻印されたマークに変更されている。
このことからすると、杉浦式ではなく北支工廠製中型拳銃と記述されているので、☆の中に北工の漢字が刻印されたマークのの.32口径の製品と考えられる。
過去に杉浦式拳銃を調べた際に、30個体を確認しているが、その中に私物ととされていたものは1挺のみなので、今回発見した個体を含めて私物としての杉浦式拳銃は2挺ということになる。
どのような経緯で、この個体が個人所有の私物拳銃となったのかはミステリーとしか言いようがない。
2018年にトルネード吉田さんがラスベガスのアンティークアームズショーに行き、そこで撮影した杉浦式自動拳銃。
昭和16年に、杉浦治助氏が中国大陸で創業した杉浦工廠が製造したセミオートマチックピストルで、コルトM1903(ポケットハンマーレス)の簡易型コピー。杉浦工廠は昭和18年に経営状態の悪化により、岡元義人氏へ売却され、北支工廠となる。銃としては特筆すべき要素は何もない。
アジ歴リファレンスC15011072200「移譲兵器数量表 洛陽の分/歩兵第110連隊第1機関銃中隊移譲兵器数量表」には、私物自動ブローニング中型拳銃と私物ローヤル中型拳銃の各1挺が記載されていて、これら2機種は将校私物拳銃の定番と言って良いだろう。
アジ歴リファレンスC15011072300「移譲兵器数量表 洛陽の分/歩兵第110連隊第2大隊本部移譲兵器(各種兵器)数量表」には、正規兵器として九四式拳銃1挺、二十六年式拳銃1挺、軍用モーゼル式拳銃3挺、杉浦式拳銃2挺、ローヤル拳銃1挺に続き、私物拳銃として私物ローヤル拳銃、同ブローニング拳銃各1挺の記載がある。
ここでも北支工廠製拳銃と同型の杉浦式拳銃が記載されているが、こちらの個体は正規拳銃とされている。
アジ歴リファレンスC15010630900「洛陽憲兵分隊私物軍刀移譲者名簿」には、ブローニング小型を所有する少佐と、同中型を所持する准尉が記載されている。
ブローニング小型を所有するのが少佐であることから、この落陽憲兵分隊の分隊長であるとみられるので、私服潜入捜査用ではないと思われるが、憲兵隊では.25口径と思われる小型拳銃が好まれる傾向はここにも見て取れる。
以上が敗戦時に連合軍に引き渡された兵器の中に見る、私物拳銃の実態であるが、概ねこれは先月の召集解除者の所有する私物拳銃と大同小異であるが、特徴として高級将校に南部式拳銃の所有者が多いこと、憲兵隊員に.25口径の小型拳銃が多いこと、機種によって陸軍所有の正規拳銃か私物拳銃を区別できないことなどがあげられよう。
これも松尾Web Editorが2025年のラスベガス アンティークアームズショーで撮影したもの。
私物拳銃と私物軍刀
前節でみた史料では私物拳銃は、私物軍刀と併記された書類に記載されていて、まず所有者の官姓名を記したうえで、拳銃はその機種や番号が、軍刀は銘や古刀、新刀、現代刀などに分類されて記載されている。
ある意味で、当時の日本人の日本刀に対する知識水準の高さと拳銃に対する知識水準の低さを知れる史料でもある。
いずれにしても、私物の軍刀や拳銃は、元の持ち主を特定できる明細書を付けて連合軍に引き渡されているわけだ。
連合軍からすれば、こんな詳細な記載は必要が無いので、私物であった拳銃や軍刀については、特に軍刀は後日返還される可能性を日本側は期待していたのではないだろうか。
なぜなら拳銃については敗戦時に、アジ歴リファレンスC13020893800「私物拳銃買上処理に関する件」で「私物拳銃は兵器部において買上を実施することに定められたるに付き部隊において取纏め兵器部に送付するものとす、但し買上価格一挺百円(属品・弾薬共)とす」としていて、いったん陸軍の所有物としてから連合軍に移譲されているので、仮に後日返還されるようなことがあっても(実際にはそのようなことは無かったのだが)返還先は日本政府であって、将校個人ではない。
一方で軍刀に関しては、アジ歴リファレンスC01005252300「将校(准士官)に対する九五式軍刀貸与の件」によって初任の将校及び准士官に陸軍所有の正規兵器たる軍刀を貸与する制度はあったが、「私物軍刀を入手し得ざるものは、之が入手まで九五式軍刀を貸与し得る」としていて急場の対処をにおわせている。
実際には私物軍刀は、拳銃と異なり供給量が潤沢であったので下士官用の九五式軍刀を貸与されたものは極めて少数であった。
実情として将校用軍刀は、ほぼ全てが私物であったと考えられるが、私物拳銃と違って同じく私物である軍刀については陸軍が買い上げたという史料がない。
それどころか、アジ歴リファレンスC12120622500「陸普第1786号 昭和20年9月11日 私物軍刀に関する米の取扱方の件通牒」では、「日本軍将校以下の私物軍刀に関し「マ」の参謀長(連合軍最高司令官マッカーサーの参謀長の意 筆者注)より去る七日左記回答に接せり、尚右趣旨は昨九日米陸軍管下全般に亘り(第六、第八、第十及び第二十四軍團在マニラ部隊)司令せらる「若し軍刀が当該将校以下の個人的財産ならば今後何等の軍事的意義を有せず、且家宝に帰す得べき条件のもとに所有し得ること(但し佩用禁止)を通達す」としている。
この通達が、敗戦直後の通信事情でどこまで日米両軍に浸透したかは不明であるし、実際に私物軍刀を外地から持ち帰れたという話は聞かない。
また、あくまでアメリカ軍部隊へ指令された通達であるから、イギリスやオーストラリアあるいは中華民国で武装解除された場合はこの通達の適用外であろう。
しかし、このような布達が出ていたことが何らかの噂になっていて武装解除の際に将来私物軍刀が返還される可能性に期待して、持ち主と私物軍刀が紐づくような形で、移譲兵器目録を作成したのではないだろうか。
筆者が本稿で横道に逸れた私物軍刀について触れたのは、日本人が武器である拳銃と軍刀(日本刀)に対してどのような感覚を抱いていたかを考えたいからだ。
拳銃と軍刀を私有財産として考えた場合、昭和12年版の大阪偕行社酒保部発行の「軍装の栞」によれば日本刀仕込み軍刀は65円以上300円までとなっており、一方で拳銃は廉価なスペイン製ローヤル拳銃なら18円、最も高価なドイツ製マウザーモデル1914でも45円でしかない。
軍刀に関していえば、先祖伝来の名刀を軍刀に仕込んだ場合もあろうから、場合によっては300円など遥かに超える価値のものもあったはずだ。
軍刀より安価な拳銃を陸軍が買い取り、より高価な軍刀を買い取らないというのは奇妙な話で、整合性を取るならどちらも陸軍が買い取ってから連合軍に引き渡すのが筋ではないだろうか。
ただ日本陸軍的見方をすれば、将校用軍刀というのは将校が軍装をする上で不可欠であって、これが無ければ通常軍装が完成しないので、所持していて当然の装備と考えていたと思われる。
一方、将校私物拳銃は、軍刀にプラスしての追加武装で在り、所持していない者や貸与されている者も多くいるので、「余分に」私物拳銃を所持している将校は気の毒なので陸軍が買い取ったとのだ考えれば、軍刀との差は理解できなくもない。
日本の陸軍将校にとって、拳銃はステータスの一つではあっても、ステータスの第一のものはやはり日本刀を仕込んだ軍刀ということになるのだろう。
第二次世界大戦では、会敵距離が300m以上の集団戦闘となったわけで、軍刀も拳銃もほとんど兵器として意味をなさない。
よく日本人は第二次世界大戦に刀を持ち出して戦ったと揶揄されるが、当たり前の認識として当時の日本人にも、戦場で日本刀が指揮棒より少しばかりましな道具だという認識はあっただろう。
それよりも、日本陸軍将校としての容姿へのこだわりや、ファイティングスピリットの象徴として軍刀をとらえていたのだ。そして拳銃は、軍刀より二義的存在として位置づけられていたのだから、現在の基準では発砲をためらわれる様な廉価なスペイン製拳銃や、軍用拳銃にはふさわしくない25ACP口径の拳銃が“軽くて楽だ”という要件だけで選ばれたのだろう。
Text by 杉浦久也
Gun Pro Web 2026年1月号
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